芥川龍之介論
日本近代文学史は頂点に立つ作家が自殺するという特異性がある。有島武郎、芥川龍之介、太宰治、さらに三島由紀夫、川端康成と続く。草創期の作家たち、森鴎外や夏目漱石、島崎藤村や幸田露伴、芥川より少し前の永井荷風や志賀直哉、谷崎潤一郎などは人生の長短の違いはあっても、逞しい生命力を見せた。個人的資質の差があるのはもちろんだが、鴎外や漱石には明治人の強靭な精神的背骨があった。荷風や谷崎には強烈な性への欲望が息づいていた。性は生の原点である。有島武郎や太宰治は愛人と情死し、三島も若い同志と果てた。芥川龍之介にも愛人問題があったようであり、それも彼の生命力を摩損したのかも知れない。
芥川龍之介の遺稿の中に、「或阿呆の一生」という代表的な作品がある。五十一の断章を持つ告白録の性格を持った文章からなる作品である。その冒頭の断章は「時代」と題されている。この中に芥川龍之介を代表する有名な警句がある。
「人生は一行のボードレールにも若かない。」
洋書店の書棚にかけられた梯子の上から芥川龍之介が人生を一言の下に切って捨てた日本近代文学最高の警句である。この時芥川龍之介はまだ旧制第一高等学校の二十歳の学生である。二十歳の旧制高校生が明治44年の日本で人生を一刀両断したのである。
「人生は一行のボードレールにも若かない。」この警句は人生の諸々の価値はフランスの詩人ボードレールの一行の詩句ほどの値打もないと喝破したのである。
芥川龍之介は明治二十五年(1892)三月一日、東京市京橋区入船町に生まれる。辰年辰月辰日辰刻の出生のため龍之介と命名されるが、実母ふくが発狂し、母の実家芥川家の養子になる。芥川家は本所区小泉町十五番地にあった。芥川家は下町の由緒ある旧家であった。芥川龍之介は十九歳まで本所で過ごし、ここで彼の世界観、自然観、人生観の根本的な骨格が形成された。彼は大正十四年(1925)に発表した自伝的作品「大導寺信輔の半生―或精神的風景画―」の中で生まれ育った本所の風景を冒頭次のように書く。
「大導寺信輔の生まれたのは本所の回向院の近所だった。彼の記憶に残っているものに美しい町は一つもなかった。美しい家も一つもなかった。殊に彼の家のまわりは穴蔵大工だの駄菓子屋だの古道具屋だのばかりだった。それらの家々に面した道も泥濘の絶えたことは一度もなかった。おまけに又その道の突き当りはお竹蔵の大溝だった。南京藻の浮かんだ大溝はいつも悪臭を放っていた。彼は勿論こう云う町々に憂鬱を感ぜずにはいられなかった。しかし又、本所以外の町々は更に彼には不快だった。しもた家の多い山の手を始め小奇麗な商店の軒を並べた、江戸伝来の下町も何か彼を圧迫した。彼は本郷や日本橋よりも寧ろ寂しい、本所を ― 回向院を、駒止め橋を、横網を、割り下水を、榛の木馬場を、お竹倉の大溝を愛した。それは或は愛よりも憐みに近いものだったかも知れない。が、憐みだったにもせよ、三十年後の今日さえ時々彼の夢に入るものは未だにそれ等の場所ばかりである……。」
長い引用になったが、ここに芥川龍之介の紛れもない原点があるのだ。この文章はプルーストの20世紀代表する大長編小説『失われた時を求めて』を要約したものであると言っても過言ではない。ここには洋の東西、古今を問わず、人間の精神、感受性、さらには生き方の全てを説明する原理がある。芥川龍之介自身でも意識できない無意識が彼をして本所への愛を語らしめるのである。本所は大川即ち隅田川の川向うであり、江戸が発展する中で開けて行った人工の町である。そこにおける自然は野生ではなく、人工的自然であるから、非常に人間臭い、生活の匂いに満ちた自然である。飼い馴らされた家畜のような自然である。ここに近代的都会人である芥川龍之介の世界観、人生観、自然観が育ったのであり、彼にとっては野性としての自然は堪え難い恐怖の源ですらあった。金剛空間は九州の田舎育ちの野性児であるから、十八歳で初めて東京駅に降り立った時から、東京の汚さ、醜さに幻滅した。隅田川は真っ黒な水が流れ、東京湾の水も汚かったし、鎌倉や江ノ島、逗子など湘南の海にも青色はなかった。こんなところで泳ぐなどということは考えられなかった。今でも隅田川も東京湾も湘南海岸も決してきれいだとは言えない。後年家族連れで外房や伊豆の海に海水浴に行った時は青い海を楽しむことが出来た。そこには野生の自然があった。
芥川龍之介の代表作の一つである「羅生門」は大正4年(1915)年『帝国文学』に発表されたが、無名作家の作品としてまだ文壇の外にあった。芥川龍之介を一躍大正文壇の新進作家たらしめたのが大正5年(1916)2月、第4次『新思潮』創刊号に発表した「鼻」である。これを夏目漱石が賞賛したことによって芥川龍之介の作家としての道が開けた。漱石は芥川宛ての大正5年2月19日付の書簡で以下のように激賞する。
「あなたのものは大変面白いと思います。落着があって巫山戯ていなくって自然其儘の可笑味が押っ取り出ている所に上品な趣があります。夫から材料が非常に新らしいのが目につきます。文章が要領を得て能く整っています。敬服しました。あヽいうものを是から二三十並べて御覧なさい。文壇で類のない作家になれます。然し「鼻」丈では恐らく多数の人の眼に触れないでしょう。触れてもみんなが黙過するでしょう。そんな事に頓着しないでずんずん御進みなさい。群衆は眼中に置かない方が身体の薬です。」
確かに「鼻」だけでは芥川龍之介の作家的地位は確立しなかった。次に文壇の評価を確実にしたのが同じ年の9月、『新小説』に発表した「芋粥」である。この作品についても漱石は懇切丁寧な手紙を書いて、文壇の脚光を浴びた弟子に対して助言を惜しまない。この手紙を書いた3カ月後漱石は逝去する。
芥川龍之介は遺稿「或旧友に送る手記」の中で自殺する理由を分析しているが、結論的には「ぼんやりした不安からである」と書く。そして「唯自然はこういう僕にはいつもよりも一層美しい。君は自然の美しいのを愛し、しかも自殺しようとする僕の矛盾を笑うであろう。けれども自然の美しいのは僕の末期の眼に映るからである。僕は他人よりも見、愛し、且又理解した。それだけは苦しみを重ねた中にも多少僕には満足である。」そして付記をつけている。「僕はエムぺドクレスの伝を読み、みずから神としたい欲望の如何に古いものかを感じた。僕の手記は意識している限り、自ら神としないものである。いや、みずから大凡下の一人としているものである。君はあの菩提樹の下に「エトナのエンペドクレス」を論じ合った二十年前を覚えているであろう。僕はあの時代にはみずから神にしたい一人だった。」
神になりたいと望んだ芥川龍之介は自殺する時、大凡下である自分に納得して永眠した。昭和2年(1927)7月24日未明のことであった。辞世の一句がある。
水洟や鼻の先だけ暮れ残る