去年の秋、文化の日に、田淵淳風夫妻が山梨県立文学館で開催中の「深沢七郎展」を見学した時、購入した案内書と同時期に山梨県立美術館の「川端康成コレクションと東山魁夷」と題した展覧会で販売されていた『川端康成と東山魁夷』という本を贈ってくれた。天草ではこのような展覧会が開催されることなどないから、せめて案内書や関連書籍で展覧会の雰囲気でも味わうようにという思いやりを有り難いと思う。深沢七郎は山梨県の現在は笛吹市生まれの作家であり、代表作は『楢山節考』である。またリサイタルを開くほどのギターの名手であった。日劇ミュージックホールなどにも出演した。また若い時からの夢だった農業に従事し、埼玉県に「ラブミー農場」を開くなど自給自足の生活を目指した。音楽家であり、作家であり、農場経営者でもあったという多彩な活動を展開した。以上は「深沢七郎展」案内書に由る。
もう一冊の『川端康成と東山魁夷』の方には両者の往復書簡などが収録されているが、350ページ以上の分厚い本であるから、国宝級の川端コレクションの図版など一通り捲っていたら、ある文章の中に「本渡」という文字があるのが目に飛び込んで来た。「本渡」というのは天草市の前身が本渡市であるから、まさかその「本渡」ではあるまいと疑いつつも、あるいはと思って、改めて見直してみると確かに金剛空間の地元の「本渡」に間違いないので、文章の初めから丁寧に読んでみた。すると何と文章の書き出しが、驚くなかれ、次のように始まる。「崎津の天主堂の写真の絵葉書に、御無沙汰のお詫びと、帰ったら、すぐ、お伺いしたい旨の、簡単な便りを、川端康成先生に宛て、天草の宿で書いた。」これは実は『新潮』(1972年、6月臨時増刊号「川端康成読本」)に東山魁夷が書いた「星離れ行き」と題した追悼文である。東山魁夷が偶々天草を旅し、西海岸の温泉地下田の宿で泊ったその夜、川端康成自殺の訃報が入り、深夜直ぐ宿を立って、福岡板付飛行場までタクシーを乗り継ぎ、始発便で帰京し、鎌倉の川端邸を弔問する。「本渡で車を乗り換え」という所で「本渡」という文字が金剛空間の目にとまったという次第である。川端康成は1972年4月16日夜逗子マリーナ・マンションで自殺し、その夜東山魁夷は天草下田に宿泊したのである。金剛空間はまだその頃は東京に住んでいた。それから十年後TBSブリタニカが昭和天皇の侍従長であった入江相政の『いくたびの春―宮中五十年』を出版した時、東山魁夷が装丁を引き受けた。その著書の出版記念パーティの会場で二人を遠くから見かけたことがあったのも、何かの縁であったのか。