天草島は、下島だけでは日本の島の中で6位の大きさであるが、昭和41年(1966)に天草五橋が完成し大矢野島と上島が、さらに本渡瀬戸大橋の開通もあって下島ともつながって天草全体としては、沖縄・佐渡に次ぐ3位の大きさになった。対馬・淡路島より大きいのである。
世間的にはキリシタンの島として知られてきた。現在3ヶ所のカトリック教会があるが信者数は人口の1%にも満たないと言われている。歴史的にみると、豊臣政権下ではキリシタン大名の小西行長の領地であったので、キリシタンはその保護を受けた。関ヶ原の戦いの後、行長は斬首され、唐津藩の飛び地となり寺澤広高が現苓北町富岡に城を築いた。
生産高の倍の石高の過酷な税の取り立てとキリシタン弾圧、飢餓などの続いたこともあり寛永14年(1637)天草・島原の乱が起る。乱後寛永18年(1641)天草は幕府直轄の天領となり、鈴木重成が初代代官に任命された。重成は亡所となった土地へ九州各藩から移民を奨励し、耕作地の確保、荒れた田畑の回復と復興に努めた。資金のない者には土地と空き家、農具類も与えたという。
この天領二百年余の間には、島原眉山の爆発による島原大変肥後迷惑なる甚大な被害があったり、踏絵は毎年島内を廻っていたが、隠れキリシタンの発覚、どの地方でもあった農民一揆、打ち壊しなどもあった。
特筆すべきは天草の人口である。うなぎ上りに増え続け、万治元年(1659)1万6,000人、慶応三年(1867)には15万6,186人になった。当時の日本の人口はおよそ3,000万人。幕末の江戸でも70万人と言われている。
天草では間引きが全く記録されていない。奨励による根付いた宗教の慈悲の力もあろうが、食料としてカライモとイワシがあった。年貢の石高が寛大であったり、手薄の地役人が隠し田畑等、庄屋村役も含めて百姓に味方してくれていた。貧しさには変りないが。