野も山も街も緑織りなす平成二十六年五月、鎌倉まで足を延ばした。病み上がりなので、萎えた足のリハビリもかねた散策となった。
鎌倉駅からバスで十五分、終点の鎌倉宮(大塔宮)下車、鶯鳴く緑に包まれたお屋敷町を十分ほど歩くと瀟洒な二階建ての西洋館・鎌倉虚子立子記念館に出る。玄関脇の木立の中には短冊・句碑が建ち並び記念館らしい雰囲気を醸し出している。
実はこの美しい館は、高浜虚子とも次女星野立子とも関係がない。近くに立子の長女星野椿氏がお住まいで、この館が売りに出されたときに、記念館にするため購入されたそうだ。平成十三年九月開館、椿氏の長男・星野髙士氏が館長、椿氏は代表の任にある。椿氏は帰り際、玄関まで見送ってくださり、『玉藻』をくださった。立子が創刊した『玉藻』は、椿氏に引き継がれていた(取材当時)。
鎌倉と立子と虚子
立子は明治三十六年、虚子の次女として誕生した。虚子三十歳の子なので「三十而立」に因んで立子と命名される。虚子は二男六女(四女は夭折)の子宝に恵まれたが、特に立子の才能を愛したようだ。立子が二十三歳ではじめて詠んだ俳句 まゝごとの飯もおさいも土筆かな の虚子評が記念館に展示されている。「私はこの立子の句を考えてみた。まゝごとをしてをる時に飯とお菜は、何か変わったものにしなければと思うのが普通であろう。それを飯もお菜も土筆であるところに、何か変わったものを感じた。われ等が知らなかった心の世界を示された心もちがした」。
立子は東京女子大卒業後、二十二歳で星野天知の長男吉人と結婚した。星野天知は、鶴岡八幡宮の献灯に名が刻まれるほどの日本橋の裕福な砂糖問屋に生まれ、後に教育者として、また藤村、透谷らと『文学界』を創刊する文学者として活躍した。二十七歳で長女早子(椿)を出産し、虚子の勧めで初の女性主宰俳句誌『玉藻』を創刊する。虚子は創刊号で、近来の女流作家の心情流露は、なまじ理智に傾きやすい男子の及び難いものがあるので、この機会にその技を振るって欲しい、という思いを述べている。『玉藻』は期待にこたえ多くの優れた女流俳人を育てる雑誌に発展した。立子が鎌倉に転居したのは二十八歳のときであるが、以降、疎開時を除き終生を鎌倉で過ごし、昭和五十九年、八十一歳の生涯を閉じた。
虚子は明治四十三年三十六歳のとき病弱な立子のため一家をあげて鎌倉町材木座に転居した。その後、小諸疎開時代を除いて、鎌倉由比ヶ浜の地を離れなかった。「川端康成から見た虚子」という毎日新聞の記事が展示されている。「虚子は、まるでふだんの会話かひとりごとが口を吐いて出るやうに、自由自在に、あるひは無造作に、平淡な句を数知れずつくったと見えるうちに、類ひなく大きい句、おそろしい句、妙なる句、深い句があります。」と川端は書いている。
記念館の展示と活動
恐る恐る玄関を入ると受付もなく係の人もいなかったが、二階から団体客の声が聞こえるので勝手に上がっていると、記念館の中野氏がお見えになり館をくまなく案内してくださった。
玄関を入ると広い洋室、大きなガラス戸越しに芝生の中庭が広がり、その中心に句碑が建つ。句碑には虚子の 鎌倉を驚かしたる余寒あり と 立子の 父がつけしわが名立子や月を仰ぐ が刻まれている。
二階には三つの展示室があり、最初の和室には虚子の掛け軸 咲き満ちてこぼるゝ花もなかりけり 流れゆく大根の葉の早さ哉 などがある。
次の部屋には、虚子の初めての小説集『鶏頭』の表紙・口絵と漱石の序文が展示されている。『鶏頭』は十篇の小説が所収され、明治四十一年春陽堂から刊行された。石井泊亭の描く舞妓さんと踊る虚子の口絵と若き日の虚子の写真を見ながら、中野さんがこの口絵にはいろいろな読み方があるということを解説してくださった。また虚子の「花鳥諷詠」の扁額を見ながら「この花鳥という字を読める人は滅多にいません」とおっしゃり、立子の色紙 水仙の花持ち心すなほなる では「心」一字が真ん中に書かれていることについて解説してくださった。
最後の展示室には、高野素十 肩掛けをしたる立子を先頭に の扁額、 一学年星野立子の署名がある「いろは」の書と六十七歳で脳血栓に倒れて後、左手で書いた書・絵が飾られていた。この左手の書・絵は右手に劣らず美しかった。
一階には句会室があり、対外的な活動も盛んだ。その一つにハポン支倉常長俳句賞がある。平成二十六年は、慶長遣欧使節団がスペイン・ローマに出発してから四百年の年であった。スペイン南部のコリア・デル・リオにはハポン姓をもつ人々がいる。この町から東日本大震災被災地に励ましの俳句が届いた。この励ましに感謝し、両国の交流促進のために俳句を募集し、スペイン語圏各国などから七百を越える句が寄せられた。実行委員長・選者有馬朗人氏、名誉実行委員長支倉家十三代常隆氏などにより選ばれたスペイン一般の部の大賞はフェリクス・アルセ・アライス(俳号MOMIJI)氏の 元旦や鳥居の上に光る石 (原文はスペイン語。和訳川崎城春氏)で、日本の一般の部大賞は 東京都の小林靖子氏の 秋風や巡礼の背に貝の殻 だった。記念館は、鎌倉全国俳句大賞も主催している。
バラ満開の鎌倉文学館
鎌倉駅に戻り、江ノ電二つ目の由比ヶ浜駅で下車。海と反対側へ十分ほど歩くと鬱蒼とした山道になる。ここでも鶯が鳴いていた。館の手前に正岡子規の歌碑 人丸ののちの歌よみは誰かあらん 征夷大将軍みなもとの実朝 があった(注:人丸は柿本人麻呂)。
突然視界が開け、洋風と和風が混在する三階建ての館が現れる。三島由紀夫『春の雪』の別荘のモデルだそうだが、さもあらん。ここは旧前田公爵家鎌倉別邸であったが、鎌倉文学館として昭和六十年開館した。特別展「愛とブンガク」が開催中で、漱石・龍之介、川端・堀辰雄・太宰、大岡・三島・立原のそれぞれの作品に、柳美里など現代女流作家八人がコメントを寄せている。
当日、虚子の展示はなかったが、庭園の194種234株のバラは満開で、先日東京句会に寄せられた句 マリアカラスといふ薔薇の真紅かな(田辺紬) の薔薇にも出会えた。
参考文献:「俳句α」誌 特集立子入門、同誌 特集虚子入門(毎日新聞)、高浜虚子―俳句の日々(鎌倉文学館)、ハポン支倉常長俳句賞入選句集(鎌倉虚子立子記念館)、特別展冊子 愛と文学(鎌倉文学館)