今年の夏は格別に暑かった。旅に出る気力もなく、ただ家でごろごろしていたが、久しぶりの台風の強風に煽られ、奥の細道矢立初めの地、千住に行ってみた。
千住 矢立初めの地
成田空港まで四十分を切ったスカイライナー開通で賑わうJR日暮里駅で京成本線に乗り換え、千住大橋駅で降りる。すぐ前の日光街道を右へ二百メートルほど行くと千住大橋。元の橋は大川(隅田川)に架けられた最初の橋だったそうだ。橋のたもとの小さな公園に奥の細道矢立初めの地の碑が建っている(写真)。
公園の後ろに回ると、墨田川のテラスに降りられ、隅田川を一望できる。堤の壁には、広重の千住大橋の浮世絵と並んで、蕪村筆『奥の細道図屏風』の旅立の図(写真)と『奥の細道』の一節が大きく描かれている(写真)。
「千住といふ所にて舟にあがれば、前途三千里のおもひ胸にふさがりて、幻のちまたに離別の泪をそそぐ」。過ぎ行く春と人々への惜別の情を矢立の初めとした。
行く春や鳥啼き魚の目は泪
芭蕉が奥の細道に出立したのは、元禄二年(一六八九)三月二十七日早朝、四十六歳のときだった。三十七歳で江戸深川の草庵に入ってから、元禄七年(一六九四)、大阪御堂筋の旅宿で五十一歳で没するまでの十四年間、芭蕉は『野ざらし紀行』『笈の小文』『更級紀行』『奥の細道』など旅の連続だった。旅の中で、造化(自然)にしたがひ造化にかへる詩情を鍛え、自然と人生が一体となっていたのだろう。
野ざらしを心に風のしむ身かな『野ざらし紀行』
旅人と我名よばれん初しぐれ『笈の小文』
病雁の夜さむに落ちて旅寝かな『奥の細道』
深川採茶庵、ここから船で千住へ
奥の細道の旅に出る決意を固めた二月、住み慣れた芭蕉庵を、妻子持ちの兵右衛門に譲り、杉山杉風の採茶庵に移る。華やぐ巷の全てを捨てる決意だった。
草の戸も住み替わる代ぞ雛の家
墨田川に注ぐ仙台掘の海辺橋には、採茶庵跡のモニュメント(写真)がある。庵の濡れ縁に座り、旅の前途に思いを馳せる旅装束の芭蕉像、この旅にかける芭蕉の気迫が伝わってくるような姿だ。ご当地深川ではこちらが出立の地だとする人が多い。
三月末、前夜から庵に集まった見送りの人々と舟に乗り隅田川を遡る。曙の空に不二を仰ぎ、上野・谷中の桜の梢を見ながら、再びこれを見ることはあるまいという思いが胸をよぎったことだろう。その日、千住に上陸した。
やっちゃ場句会
千住大橋からの帰り道、現在の日光街道に並行する旧日光街道の狭い道を北千住駅まで歩いてみたが、ここにはいままで全く知らなかった「やっちゃ場」といわれた市場跡があった。戦国の頃から旧陸羽街道(日光道中)の両側に青空市場ができ、江戸時代から昭和十六年まで、三十数件の青物問屋などが軒を並べ、大八車の行き交う江戸東京有数の市場だったという。名前の由来は、せり声が「やっちゃい、やっちゃい」と聞こえてくることからだそうだ。正岡子規や高浜虚子も訪れ、虚子は青物問屋の主人・為成善太郎(俳号・菖蒲園)を直弟子とした。虚子の命名による「やっちゃ場句会」(写真)も行われた。道端には、千住出れば奥街道の青嵐(子規) 永き日の古き歴史の市場かな(虚子)やっちゃ場の主となりて昼寝かな(菖蒲園) の句がかかっている。
道沿いの店には、墨で書かれた当時の屋号の看板(写真)が掲げられ往時を偲ばせてい
るが、そのなかに「中村不折と葛西屋」という看板があった。
第九代葛西屋喜平は、昭和十年当時、商売の合間に絵を習い和歌をたしなむ粋人であったが、その師が中村不折で、喜平が届けた季節の野菜に対する、栗・柿・松茸を描いた不折の礼状が残っているそうだ。街道筋には、紙問屋の蔵を移築した「千住宿歴史プチテラス」、森鴎外の旧居跡や河合栄次郎生誕地、安藤昌益『自然真営道』成立の地などあり、下町商人・文化人の心意気が感じられる街道だった。
旅は寅さんに限らず我々の憧れだ。渥美清にも、村の子がくれた林檎ひとつ旅いそぐ、という句がある。しかし、芭蕉のように旅を人生にすることは難しい。だが、また思う。土を人生にすることは、もっとしんどいことかも知れないと。炎熱地獄、一人稲刈る金剛主宰の老い姿がかすんで見えた。