自転車で日本中を走る旅番組を見ていたら、宮崎県の大淀川の河川敷の堤防の土手の背丈ほどに伸びた秋草を乗用草刈り機で刈っている光景を目にした。主演の俳優はその草刈り機に着目して「いろんな武器があるもんだな」とコメントしていたが、金剛空間の思想は違っていた。「あの草むらには無数の生き物がいるはずだが、草を刈り取って土手をきれいにするのはいいが、生き物にとっては災難かも知れない」というものだった。というのは、先日金剛普通作水稲田の隣の地区で圃場整備のための大規模土木工事が始まり、測量していた作業員と話をしていたら、「この辺は蝮が多いな」という。「それでどうしたのか。片付けたのか」と聞いたら、「大型機械で踏み殺した」と言う。「それは蝮には災難だったな」と答えて笑った。そのことがあったものだから、大淀川の河川敷の土手の草むらにも蝮など多くの生き物がねぐらにしたり、えさ場にしたりしていたに違いないという考えが浮かんだのだろう。地元でも田や畑の周りの草払いをしていたら、蝮を切り払うという話はよく耳にする。文明というのは人間中心の物の見方であるから、人間以外の生物から見れば歩行や乗用の草払い機といった文明の方が野蛮ということになる。
最近は終活とか言って自分の人生の終末を如何に迎えるかということが話題になる。行政が取り組みを始めたり、民間がいろんなアイデアを考案したり、死亡は出生とは違って本人にとっては予想される事態であるから、予めそれに備えることを考えることは出来る。最近のニュースでは身内が家族の死を放置して白骨化した遺体が発見されるというケースが少なくない。「死体遺棄」という犯罪である。金剛空間は警察や行政などとはまるで関係がないから、遺棄された死体を見た記憶はない。これまで見た死体はすべて法律的には問題のない死体ばかりである。自動車事故やその他航空機や列車などの交通機関の事故に遭遇したこともないから偶然に死体に遭遇することもない。現代日本社会のように十分管理された社会においても、遺棄され、放置された、事件、事故に拠る死体の発生を抑えることが出来ない。
文明とは何かといえば、人類の人類以外の自然に対する征服の証明といっても良いだろう。つまり人類以外のあらゆる自然に対する人類の勝利の軌跡が文明である。しかしここで肝心なことが見落とされている。それは人類もまた自然の一環であるということである。兵器などはまさに常に最先端の文明の利器であったのである。金剛空間がまだ学生時代、日本の敗戦からまだ20年もたたない頃、同じ県人寮にいた学生と些細な議論をしたことを今でも覚えているが、「原爆という究極の兵器を実戦に使ったことに拠って、逆にその兵器を再び使うことが出来なくなったという反省に立って、従来型の国家間の覇権を巡る戦争は終了した」というようなことを述べた。つまり核兵器を使えば、その結果人類滅亡が将来されるという共通理解が生まれたのである。決して使えない兵器としての核兵器の開発、配備の目的は共倒れの危険を冒す覚悟がなければ、核兵器の先制使用はできないという核抑止論に基づく。金剛空間に言わせれば、アメリカが日本との戦争終結のために、核兵器を開発、使用したことによって第二次世界大戦は連合国の勝利によって終結した。第二次世界大戦の終結によって、国家間の大規模戦争は不可能になった。人類が戦った最後の国家間の覇権争いが第二次世界大戦であった。ここで勝利したアメリカ、ソ連、イギリス、フランス、中華民国が国連の安全保障理事会の常任理事国としてそれ以来70年に亘って国際紛争処理の責任に当たってきた。この間、中華民国は中国に替わり、ソ連はロシアに替わった。
70年前に人類史が国家間の大規模戦争に拠る覇権争いに終止符を打ってから、人類の文明史は新たな段階に移行した。第二次世界大戦終結から今に至る70年がその人類文明史の新たな段階の最先端期ということが出来る。金剛空間の予想では安保理の常任理事国が使えない兵器としての核兵器を大量に抱えたまま、既に国家間の覇権争いは不可能になった現代の文明史の状況において今如何なる問題に直面しているのか。新たな文明史の最初期においては朝鮮戦争やベトナム戦争、アフガン戦争、あるいは中東紛争など第二次世界大戦終結後の植民地独立に伴う地域的事後処理的意味の戦争が勃発したが、それが一段落した現在、即ち最現代において最大の問題となって大きく浮上してきたのが、国際的広がりを持ったイスラム過激派のテロ活動である。2011年のアメリカ同時多発テロ、そして今年に入って起こった二度のフランス国内テロに対する報復攻撃について有識者は有志連合がいくら局地的空爆を大規模化してもモグラたたきに過ぎないという。地上軍を投入してテロ組織を市街戦で個別に制圧しない限りはテロを防ぐことはできないという。しかしテロ集団には国家組織も行政機構も正規軍も、議会もないのだから、正式に降伏文書に調印して武装解除するという手続きを踏むことはできない。宣戦布告をして降伏あるいは停戦、終戦宣言をする戦争行為の主体としての国家制度を持たない。アメリカは最初9・11テロの後を受けて、すぐさまアルカイダが拠点とするアフガンのタリバン国家を報復攻撃して制圧し、新たに民主的手続きに従ってアフガニスタン国家の樹立まで漕ぎ着けたけれども、実際は未だにテロは続き、アメリカ軍兵士の戦死者は発生し続け、決して事態は完全収束したわけではない。更にイラク戦争を吹きかけてフセイン政権を壊滅させたが、イラクの治安は安定せず、テロが続く。そして現在のイラク、シリアにまたがる新たな過激テロ集団が誕生し、大量難民が国外脱出を図り、イスラム教徒の大量難民受け入れを巡ってドイツ、フランスなど国論が定まらなくなる恐れがある所に、今回のパリ大量殺人テロの勃発である。市民を恐怖のどん底に叩きこんだテロ組織の狙いが的中する。運河に言わせれば、金剛空間の文明論にはイスラムの視点が欠けていると指摘があった。儒教や仏教、更には欧米的キリスト教の視点はあってもイスラムの視点がないということのようだ。明治以降の脱亜入欧の国家方針のもと、西洋文明の知識の導入には精力的に取り組んだが、イスラム文明など誰の眼中にもなかった。イスラム文明は近代化に後れを取って欧米の植民地化の道を歩んでいた。その意味では中国、日本、インド、なども同様の状態にあった。従って明治以降は欧米一辺倒になり、その反動で中国植民地を巡って欧米と文明の衝突を引き起こし、70年前完全に兜を脱ぎ、GHQの占領政策のもと、欧米化が徹底的に遂行され、その結果として日米安保が締結され、沖縄が米軍の前進基地として固定化された。翁長沖縄県知事が日米安保は肯定しても普天間基地の辺野古への基地移設はあらゆる手段を尽くしても阻止すると声涙ともに下る声明を読み上げる時、これは只事ではないという印象を持つ。彼には身を以て生きた沖縄県人の戦後70年の苦悩が絵空事ではないのだ。そしてその前には沖縄県住民の20万人規模の犠牲者の存在があるにおいておや。この過酷な沖縄の運命を翁長沖縄県知事が転換できるか甚だ疑問であるが、沖縄は政府との対決において一歩も引かない決意を表明し、翁長沖縄県知事を支持し続けるのであろう。