百万の焼けて年逝く小名木川
秋草や焼跡は川また運河
生誕百年記念碑
波郷は大正二年(一九一三)、現在の松山市生まれなので、二〇一三年は生誕百年だった。
東京都江東区を南北に走る明治通りが、東西に流れる小名木川をまたいでいる進開橋の南詰に、「石田波郷生誕百年記念碑」が建立された(平成二十五年三月十八日)。碑には次の句が刻まれている。
砂町も古りぬ冬日に温められ
雪敷ける町より高し小名木川
波郷は、松山中学時代の同級生中富正三、後の大友柳太郎の勧めで俳句をはじめたといわれている。十九歳で上京後、戦地で病を得た波郷は、戦後昭和二十一年三月(三十三歳)から約十二年間、江東区北砂町に暮らし、江東の地を第二の故郷と呼んだ。「(砂町は)まだ粛条たる焼野原にバラックが点点と散らばり、あちらこちらに草の中から蛇口のこわれた水道が水を噴いていた。(略)大雨が降ると新聞に女が白い腿を出して水の中に立っている写真が出て、それがいつも江東のことで、浸水の一番ひどいのが、砂町ときまっているようであった。(略)焼跡の水が温み、はこべがしげり荒れた礎石の間にもたんぽぽが花を捧げた。敗れた民族のかなしみをこめて、それら焦土の風物を、私は日々の命を認識するように、一句一句詠みつづけた。」(「砂町ずまい」)
石田波郷記念館
石田波郷記念館については、『天草俳壇五二号』(二〇〇七年十月)にも掲載されているが、今秋、記念館の入る砂町文化センターがリニュアル・オープンしたので、再訪してみた。
江東区には、この他にも芭蕉記念館など芭蕉関係の諸施設、一茶旧居跡などがあり、俳諧の一つの「古里」と言ってもいいと思うが、松山市のように全国区にはなっていないのは残念だ。
砂町文化センターは、「ばか値市」などで人気の、知る人ぞ知る商店街・砂町銀座の裏にある。銀座とはいえ細い道路の両側には食べ物屋、衣料品店などがぎっしり建ち並び、おでんの立ち食いの行列ができるほど、昭和下町の雰囲気が東西約七百メートル続いている昨今珍しい商店街である。
平成十二年に開設された石田波郷記念館は、文化センターの二階にある。波郷がこの地に暮らした頃、江東一帯は見渡す限りの焦土だった。記念館入り口には、はこべらや焦土の色の雀ども の色紙が飾られている。
記念館内に入ると、「江東歳時記の世界」のコーナーが目に飛び込んで来る。『江東歳時記』は昭和三十二年三月十九日から翌年二月三日まで、読売新聞江東版に百十五回にわたって連載されたものだが、俳句・散文・写真によって、昭和二十年三月十日の東京大空襲によって焦土と化した下町を映し出した貴重なルポルタージュとなっている。この大空襲によって妻あき子の母と妹の命が奪われ、家も失った。本書は現在、講談社文芸文庫によって読むことができる。波郷がルポした場所は、江戸川・葛飾・足立・墨田・江東など広汎に渡るが、この欄の筆者は江東区住人なので様々な感慨が沸き起こる。
江東歳時記文学碑
小名木川に沿って作られた北砂緑道公園には、「江東歳時記文学碑」が建立されている。
小名木川駅春の上潮曇るなり
「私は毎朝、小名木川駅の貨車の入換えや突放のひびきで目をさます。(略)小名木川駅の事務所二階の駅長室からながめると、さすがに江東工業地帯の要だけあって、窓前の二十トンクレーンを前景に、野天ホーム、小名木川からひきこんだ大ドック、貨物上屋などに積まれた木材、鋼材、鉱石、石炭などの重畳する彼方に、かすむばかりに引込線の堤が見え、そこだけに、青草が見える。」(『江東歳時記』)
碑には当時の写真も掲示されているが、この地の風景は大変貌をとげ、引込線跡には巨大なスーパーやスポーツクラブが建てられている。現在は小名木川に架かる貨物線の鉄橋が当時の俤を残すのみである。
この歳時記で波郷の描いた世界は、戦後の懐かしい風物に満ちている。荷馬車、浅草海苔の網、葛西橋の鯊釣り、木場の筏、葱畑、練炭、工場の煤煙、ガラス加工・釣針打ち・和額作りの職人たち、当時流行っていた鳩小舎、工場帰りのコーラスグループ、稽古囃子、高橋のどぜう鍋(ここは惜しくも、東日本大震災で被害を受け今はない)、そして大団地に変貌した汽車会社。
俳人石田波郷のコーナー
歳時記のコーナーを進むと「俳人石田波郷」の展示がある。波郷は毎日新聞(昭和四十年二月)紙上で「俳句の魅力は、一口にいふと、複雑な対象を極度に単純化して、叙述を節してひと息に表現することにあると思ふ。」と書いているが、その足跡をたどる優れた展示である。
『馬酔木』時代
波郷は十九歳で単身上京(昭和七年)、水原秋櫻子を訪ね、以後師事する。翌年最年少の同人となり、その後編集にも参加する。
俳誌『鶴』創刊(昭和十二年、二十四歳)
『鶴』を創刊、主宰となる。『鶴』一月号に掲載された「俳句は文学ではないのだ。俳句は生の生活である。」という発言が論議を招いた。
句集『鶴の眼』(昭和十四年、二十六歳)
吹きおこる秋風鶴を歩ましむ 波郷自身はこの句集を第一句集とした。序文は横光利一による。この年、『俳句研究』(山本健一編集)の座談会「新しい俳句の課題」に加藤楸邨、中村草田男らと出席。以後「難解派」「人間探求派」と称せられる。
この頃から、俳句弾圧が強まり、京大俳句事件、石橋辰之助、渡辺白泉、西東三鬼らの検挙があった。波郷は彼らと交流が深かったが難を免れる。
「風切宣言」(昭和十七年、二十九歳)
前年に『馬酔木』同人と編集を辞した波郷が、自らの姿勢を示した宣言である。「自分達は自らの俳句鍛錬の為に黙々砕身しなければならぬ。(略)一、俳句の韻文精神の徹底、二、豊穣なる自然と剛直なる生活表現(略)」
句集『風切』(昭和十八年、三十歳)
霜柱俳句は切字響きけり 『馬酔木』を離れ『鶴』主宰となった波郷の俳風が開花したと評される。しかし、九月に招集され、中国大陸華北へ。翌年、肋膜炎を病み、翌々年帰還。
句集『病雁』(昭和二十一年、三十三歳)
雁やのこるものみな美しき 戦地での発病、帰還、闘病生活の句集。後に肋骨を七本切除、肋膜に合成樹脂球を充填した。療養生活から生まれた句のかずかずは、「療養俳句の金字塔」と評された。
句集『雨覆』(昭和二十三年、三十五歳)
焼跡に透きとほりけり寒の水 六月の女すわれる荒筵 終戦から東京療養所入院直前まで。一面焦土と化した砂町を詠む。「波郷の焦土俳句」と評される。
句集『惜命』(昭和二十五年、三十七歳)
霜の墓抱き起されしとき見たり 病む六人寒燈を消すとき来 病気が再発し、二年四ヶ月の療養中に詠んだ句集。
句集『春嵐』(昭和三十二年、四十四歳)
泉への道後れゆく安けさよ ようやく退院し、砂町の自宅に帰る。後書きに、『惜命』が生命の緊張の中から溢れ出たとすると、この書は生命の弛緩の裡に生れたものである、と記している。
句集『酒中花』(昭和四十三年、五十五歳)
ひとつ咲く酒中花はわが恋椿 波郷自らが編んだ最後の句集。酒中花は波郷の愛した椿の品種名である。この作品は、芸術選奨文部大臣賞を受賞した。
「波郷をめぐる人々」のコーナーには渡辺水巴、横光利一、棟方志功、加藤楸邨など縁の人々の写真と作品が展示されている。
村上麗人の描いた波郷の肖像が飾られている「波郷の俤コーナー」。両手をズボンのポケットに入れて立つ姿は大きく傾いているがこれは手術のためだろうか。家族の写真、愛用のベレー帽、万年筆等と共にローライフレックスの二眼レフが置かれている。波郷は写真を愛した。秋晴れや肩にローライ手にライカ
一生病と闘いながら、波郷は昭和四十四年十一月二十一日永眠した。享年五十六歳。
記念館の出口付近には水原秋櫻子の弔辞が展示されている。
「(略)むかし唐の李太白は、酒を愛して多くの名詩を生み、死んだ後には天上にかゞやく星の一つとなった。今の世にかういふ奇蹟のおこる道理もないが、万一それがおこるとすれば、君の場合が最も条件に叶ってゐるやうな気がする。」
文化センターを出て砂町銀座を行くと、下町の老若男女が、買い物袋をいっぱいにして家に帰るところだった。こういう生活の中にも、俳句の美はたくさん詰まっているに違いない。波郷は次のように書いている。「幸いなことに俳人は小説家や詩人とちがって、限られた知識層ではない。社会のあらゆる階層を網羅した実生活者たちである。土地の俳人は、俳人という特殊な人達ではなく、要するに土地の人である。」(「第二の故郷」)
バスを待ち大路の春をうたがはず
参考文献
『江東歳時記 清瀬村(抄)』、石田波郷、講談社文芸文庫
『波郷句自解』、石田波郷、梁塵文庫
石田波郷記念館展示資料
風鶴山房ホームページ