三島由紀夫の父が倅のことを書いている。三島事件の衝撃をまともに食らって、呆然自失しながらも、何とか立ち直り、初めて自分の息子について考えを巡らす。しかし、年老いた両親にとっては、その存在が生き甲斐であり、全てであった最愛の息子を息子自身の意志によって失ったという事実は理解を越えたものであった。三島もまた親孝行を典型にしたような申し分のない息子であった。父親は一高、東大から官界に入ったエリート階級であり、岸信介と同期であった。三島は学習院という皇室や華族の子弟の教育機関に入り、日本の最上層世界の一員に組み込まれる。途中、中学、高校課程で開成中学や一高を受験するが不合格になり、高等科まで学習院で通し、首席で卒業し、天皇に拝謁して褒賞される。父親と同じく、東大法学部独法科に入り、高文に合格し、大蔵省に入り、官吏になる。父親にとっては正に思い描いた通りの出世コースに乗ったのであり、我が意を得たりの感を深くする。
しかし、戦前、戦後の大変動の時期に重なり、三島が学習院で受けた教育と占領下における民主化の流れは衝突せざるを得ないが、時代の急激な変化の中で、その矛盾、衝突は地下深く伏流水になって、意識の表面から姿を消す。三島も矛盾、衝突に無自覚のまま、父の許しを得て、大蔵省を直ぐ退職し、新進作家の道をひた走る。30代に入るころには押しも押されもせぬ大作家の地位を得る。そしてその頃から、意識下に留まっていた学習院時代の教育が徐々に息を吹き返して来る。正にアイデンティティの危機が迫ったのである。つまり、学習院時代の天皇を核にした教育と、戦後の民主化教育、大衆化社会とがその矛盾を露呈したのだ。三島自身は戦後の民主化教育、大衆化社会において大作家の地位を得たのだから、この矛盾は自らにもろに降りかかってくる性質のものだ。
三島の父や母は直接的には皇室関係とのつながりはない。父は高級官僚ではあっても行政官としての限りで国家に忠誠を尽くすという身分関係に過ぎない。しかし息子は身の回りに直接皇室と複雑に絡む事実、思想をものごごろついてから、青年期に入るまで成長する過程を通じて注入され続けたのだ。父には出世するということが目標であったが、息子には皇室、国家への忠誠が至上価値として植え付けられたのだ。父親は同期の岸信介などの出世を横目で睨みながら、不満と反発こそ高まれ、屈折、内訌した官僚勤めをする以外に身を処する道はなかった。彼は優秀ではあったが実に素朴であり、処世において不器用であった。
その点では三島も父の子であり、素朴であり、不器用であったが、父と違い学習院教育において謂わば完全に洗練された貴族空間の匂いを嗅ぎ分けてしまった。いかにしても父親の素朴な正義感を振り回すには息子の思想、挙措は洗練されたものたらざるを得なかったのだ。
三島由紀夫は30代にかかったころから自己改造に乗り出し、肉体を鍛え、その肉体を露出することに情熱を燃やした。三島由紀夫における、この肉体主義が文士ではなく武士の思想を生み出し、最後の自決に導いた。しかし、本物の武士との違いは武士はその肉体の露出に嫌悪を示すということだ。武士は肉体を以て戦うがゆえに、肉体にたいしては恐れを抱いたのであり、他者に対して誇示あるいは堅持する対象ではなかった。その意味では三島由紀夫における肉体は力であるというよりかは美的な対象であった。写真や映画で自らの肉体を衆目にさらすことに嗜好をそそられたのである。
それにしてもなぜ自決という古典的形式の自殺を選んだのか。しかも殉死者まで用意しているのだ。三島由紀夫の両親にも全く理解できない行為というしかない。三島由紀夫は同じ敷地で両親と生活しながら、廊下続きで往来しつつ、夜は必ず両親に就寝の挨拶を欠かさず、自決の前夜もいつものように挨拶を交わしたという。父親は翌朝、迎えに来た楯の会の会員と出かける息子を見送っているが、そこに特別の予兆は見ていない。父親はテレビのニュースで事件の第一報に接し、驚愕、動転するばかりであった。もしこのようなことが起きることを知っていれば、自分の命にかけても阻止したのにと、絶望的な恨みつらみを吐露する。彼にとっては三島由紀夫の主義主張は知らず、手塩にかけて育てた何者にも代えがたい倅の命であったのだ。彼には理屈抜きのほとんど盲目的なまでの愛情があったのだ。三島由紀夫ももし父や母に怪しまれる様な事があったら、彼の目論見が画餅に帰すことを知っていた。彼もまた父や母を心底から愛し抜いていたのだ。三島由紀夫は思いやりのある実に優しい倅であったのだ。両親にとってはいくら愛しても愛しきれぬ掌中の珠のような存在であったのだ。事件や悲劇はこのような条件を見逃さないのだ。金剛空間のごときは両親の愛情などほとんど感じなかった根っからの親不幸者であった。だからこそ、先祖帰りして野良作業などをして、先祖に対するうしろめたさを償わざるを得ないのだ。
金剛空間は三島由紀夫個人と直接間接全く何の関係もなかったが、当時三島が関係していた文化団体で働いていた人の話の又聞きであるが、福田恒存、小林秀雄などの著名人と並んで三島も積極的に当時の日本の状況について提言していたようである。三島が発言すると大概決定したほどの、影響力があり、三島もその団体の会合に出ることを非常な楽しみにしていたという。明朗闊達、天馬空を行くという颯爽たる印象を与えていたのだろう。三島に由ると天才には二種類あり、一つは天才を早くから認められて、順風満帆の勢いで駆け上がっていく型と、その才能を認められないまま、世の艱難辛苦をなめ尽くすという型があるという。三島自身は自分が天才であると言ったわけではないが、自分は前者の型で早くから恵まれていたというようなことを語ったらしい。
三島由紀夫は遺作となった四部作の小説『豊饒の海』第三部『暁の寺』で難解極まりない仏教哲学の唯識論を解釈する。そして宇宙の究極の存在者として阿頼耶識を立てる。そして『豊饒の海』全体を通じての語り手である本多繁邦をして輪廻する存在者とはこの阿頼耶識であるという最終認識に達せしめる。そしてこれは三島由紀夫自身の最終認識である。仏教哲学は難解を極めるが、金剛空間が三島の解釈を辿る限りでは阿頼耶識とは現代生物学の結論である遺伝子の担い手であるDNAのことである。つまり個々人は滅び、そして生まれるという世代交代を繰り返して行くが、DNAは個々人を通じて世代を越えて受け継がれて行く。これが輪廻の世界であるとすれば、正にDNAは遺伝に由って世代を越えて輪廻する当該存在者である。
仏教哲学は本質的にニヒリズムであるから、三島由紀夫もまた究極においてニヒリストであったということが出来る。『豊饒の海』第四部最終末の部分で本多繁邦は第一部のヒロインである松枝清顕の恋人綾倉聡子に60年ぶりに再会を果たす。しかし、唯識を根本教義に据えた奈良の門跡寺院の門跡になった綾倉聡子は本多が述べる一切の事実の存在を否定する。それは本多繁邦の心にだけ生じた事実であって、綾倉聡子にとっては如何なる事実ではないというところで、この長大な転生物語は幕を閉じる。三島由紀夫が告げているのはこの世の一切は正に心が作り出した、迷いに他ならないということだ。
三島由紀夫の死は自意識の時限爆弾が爆発したのである。金剛空間のごときは遂に自意識の時限爆弾が不発弾のまま老いさらばえたというべきである。三島文学の魅力はその独特の比喩を鏤めた欧文脈の文体もさることながら、その自意識の分析の精妙さ、悪意性にある。この自意識の分析、悪意性が阿頼耶識を導き、導火線に火が尽き、時限爆弾が爆発した。