徳川夢声は、本名福原駿雄(ふくはらとしお)。明治27年島根県益田市に生まれ、東京で育っている。幼いころから演芸にあこがれ、落語家になろうとするが親に反対され、無声映画の弁士になったという。
「徳川」の芸名の由来は、葵館という映画館で弁士を務めることになった際に、館主が葵との連想で勝手につけてしまった、というエピソードがウィキペディアに載っているが、真偽のほどはわからない。
俳句とのかかわりは、久保田万太郎らが主宰していた「いとう句会」に参加したことによる。
松飾りなき正月の晴れつづき
露しげく亡妻の命日忘れゐる
40歳のときに妻に先立たれるが、その後、亡き親友の未亡人と再婚している。
酒は、相当好きだったようで、20代でアルコール依存症になっていたとも伝えられる。酒の上での失敗も少なくなかったであろう。
芍薬の散り敷く庭や迎ひ酒
口軽き吾を悔ゆるや豆の花
大晦日目白は群れて我が庭に
もともと文学的な素養があり、昭和24年には、小説が直木賞候補になったこともある。
また、戦中の日記が「夢声戦争日記」として出版され、戦中の暮らしを知る貴重な資料となっており、現在でも中公文庫で読むことができる。
疎開跡辛夷意外に多きかな
司法省焼けて人なくさくら咲く
隣りまで焼けたる庭の柿若葉
戦後は、ラジオ番組の「話の泉」や草創期のテレビ番組に出演している。筆者は、NHKテレビの推理バラエティ番組のはしり「私だけが知っている」が印象的である。
生きており吾生きており秋の夜
青トマト汁敗戦の味なれや
敗戦のツクツク法師鳴き初めぬ
文学座に入ったり、古川ロッパらと喜劇劇団を作るなど、ラジオやテレビにとどまらず、舞台にも並々ならぬ関心があったようである。
客席も舞台も寒き風の中
春が来たと舞台で歌う夜寒かな
昭和14年にNHKラジオで放送された吉川栄治の「宮本武蔵」の朗読は有名で、戦後も昭和36年から38年にかけてラジオ関東で放送されている。
雪の夜長き「武蔵」を終りけり
昭和46年8月1日肺炎で死去。享年77歳であった。
参考資料 「いとう句會句集」(いとう書房 昭和22年)