金剛空間が自己同一性の誕生機制を解明してから、17年という長い時間が流れたが、依然として結論は変わらず、理論の真理性は保たれている。定式は次のようになる。
宇宙空間に永遠の過去から永遠の未来に懸けて生まれては滅び、滅びては生まれる無限無数の意識がそれぞれそれ自身を意識している。それぞれの意識はそれ自身しか意識できないから、ここに意識の絶対的自己同一性が誕生する。世界が自己同一性を保つのは自己意識が絶対的自己同一性を保つからに他ならない。私が一生私であり続けるのは私が私自身しか意識できないからである。私の意識が誕生してから消滅するまで私は何処に居ても私を意識し続けるのである。私が夜眠って、翌朝目覚めても私の自己同一性が保たれているのは、眠っている間も私の自己同一性が侵されることはないからである。記憶喪失症で私が誰であるか忘れたとしても自己同一性が保たれているから記憶喪失の事実を認識できるのである。
私がテレビを見ていることを私は意識する。いわば私が私自身を意識するわけであり、そのことを特に不思議に思わないで当然のこととするのが普通であるが、古来東洋でも西洋でも私自身についてその正体如何を尋ねるという懸命の探求が続き、現代でもその答えを見つけられないのが現在の一般的状況であるが、金剛空間が17年前にその疑問を解決したと確信するが、果たして如何。私とは何かと一言で言えば、意識における自己意識に他ならない。決して意識の根底に何か特別の私という存在者が居座っているのではない。意識がそれ自身を意識した時、意識は一種の自己分裂状態になる。普段は意識は自己ではなく、外界の個別の対象を意識していると思っている。眼の前の花であるとか、口の中のサラダであるとか、あるいはモーツアルトの音楽であるという具合である。
日本人はあるいは日本語は自己主張を嫌うから、遂に1人称代名詞が固定することがなかった。万葉集の時代には「われ」であったり、「あれ」であったりし、武士や僧侶は「拙者」であったり、「拙僧」であったりし、一般庶民も江戸時代の古文書などを読むと、手紙のやり取りにおいて「拙者」という1人称代名詞を使用する。「拙」とは「つたない」ということであるから「拙者」とは自らをへりくだって言う意味が原義であったが、武士が権力を持つと、へりくだったはずが逆に武士の権力、身分を象徴する1人称代名詞になり、尊大なニュアンスを帯びるという言語の意味、使い方の変遷が起きる。従って現代に生きる人間達にとっては芝居や映画やテレビなどで時代劇を見る時ぐらいにしか「拙者」などという言葉とは無縁である。そこで古文書などで上層の百姓階級である庄屋階級や御用商人などが「拙者」という言葉を使用するときは文字通り謙遜の意義があるのだが、元々は武士の言葉であるから、自分たちの階級や身分が武士に近似していることを暗にほのめかすことになる。ヨーロッパ語はギリシャ、ローマ時代から文法的に人称代名詞が固定化し、一定化しているから、身分や立場に拠って人称代名詞を使い分けることなどしないから、言語によって身分や立場、あるいは性別などを差別しない。ヨーロッパ文明がギリシャ、ローマ時代から言語上の自由、平等原理を確立していたことが大文明を生み出した最大の秘密でもある。日本語は従って第1人称に対応して第2人称も相手の地位や身分、立場などを考慮しなければ迂闊に物を言えないのである。そこで国会議員などはその身分や役職を以て第2人称に代用する。国会の予算委員会での質疑を聞いていると、総理と言ったり、議員と言ったり、委員と言ったり、大臣と言ったり、あるいは総裁と言ったり、長官と言ったりなどまさに千差万別である。ここに民間人が加われば、会長になったり、社長になったり大忙しである。又教員でもないのに先生と言う第2人称が使われるのは周知の所である。社会的身分がない作家や評論家などにも先生が一般的である。芸能人、スポーツ選手などには姓名を以て第2人称に代える。日本人にとっては身分や地位を現す肩書きが非常に重要であり、相手を指す時の第2人称に取って代わる働きを持つ。家族中でも妻が夫を「お父さん」と呼び、夫が妻を「お母さん」と呼ぶ。何とも奇妙な現象であるがそれが慣れればそれも十分に第2人称の役目を果たす。ヨーロッパ語の人称代名詞は自分に属しているのか相手に属しているのかそれとも第3者に属しているのかをはっきり区別できれば必要にして十分である。日本語はそれを極端な場合は皆、職業、地位、場所、名前の違いによって区別する。このような日本語の特性は機能に拠って人称を区別できないから、相手の身分や地位、立場、名前などの属人性に拠って区別する。最近テレビに出てきてインタビューを受ける芸能人やスポーツ選手は第1人称代名詞として「自分」という言葉を使う。「自分」という言葉には身分や階級、地位、立場に伴う微妙なニュアンスはないから、威張っているとも、へりくだっているとも取られずに済むというその世界特有の人間関係に適応した言葉使いを示す。「私」とか「俺」とか「僕」とかいう代表的日本語の1人称代名詞を状況に応じて使い分ける困難を避けられる知恵である。「自分」というのは元々は当該人物が「それ自身」「己」を指す言葉であり、区別する対象は相手ではなく、「他者」である。つまり「自他」を区別する言葉なのである。当該人物に限らず当該事物においてもそれ自身を差す時は「自己」であり、それ以外の物を指す時は「他者」であるという区別である。従って最も普通の用法は[AにとってAは自己であり、Bは他者である]というふうに使う。決して[A]が自己であり、[B]が他者であるということではない。
眼の前のコーヒーカップが自己同一性を保つのはそのコーヒーカップを認識する認識者が自己同一性を保つからである。見る側が自己同一性に絶対性がなければ、眼の前のコーヒーカップも自己同一性を失うことになる。意識が絶対的自己同一性を確保する所以は意識がそれ自身しか意識できないという機制を持っているからに他ならない。私は生まれてから死ぬまで私以外を意識することはできないから私と言う自己認識が成立すると言える。