若い時は世の中を相手にしないという独り善がりで開き直って来たが、さて紛れもない老人になってからは、今度は世の中が全く相手にしてくれないという事実に直面し慌てている。若い時に世の中に対して謙虚に振る舞っていれば、年を取ってからはその功績によって世の中が敬意を払ってくれるという巡り合わせになっていることに、今更のように気がついて後悔するが、時すでに遅しというべきである。60代に入る頃まではまだこんな弱気な感慨に襲われることはなかったが、この数年の精神的後退は予想以上に著しい。ということはここ数年の肉体の衰えから来ているということだ。肉体の衰えとは生命の老化であり、それが取りも直さず、精神の老化を齎しているのだ。生命の老化とは死が忍び寄っているということだ。人間はある時に生まれて、そしてある時に死んで行く生物学的法則の内にある。生まれた以上は死ぬことは決まっている。そんなことは子供でも知っているが、本当に自分が死ぬことを知ることは容易なことではない。単なる知識とそれが自分の事実であることの認識には距離がある。自分と同じ時代、社会を生きて来た同世代の知人が死んだという知らせが、時をおかず、伝えられて来ると否応なく死の接近を認めざるを得ない。
若い時はいつ死んだっていいなどと嘯いていた自分が医者に健康状態に問題はないと言われて、安堵するのに苦笑する。命が惜しくなって来たのだ。若い時は命がまだたっぷりあったので惜しげもなく大盤振る舞いしたのが、今は残り少なくなったので惜しくなって来たのだ。つまりは効率の極めて悪い、燃費が極めて悪い、非効率な人世を送って来たということに他ならない。それは少し虫がよすぎるというものだ。若い時から命を惜しんでこつこつためて来た人間と、惜しげもなく乱費して来た人間を同一線上に論じることは不公平である。イソップ物語の「蟻とキリギリス」の教訓そのものである。生き恥を晒しながら、なお生きることに執着する自分を如何ともすることが出来ない。金剛空間の虚傲もここまでが限界でもはや敗北宣言も止むを得ない。夏の終わりを告げる法師蝉の声が寂びしい。ドイツの狂気の哲学者ニーチェは同情という感情を最も軽蔑したが、金剛空間も人の同情を買うようになってはおしまいだ。最後の最後まで強がりを通さなければならない。はしなくも自らの弱気を吐露したところで、改めてさらなる高みを、否さらなる深みへと没落を果たすのみ。敗北宣言など無用にしなければならない。マッカーサー将軍ではないが、老兵は消え去るのみ。
折れたまま咲いて見せたる百合の花 透谷