平成27年明けましておめでとうございます。主宰の人徳などはこれっぽちもないが、友人、知人に支えられ、そして才能豊かな同人、会員の熱意に拠って、今年5月には『天草俳壇』主宰就任9年目に入り、51号から引き継いで今号で81号になる。このままの調子でいけば主宰10年も夢ではなく、100号発行も実現するかも知れないなどと初夢を見ている能天気振りを初笑いするもよし。主宰に就任して分かったことは主宰などというものは大所高所から全体を見回したり、見下ろしたりするものではなく、実は隅々を見て回り、見上げたり、見下げられたりするものだという実に情けない発見である。毎号毎号送られて来る投句7句を一句ずつ目を通し、その中から1句だけ落として6句掲載するという仕組みの意味は7句全句を掲載すれば、主宰が1句ずつ目を通さなくとも、右から左に自動的に全句掲載すればいいから、自然と投句に対して単なる機械的作業になって行くのは成り行き上考えられるから、それを牽制することにある。だから7句と6句の違いには先人の大きな知恵が働いていることと察せられる。又仮に主宰がその道においていかに優れていたとしても、多勢に無勢、知識、見識の差、人生経験の多寡、あるいは活動範囲の広さ、さらには環境の違いなど個々人の知識、能力は千差万別、総合的に判断すれば主宰など取るに足りない才能、経験、知識の持ち主に過ぎない。況してや昨日今日俳句を始めたばかりであり、持って生まれた才能も乏しく、その上精進ぶりたるやお粗末の限りであり、能天気さとこそこそ逃げ回るぐらいしか取り柄がない金剛空間などがここまで曲がりなりにも主宰を勤められてきたのは誰にも理解出来ない七不思議である。そういう点から行けば主宰などは古今を絶する大天才が独裁者として万能の采配を揮うよりも無能無芸の小使い同然の凡庸な存在の方がうってつけかも知れないとも自分を慰める次第である。今更富も名誉も地位も権力も望んでも叶わぬ老いぼれであるから、若いころの驕り高ぶった夢の数々はさらりと放り捨てて天上天下唯我独尊と嘯きながら、遠からず引導を渡される日が近いことを恐れながら新たな1年勤めさせていただくばかりである。
初夢や痩せ衰えて骨ばかり
うとうとと新橋芸者や初枕
新年や三日坊主の反古の山
金剛