春や昔十五万石の城下哉 (子規)
松山や秋より高き天守閣 (子規)
松山空港からリムジンバスで約二十分、三角屋根のレトロなJR松山駅に着く。駅前には 子規の「春や昔」の句碑がデンと建っている。正面に松山城のある勝山が聳えているがここから城は見えない。松山城は現存十二天守の一つで、賤ヶ岳七本槍で名高い加藤嘉明が慶長七年から二十五年の歳月をかけて建造した美しい城郭である。
松山は伊予鉄道の路面電車の街である。路面電車が松山城を取り巻いて走り、市の中心は伊予鉄の松山市駅周辺に広がる。JR駅から街を歩いていると、「俳句甲子園」の広告を付けた電車に出会った。松山は子規をはじめ高浜虚子、河東碧梧桐、内藤鳴雪、中村草田男、石田波郷などを輩出した俳句の故郷であり、市内には四百以上の句碑と九十以上の観光俳句ポストがあるそうだ。俳人・漱石もこの地で誕生したといえる。松山市駅では道後温泉に行く「坊っちゃん列車」が出発を待っていた。
子規堂―少年時代の子規の面影
松山市駅で線路をくぐり抜け子規堂を訪ねた。子規堂は、子規が十六歳で上京するまで暮らした湊町の住居の一部を、正宗寺の構内に復元したもので、復元には住職・仏海禅師や、後に「ほとゝぎす」の発行者となる柳原極堂が尽力した。最初の復元は大正十五年だがその後火災や戦災で焼失し、現在の建物は昭和二十一年に再建されたものである。寺の入り口左には与謝野晶子の 子規居士と鳴雪翁の居たまえる伊予のお寺の秋の夕暮 、右には斎藤茂吉の 正宗寺の墓にまうでて色あせし布団地も見つ君生けるがに の歌碑が建つ。構内を少し進むと子規の旅立ちの像が置かれた子規堂がある。玄関左手の墓地入り口には子規の遺髪を納めた埋髪塔、内藤鳴雪の髭塔、虚子の筆塚が並び建つ。
玄関を入るとすぐ左にある子規の勉強部屋は、小学校卒業を前に、母・八重が増設した三畳間で、勉強机が置かれ、書道の師・香雲の扁額が架かる。奥の居間には、病床で描いた植物画、秋山真之からプレゼントされた毛布、「ほとゝぎす」一・二号、愚陀佛庵の当時の写真などが展示されている。
松山中学時代、自由民権運動の影響を受け政治に熱中していた子規が、仲間たちが続々と上京するのを見て、「(松山で)一年間で一寸の知識を得んよりは」「一年の時日を東京に費やして一尺の智識を得らん事私の希望」と決意し、母・八重の弟加藤拓川に上京の希望を述べ、明治十六年六月上京する。玄関前の旅立ちの像はその決意が漲っている。
子規とベースボールと碧梧桐・虚子
子規堂の前には「坊っちゃん列車」の客車と並び、野球のユニホーム姿の「子規と野球の碑」がある。上京し東京帝国大学予科に入った子規はベースボールに熱中した。子規の俳号の一つは野球(のぼーる)でる。ベースボールは、子規と二人の弟子を結ぶことになる。子規は当時松山中学の生徒だった碧梧桐は明治二十二年夏、子規にベースボールの手ほどきを受けた。翌年虚子もそれに加わった。「松山城の北に練兵場がある。ある夏の夕そこへ行って当時中学生であった余らがバッチングを遣っていると、そこへぞろぞろと東京帰えりの四、六人の書生が遣ってきた。(略)『おいちょっとお借しの』とそのうちで殊に脹脛の露出したのが我らにバットボールの借用を申し込んだ。」(「子規居士と余」高浜虚子)。この脹脛の書生こそ子規であった。
後に子規は新聞「日本」に競技の仕方・魅力・用語の訳語を掲載した。打者・四球・死球などは子規の作った訳語だといわれる。東京上野公園には正岡子規記念球場がある。春風やまりを投げたき草の原
子規の死後、新傾向俳句に突き進む碧梧桐と、花鳥諷詠を掲げる虚子は激しく対立するが、虚子は たとふれば独楽のはぢける如くなり と同級生を偲んだ。子規は「虚子は熱きこと火の如し、碧梧桐は冷ややかなること氷の如し」と評している。
松山市駅付近の子規らの碑
駅の周辺には、子規誕生邸跡、子規邸跡、大原観山邸跡、子規母堂令妹住居跡、ほとゝぎす発刊の地、河東碧梧桐生誕の地、高浜虚子旧居跡、などの碑が点在する。しかしこれを見つけるのは至難の業だ。一草庵でいただいた「俳都松山の句碑巡り」という詳細な地図がなければ見つけるのは至難の業だっただろう。
正岡子規誕生邸跡:JR駅から松山市駅に行く途中の花園商店街歩道に碑がある。子規はここで慶応三年九月十七日に生まれた。
正岡子規邸跡:翌年正岡家は湊町新街に転居した。高浜虚子の生家池内家と隣合わせである。しかし、この家は明治二年全焼し、明治五年三月には父・隼太(常尚)が三十九歳で死去するという不幸に見舞われた。子規は二歳から十六歳で上京するまでここで過ごした。
正岡子規母堂令妹住居跡:子規が上京後松山に残った母・八重と妹・律の住居で、八重の実家屋敷内にあった。
大原観山:大原観山は八重の父で藩校明教館教授。子規は観山の漢学塾に通っていた。
河東静渓住居跡(河東碧梧桐生誕地):碧梧桐は明治六年二月二十六日この地で生まれた。父親・靜渓は昌平黌に学んだ儒学者で藩校・明教館教授。後に私塾千舟学舎を開く。子規はここで儒学を学んでいる。
高浜虚子旧居跡:虚子は明治七年二月二十二日、池内家の五人兄弟の末っ子として松山市長町(現・湊町)に生まれたが、八歳のとき祖母方の高浜家を継いだ。明治十二年から第三高等中学校に行くまでここに住んだ。
俳誌『ほとゝぎす』創刊の地:『ほとゝぎす』は子規の意を受けた松山中学の学友・柳原極堂の手によって、明治三十年一月創刊された。翌年、発行所を東京に移し、虚子が『ホトトギス』刊行を継続することになる。
愚陀佛庵―松山の子規と漱石
明治二十八年、子規は日清戦争の従軍記者として大陸に渡ったが、その帰途の五月、船中で喀血し神戸・須磨で療養する。八月松山に帰省した子規は、松山中学の英語教師として松山に赴任していた漱石の下宿・愚陀佛庵で、五十二日間同居することになる。
桔梗活けてしばらく仮の書斎哉 (子規) 愚陀佛は主人の名なり冬籠 (漱石)
子規はこのとき柳原極堂を中心とする松風会の面々としきりに句会を開き、松山の新派俳句を指導していた。漱石もその句会に参加し、ここに漱石が誕生した。「僕は二階にいる、大将は下にいる。そのうち松山中の俳句を遣る門下生が集まって来る。(略)僕は本を読む事もどうすることも出来ん。(略)とにかく自分の時間というものがないのだから、やむをえず俳句を作った。」(漱石「正岡子規」)。子規はこの間、俳論「俳諧大要」の構想を練り、翌年から『日本』に連載することになる。
愚陀物庵は、城山の南の麓に復元されていたが、平成二十二年の大雨による土砂災害で崩壊してしまい、現在は子規博物館の中に居間が復元されている。
子規が東京に帰るとき、二人はそれぞれ別れの句を詠んだ。子規にとってこれが最後の帰郷となる。
秋の雲ただむらむらと別れかな (漱石) 行く我にとどまる汝に秋二つ (子規)
何事も分類することが好きだった子規は、友人を次のように分類した。畏友漱石、文友柳原極堂、剛友秋山真之。
松山市立子規記念博物館
博物館は、道後公園の中に昭和五十六年オープンした。館内は道後・松山の歴史、子規とその時代、子規のめざした世界、のコーナーにわかれ、子規をめぐる人々や漱石の多数の資料が展示され、各テーマごとのビデオも充実している。三階には愚陀佛庵の一部が再現されている。
子規も漱石も山頭火も浸かった道後温泉
博物館から十分ほど歩くと、三千年を越える歴史を誇る日本最古の温泉の一つ、道後温泉に出る。道後温泉本館は明治二十七年建設された三層楼の構えで、足を痛めた白鷺が温泉に浸かって怪我を治したという伝説に因んで屋根には白鷺の像が建つ。五帝三后をはじめ多くの文人墨客が来湯した。漱石は子規や虚子と連れだってしばしば入浴し、後に山頭火も日参したという。
道後温泉から西へ十分くらい行くと「俳句の道」。広い道路には松山ゆかりの俳人たちの句碑が並んでいる。それを更に西へ二十分位いくと、一草庵に着く。
種田山頭火の一草庵
松山市駅からは、伊予鉄バス護国神社前で降りバス停から五分。松山の城北、御幸山の麓に山頭火の終焉の庵・一草庵がある。
昭和十四年十月、山口の湯田温泉を去った山頭火はぶらりと松山へ来たが、「層雲」同人たちの尽力で十二月十五日一草庵に入庵する。「わが庵は御幸山すそにうずくまり、お宮とお寺にいだかれてゐる。老いてはとかく物に倦むみやすく、一人一草の簡素で事足りる。所詮私の道は私の愚をつらぬくより外にはありえない。(「一草庵記」) おちついて死ねそうな草枯るる。しかし翌年十月十一日、脳溢血で念願のコロリ往生を遂げる。享年五十九歳。庭には 濁れる水のなかれつゝ澄む の句碑が建つ。
現在の建物は平成二十一年リニュアルオープンし、土・日・祝日に一般公開されている。「山頭火案内人」の方々が詳しく案内してくださる。漱石の「坊ちゃん」には虚子の体験が参考になっているとか、NHKドラマ山頭火を演じる予定だった渥美清が脚本家の早坂暁氏と一緒に来庵し、仏壇で木魚を叩いた後、やっぱり山頭火は演じられないとつぶやいたことなど興味深いお話しを聞くことができた。縁側には師・荻原井泉水筆「一草庵」の扁額が掲げられている。
三庵巡り- 庚申庵、愚陀佛庵、一草庵
上記三庵を巡るコースがある。庚申庵は一茶が二度にわたって来遊し親交が深かった栗田樗堂の草庵である。樗堂は酒造業を営む豪商で、草の戸の古き友也梅の花 の句がある。建物は二〇〇三年復元された。
松山は俳句、漱石、秋山兄弟ゆかりの見所がたくさんあり、結局道後温泉も外から眺めただけだった。
参考文献
松山市立子規記念博物館小冊子。 『正岡子規』ちくま日本文学
『正岡子規』ドナルド・キーン、新潮社
『正岡子規』坪内稔典、岩波新書
『山頭火句集』村上護編、ちくま文庫
『漱石俳句集』坪内稔典編、岩波文庫
『子規居士と余』高浜虚子、青空文庫