「そういうことになりますか」
隣りの席から聞こえてくる声に、成田益男は、
「これはいいんだよな」と思う。
昼下がりの電車は空いていて、隣のサラリーマン風二人連れが、盛んに話し続けている。成田が隣の会話を気にしているのは、昨日読んだ、コラムニストと称する人の、最近の日本語はけしからんというエッセーの中に、「なります」を連発するファミリーレストラン店員の話が出ていて、成田自身も深く共感するところがあったからである。
席に案内されて、「こちらのお席になります」、注文した冷やし中華を運んできて、「こちら冷やし中華になります」、最後にレジでは「八百円になります」と、やたらと「なります」を連発するが、おかしいのではないか。大体、どう見ても冷やし中華にしか見えないものを持ってきて、「冷やし中華になります」とは何事だ。これは未だ冷やし中華ではなくて、しばらく経てば冷やし中華になるというのか。冷やし中華になるまで何分待つのだ。といった内容で、成田もどちらかといえば、最近の日本語の乱れには憤っていたクチだから、それ以来、以前にも増して、「なります」が気になるのだ。
サラリーマンが話しているのは、会社の人事の話らしく、だれが次の課長になるかで、一人が「順当にいけば小林係長だろう」と言ったのに対して、もう一方が、「そういうことになりますか」と応じたところである。
この場合の「なります」は、本来の使われ方をしているわけで、「これはいいんだよな」と成田は考えるわけである。さらに、「小林係長が課長になります。これもいいよな。係長が課長になるのだから、本来の使われ方だ」と思う。
そうこうしているうちに電車がターミナル駅に到着し、隣の二人連れに続いて成田も席を立った。成田は、この駅から歩いて五分ほどのところにある文具メーカーに勤務している。所属は営業部、奇しくも役職は課長である。もっとも、日本中の会社員の何割かは課長だそうだから、「奇しくも」などというのは当たらないかもしれない。かつて、ある出版社がそこに目をつけて「月刊課長」というビジネス誌を創刊したが、1年と持たなかったそうだ。
社に戻ると、課員の斎藤京子が寄ってきて
「課長、お留守の間にスズキ印刷の山田さんがお見えになりました」という。
成田は「わかった」と返事をしつつ、「なりましたは、なりますとは違うよな。それに、お見えになりますでも、お見えになりましたでも正しい日本語だから、もともと問題はないじゃないか」などと考えてしまうのである。
しかし、斎藤京子は、「これが山田さんが持ってこられたカタログのゲラになります」と続けた。
成田は「さすがにこれはまずいだろ。目の前にあるのは紛れもないわが社所商品を紹介するカタログの見本刷り、いわゆるゲラではないか。それが一体、どうして、どのくらいでゲラになるというのだ」と考える。ここは、ビシッと注意すべきなのだが、細かい言葉使いをいちいち指摘する嫌味な上司と受け取られるのではないか、湯沸し室で女子社員達の噂話の種にされるのではないか、などとウジウジと考えてしまい、結局は、生返事をしただけで終わってしまう。
何だかすっきりしない思いでゲラに目を通していると、係長の高橋守が近づいてきて
「課長、島田製作所の方がご挨拶にお見えになっています」という。島田製作所は、取引先で、最近担当者が変わったという話を高橋から聞かされていた。高橋は既に会って面識もあるようだが、成田は、今日が初対面である。
高橋と二人で応接室に入っていくと、三〇代と思しき男性が立ち上がった。高橋は、
「渡部さんわざわざお越しいただきまして申し訳ありません」そして成田に、「課長、島田製作所の渡部さんです」続いて渡部に
「渡部さん、こちらが課長の成田になります」
おいおい、俺は未だ成田じゃないのかよ。じゃあ、いったい誰なんだ。