伊那谷
新宿駅から高速バスで3時間半、信州の伊那駅に着く。晴れていればアルプスの山々が迎えてくれるところだが、あいにく空は荒れ模様。伊那谷は、天竜川の浸食と堆積によってつくられ、約七十キロに及ぶ。現在は、中央自動車とJR飯田線が並行して走っているが、昔は、中仙道の脇街道として三河に至る道、善光寺参りや木曽に抜ける道が交差し、物資、文化,信仰が行きかう街道筋であった。この土壌の中で俳諧に親しむ土地柄が形成されていったのだろう。伊那谷に、幕末から維新を越えて一人の俳諧師が漂っていた。
つげ義春『無能の人』
つげ義春に『無能の人』という作品がある。学生のころ読み、人生が霞の中に溶けていくような不思議な読後感を味わった作品だが、この最終章「蒸発」に井月が描かれていることは全く覚えていなかった。先日、これに触れた新聞記事を見つけ、四十年ぶりにつげ作品がいっぱい詰まった段ボール箱をひっぱり出してきた。
つげ義春は、伊那谷の井月を以下のように描いている。井月は世に知られることなく伊那谷の底に沈んでいた。安政五年、井月三十六、七歳の頃、忽然と伊那谷に現れたとき、腰に木刀をさし尾羽打ち枯した浪人じみた凄みがあったという。何処からやってきたのか素性来歴一切不明。越後長岡藩士との説もあるが推測の域をでない。しかし学識勝れ書道練磨吟詠迅速神技の如し。そのまま居つくこと三十年に及ぶ。生活ぶりは一所不在の風来坊。俳諧趣味のある家を泊り歩き、随所で昼寝もすれば野宿もした。きわめて寡黙だったが機嫌の好いときは千両千両が口癖。無頼の酒好きだがすぐ泥酔した。そのうちシラミはたかりヒゼンを病み次第に疎まれ、もてあまされるようになった。そして終焉…。つげは、これは「下島勲、高津才次郎編『井月全集』の奇行エピソードの部分をそのまま写させて貰いました」と記している。
下島勲・芥川龍之介と『井月の句集』
下島勲は、芥川龍之介の主治医である。これについては、後に下島の日記を発掘し、龍之介自裁の謎に迫った山崎光夫氏の労作『藪の中の家』(文芸春秋)に詳しいので。以下、それから要約させていただく。
下島勲は明治二年、現在の長野県駒ヶ根市中沢に生まれ、伊那の山河に育った。井月は下島家にも寄食し、下島の少年時代、乞食しながら放浪する井月に何度も出会っている。後年、空谷と号して好んで俳句を詠む。上京して慈恵医院医学校卒業。明治四十年秋、下島三十八歳のとき、田端に楽天堂医院を開業。龍之介が田端に転居してきたのは大正三年十月末、下島は龍之介より二十二歳年上である。両家は四、五分程度しか離れておらず、親密な交際が続く。
下島の趣味は広く、舞や謡に通じ、書画骨董好きであった。書にも優れていたので、龍之介は下島に懇願し『澄江堂』の扁額を揮毫してもらい、従来の『餓鬼窟』をはずして、書斎に掲げた。
下島は大正十年十月、井月研究の集大成ともいうべき『井月の句集』を自費出版した。
この本に龍之介が跋文を寄せている。「空谷下島先生の『井月の句集』が出るそうである。何しろ井月は草廬さへ結ばず、乞食をしてゐたと云うのだから、その句を一々集めると云ふ事は、それ自身容易な業ではない。私はまず編者の根気に、敬服せざるを得ないものである。(略)井月は時代に曳きずられながらも古俳諧の大道は忘れなかった。(略)集中に散見する彼の佳句は、この間の消息を語るものである。しかも亦彼の書技は、『幻住庵の記』等に至ると、入神と称するをも妨げない。(略)このせち辛い近世にも、かう云ふ人物があったと云う事は、我々下根の凡夫の心を勇猛ならしむる力がある。」
下島からこの本を贈られた龍之介は礼状の中で、「井月の句集なる 月の夜の落栗拾い尽くしけり」と詠み下島の労をねぎらった。この落栗の句は後述する井月の句に因んでいる。後に芥川が自裁した際、龍之介は下島宛短冊に、水洟や鼻の先だけ暮れ残る の句をしたためた(以上、前述山崎光夫著作による)。また龍之介家には、駒ヶ根に日和定めて稲の花 の井月短冊が保存されていたという(『信州二人の放浪俳人 一茶と井月』春日愚良子、ほおずき書籍)。
『井月の句集』には、俳句千二十八句、連句五、文章三、書簡一、略伝奇行逸話が収録された(江宮隆之『井上井月伝説』河出書房新社)。巻頭には、龍之介の要請に応じた高浜虚子が、丈高きおとこなりけん木枯に を寄せている。俳句の収集は、故郷の駒ヶ根で薬剤業を営んでいた十六歳年下の弟、五山(富士)の協力による。なお逸話、俳句、略年譜の抜粋は後年『郷土読み物井月さん』(上伊那教育会編、ほおずき書籍)に再掲された。
その後、県立伊那高等女学校高津才次郎は井月研究をすすめ、大正十三年『漂白俳人井月全集』(下村勲、高津才次郎編)を著した。
伊那谷に現れた当時の井月の姿は、伊那谷の橋爪玉斎が羽織袴の正装、右手に筆、左手に短冊として描いている。現在、六道堤近くの水田の中にある句碑には下島が描いた晩年の井月の絵が添えられているが、伊那谷の漂白のなかで井月はまったく違う姿に変わり果てている。
井月の出自と足跡
井月の出自については謎が多い。文久三年、高遠藩家老岡村菊叟が、『越後獅子』の序文を乞われたときのことを、「わぬしはいずこよりぞと問へば、こしの長岡の産なりと答ふ」と記していること、また明治十八年、井月が塩原家に形式的に入籍した後、義理の娘に婿養子を斡旋する口上書に「末比呂待人井上克三」と自署していること、そして井月の臨終を看取った一人である六波羅霞松(元長岡藩士といわれる)が封書に「塩翁斎柳家井月居士 越後長岡藩士井上勝蔵 明治二十年三月十日示寂」と記していること(春日、前掲書)などから、出身は長岡、姓は井上と推測されている。
井月が伊那谷に現れるまでの足跡は、残された井月の俳句から類推できる。井月は時雨忌に際し 我が道の神とも拝め翁の日 と詠むほど芭蕉を崇拝していたので、恐らく江戸遊学後、十数年間、芭蕉の跡をたどって須磨以北の全国を旅していたと思われ、各地で芭蕉に因んだ句を詠んでいる。
象潟や雨に西施が合歓の花(芭蕉)
象潟の雨なはらしそ合歓の花(井月)
また、芭蕉の「七部集」を肌身離さず持ち歩き、俳文「幻住庵記」をそらんじていたという。
このころ全国各地で交わった俳諧人の三百八句を集めた句集が前述の『越後獅子』であるが、巻末に 時鳥旅なれ衣脱ぐ日かな の井月の句が収載されている。
井月の墨書。その寂しき終焉
井月の墨書は、伊那谷の趣味人を魅了し、富県村日枝神社に奉納額を揮毫したのをはじめ、各地に揮毫を残した。そのうち清水庵(写真)の句額は現在も保存され、本堂の前には 旅人の我も数なり花ざかり の句碑が建立されている。
下島は井月の書について「一口で云えば井月独特のもので、真に品格の優れたいわゆる高雅な書であると思う。(略)また短冊、色紙などの假名書きは芭蕉に似た趣きなどがあろうが、なんとなく加茂流を通して光悦あたりを偲ばせる」と記した。そして井月は前述したように幻住庵記をそらんじて書いたが「井月の書き残した『幻住庵記』で今までに伊那谷で発見されたものは、わかっているものだけで十数点にのぼる」(春日、前掲書)という。
明治八年、井月は甲州の俳人早川漫々の俳論の要諦を纏め『俳諧雅俗伝』を著した。その中で「ものに執着の心を離れて詠むことは俳諧を学ぶの極意である」と彼の立ち位置を明らかにしている。
明治十七年、六十三歳の頃、井月の晩年を心配した伊那谷の俳諧人達のすすめにより太田窪の塩原家(梅関)へ婿入りし、塩原清助と名を改め、翌年、地元の人々の俳句も多数収録した『余波の水茎(なごりのみずくき)』を編んだ。跋文に、「古里の芋を掘りて生涯を過ごさんより、信濃の路に仏の有りがたさを慕はんにはしかじかと、此の伊那にあしをとどめしも良二廿年余りに及ぶ。取分、親しかりける人々の、むかしを思い出して夜寒を語る友垣に換るものならし。落栗の坐を定めるや窪溜り 柳の家」と記す。この句碑は現在、井月の墓近くに移され、山頭火の墓参の句碑と並んで建っている。
傍らには「俳諧井月終焉の地、落栗碑移設記念」の標がある。婿入りし、伊那を終焉の座として定めたはずの井月だったが、その後も漂白は続いた。
明治十九年師走、駒ヶ根の田んぼの中で行き倒れている井月が村民に発見され、高遠町の六波羅露松宅に運ばれ、さらに塩原梅関宅へ移されたが、明治二十年二月十六日、霞松のすすめた焼酎を一献飲み、その生を終えた。享年六十六歳。奇しくも西行と同じ命日であった。
臨終に際し、霞松の求めに応じ、何処やらに寉の声聞く霞かな と詠んだ。この句は以前詠んだ句であるが、これが絶筆となった。現在、太田窪から移された句碑(写真)が六道堤の高台にある。碑陰は下島の筆による。
井月の句碑は現在伊那谷に約五十ほどある(「井月の句碑マップ」井上井月顕彰会発行による)というが、この碑が最初の句碑である。
井月の墓(写真)は塩沢家の墓地の中に、杉の巨木を背に建っている。それは玉子形をした石が一つ台座に乗っているだけの質素な墓だった。
句碑には 降るとまで人には見せて花曇り と刻まれたが、現在、文字はすべて風化し、何も読めない。晴れていれば墓石の背景に仙丈ケ岳が青空いっぱいに広がるはずである。
山頭火の墓参
種田山頭火は、昭和九年、井月の墓参のため伊那に入ったが飯田で肺炎を患い断念、十四年、宿願の墓参を果たした。山頭火の『風来居日記』には、五月三日の墓参の様子が記されている。「夕日をまともに、明るく清く。駒ヶ岳、仙丈ヶ岳。新しい盛土。石がのせてあった。モンペ姿の少女。斑鳩のうた」。そして墓前で即吟四句を詠む。
お墓したしくお酒をそそぐ お墓撫でさすりつつ、はるばるまゐりました
駒ヶ根をまへにいつもひとりでしたね 供へるものとては、野の木瓜二枝三枝
この句碑は前述した井月の落栗句碑と並んで、井月終焉の地に建っている。
山頭火は「私は芭蕉や一茶のことはあまり考えない、いつも考えているのは路通や井月のことである。彼等の酒好きや最後のことである」と記したが、無季自由律の山頭火と正当な蕉風の継承者であることを願った井月の取り合わせは興味深い。漂白の人生が二人をつないでいるのだろうか。句碑めぐりの最後に、桜で名高い高遠城跡に登った。ここには、荻原井泉水の墓がある。
数年後、リニアモータカーの駅が飯田駅にできる予定だ。井月が愛した伊那谷はすっかり変わってしまうのだろうか。
参考文献
この原稿を執筆後しばらくして、伊那食品工業の吉澤様から、竹入弘元著『井月の魅力―その俳句鑑賞』(井上井月顕彰会)、井上井月顕彰会監修『井上井月と伊那路を歩く』(彩流社)と映画『ほかいびと 伊那の井月』(製作:井上井月顕彰会+ヴィジュアルフォークロア)のパンフをいただいた。筆者はちょうど中国赴任中でそのお礼もできず、映画を鑑賞することもできなかったが、ここに心よりの謝意を表します。
つげ義春『無能の人』
山崎光夫『籔の中の家』(文芸春秋)
春日愚良子『信州二人の放浪俳人』(ほおずき書籍)
上伊那教育会編『郷土読み物 井月さん』(ほおずき書籍)
江宮隆之『井上井月伝説』(河出書房新社)
復本一郎編『井月句集』(岩波文庫)
今泉恂之助介『子規は何を葬ったのか』(新潮選書)(本書は本稿執筆後刊行された。九章・十章に井月が記述されてる)。