金剛没落回帰大地方程式空間が四半世紀を過ぎ、金剛空間を取り巻く社会にも大きな変化が現れる。既に大半の百姓は姿を消し、自ら水田耕作に従う者の数はめっきり、減ってしまい、金剛空間も日本農業を支える貴重な存在になったという皮肉な社会情勢が出現している。21世紀世界はグローバル空間であり、世界中隈なく情報が瞬時に行き渡る情報社会が実現した。グーグルやフェイスブックが21世紀を代表する巨大企業になった。
百年前、明治43年(1910)6月13日から長塚節は『東京朝日新聞』に長編小説『土』を連載する。当時朝日新聞の文芸方面を担当していた夏目漱石の依頼に由る。漱石は『「土」に就て』と題する長塚節著『土』序において次のように書いている。
「土」の中に出て来る人物は、最も貧しい百姓である。教育もなければ品格もなければ、ただ土の上に生み付けられて、土と共に成長した蛆同様に憐れな百姓の生活である。先祖以来茨城の結城郡に居を移した地方の豪族として、多数の小作人を使用する長塚君は、彼らの獣類に近き、恐るべき困憊を極めた生活状態を、一から十迄誠実に此「土」の中に収め尽したのである。彼等の下卑で、浅薄で、迷信が強くて、無邪気で、狡猾で、無欲で、強欲で、殆んど余等(今の文壇の作家を悉く含む)の想像にさえ、上りがたい所を、ありありと眼に映るように描写したのが「土」である。そうして「土」は長塚君以外に何人も手を付けられ得ない、苦しい百姓生活の、最も獣類に接近した部分を、精細に直叙したものであるから、誰も及ばないと云うのである。
漱石から見れば、「土」の中に描かれた貧しい小作農の生活はほとんど動物的にしか映らなかったのであろう。日本最高の知性である漱石にとっては「土」に描かれた小作農の生活は正に想像すらできないものだったのである。漱石は正直無比な性格であり、殆ど隠し立てをすることもない、地位や名誉にも関心がない。思ったことは思ったまま言い、友人や知人についてもありのままに書く。狡猾なところなどひとかけらもないと言っていいくらい公明正大、友情に厚く、憐憫の情に富み、そして面倒見がいいのだ。その代わり、相手にも自分と同じような心情、振舞いを当然とする。そのような稀有なほどさっぱりした江戸っ子気質の性格であったから、子規との友情も成り立ったのである。子規は田舎者であり、漱石からすれば田舎者特有の世間知らず、お山の大将的振舞いが、しかし、嘘いつわりのない子規の姿が江戸っ子漱石と不思議に馬があったのである。都会人である漱石は田舎者である子規の実直さ、率直さを愛したのである。子規は天才であるが、漱石は勉強しなくても成績が良いすこぶるつきの秀才であり、そして努力家である。
その漱石から見れば、文字すら読めず、江戸っ子漱石には何を言っているのかさえ理解出来ない方言しか喋れない、朝から晩まで田や畑で泥まみれ、汗まみれの小作農の生活などこの世のものとは信じられなかった。文字が読め、ちゃんとした言葉が喋れてこそ人間であった。長塚節は大地主の子弟ではあっても、小作農の生活に通じ、そこに知識や教養とは別の真実があることを見抜くだけの天性があった。その繊細な神経が彼をして旧制中学を神経衰弱のため中途で退学せざるを得ない境遇に追い込んだのである。彼よりは7歳若い早熟の天才歌人石川啄木は僧侶の子弟であり、又同じ岩手の天才詩人宮沢賢治は啄木よりはさらに10年後輩の盛岡中学出身である。宮沢賢治の生家は、質,古着商であり、商人の子弟である。このほぼ10歳違いの3人の歌人、詩人、作家はそれぞれ出身が大地主、僧侶、商家という違いがあり、啄木は農民の生活とは縁がないし、賢治は高等農林出身の自然科学研究者であり、それぞれの出自、経歴が微妙に違っているが、漱石や鴎外のような国や軍からヨーロッパの最先端知識を学ぶために留学を命じられた最高クラスの国家水準のエリートとは大きな隔たりがある。しかしその文学的能力や歌人や詩人としての資質においては優に後者に匹敵するというべきである。残念ながら三者とも結核の病魔に若い命を奪われるという悲劇を免れなかった。
長塚節の文学的才能は彼が明治33年3月28日、子規を根岸に訪ねたことによって開花する。子規が明治35年なくなるまでの短い期間において、子規が主張した写生と言う方法に従って、新たな歌境を開拓し確立する。そして明治40年、『ホトトギス』誌上に発表した写生文「佐渡ヶ島」が漱石に認められて、『土』が東京朝日新聞に掲載されることになった。子規、虚子、漱石と言うホトトギス人脈が『土』という名作を生みだしたのである。
金剛空間の父は英語教師であり、母の父、高木敏雄は旧制五高から東大独文科を卒業し、ドイツ語の教師や翻訳、さらには神話学の創始者であり、柳田国男と共に民俗学の雑誌「郷土研究」を刊行し、在野の民俗学研究者であった南方熊楠とも交遊があったが、文部省在外研究員としてドイツ留学直前に急死した。そのため母は小学6年の時、両親の故郷熊本に引き上げることになった。生前母から、東京の小石川区高田老松町での生活について子供のころの思い出を聞かされた。夏目漱石は明治29年4月、旧制五高に赴任しているが、同じ年の7月高木敏雄が旧制五高を卒業している。その後漱石とも交遊があったような話も聞いたことがあるが、漱石全集の索引には記載はない。
さて金剛空間は不図したことから四半世紀前、金剛没落回帰大地方程式空間に迷い込んでしまったが、その経緯を踏まえて、長塚節の『土』を読むと、漱石の批評はさることながら、主人公勘次が自慢の唐鍬で檪林の開墾を行い、娘のおつうが万能鍬で土の塊を砕きながらその後に従い、終日作業を続ける苛酷さに恐れをなすしかない。そしてそれに由って稼いだ銭を勘次は肌身離さず、腹巻の中に納めるのだ。彼ら親娘にとってその僅かな金はたとえ一銭たりともおろそかにはできない貴重な収入なのだ。『土』の冒頭ではいくらかでも日銭を稼ぐために、行商に出ている母親のお品の行商からの帰宅の場面が描かれ、その夜から急に体の具合が悪くなり、お品はおつうと弟の与吉を残して急死するという不幸な幕開けになる。極限的ともいえる貧困から勘次は盗みをするまでに追い込まれ、おつうは必死になって、証拠の品を隠したりするが、警察沙汰になり、地主の人情に縋って、辛くも犯罪者の汚名を免れる。小説の時間の経過の中で、お品の死から5年以上の歳月が流れ、おつうも20歳を越え、与吉も小学校に上がり、少しは貧しい中にも息が吐けるようになった矢先、祖父の卯平と孫の与吉の不始末から失火し、火事になり、何もかも失ってしまうが、焼けぼっ杭を使って掘立小屋を造り、再起に向かって立ち上がる所で作品は終わっている。金剛空間の祖父は郵便局長、父は英語教師であり、戦後の農地改革で自ら耕作しない地主の土地が小作人へ解放されるという事態の中で、いくらか残った土地は従前通り小作に出し、自ら田を作ることになったのは金剛空間が金剛没落回帰大地方程式空間を決断したことに由って、奇跡的に出現したのである。金剛空間も父や母方祖父に倣って、大学で哲学や文学を学んで、その方面に進むはずが、挫折を余儀なくされ、母が必死になって守った田舎の土地に身を沈める羽目になってしまったのは如何なるDNAのなせる業であったか。