天才は自らの狂気を恐れる。恐れるあまり、自殺を試みる。明治27年5月16日払暁、北村透谷は東京芝公園地内の自宅の庭で縊死する。25歳である。前年末にも自殺未遂を起こしている。大日本帝国が日清戦争を戦う2か月前のことである。
北村透谷を一夜にして日本近代文学の旗手とした評論「恋愛と厭世詩家」の冒頭の一節は次の文章で始まる。
恋愛は人世の秘鑰なり。恋愛ありて後人世あり。恋愛を抽き去りたらむには人世何の色味かあらむ。然るに尤も多く人世を観じ、尤も多く人世の秘奥を究むるといふ詩人なる怪物の尤も多く恋愛に罪業を作るは、抑も如何なる理ぞ。古往今来詩家の恋愛に失する者、挙げて数ふ可からず。遂に女性をして嫁して詩家の妻となるを戒むるに至らしめたり。詩家豈無情の動物ならむ、否、其濃情なる事、常人に幾倍する事著るし。然るに綢繆終りを全うする者尠きは何故ぞ。ギヨオテの鬼才を以て、後人をして彼の頭は黄金、彼の心は是れ鉛なりと言はしめしも、其恋愛に対する節操全からざりければなり。バイロンの崇峻を以ても、彼の貞淑寡言の良妻をして狂人と疑はしめ、去って以太利に飄泊するに及んでは、妻ある者、娘ある者をしてバイロンの出入を厳にせしめしが如き。或はシエレイの合歓未だ久しからざるに妻は去って自ら殺し、郎も亦た天命を全うせざりしが如き。彼の高厳荘重なるミルトンまでも一度は此轍を履んとし、嶢确豪逸なるカーライルさへ死後に遺筆を梓するに至りて、合歓団欒ならざりし醜を発見せられぬ。其他マルロー、ベン・ジョンソン以下を数へなば、誰か詩人の妻たるを怖れぬ者のあるべき。
「恋愛は人世の秘鑰(やく)なり。」という書き出しが島崎藤村を驚かせた。「恋愛は人世の秘鑰(やく)なり。」と言う文の意味は「人世の鍵は恋愛にある」と言っているのである。この評論が発表されたのは明治25年3月の『女学雑誌』であるから、透谷自殺の2年前であり、芥川龍之介が誕生した年に当たる。日本人は恋愛に否定的な考えは持ってはいなかったが、正面切って恋愛が人世の鍵であると言い切ったものは江戸時代はもちろん、明治になってもまだ誰もいなかった。透谷のこの恋愛至上主義ともいうべき一言に由って、日本近代文学が幕開けしたというのが文学史における評価である。そのことを後に島秋藤村が『桜の実の熟する時』の中で次のように書いている。
『恋愛は人生の秘鑰なり、恋愛ありて後、人世あり。恋愛を抽き去りたらむには人生何の色味かあらむ。然るに最も多く人世を観じ、最も多く人世の秘奥を究むるといふ詩人なる怪物の最も多く恋愛に罪業を作るは抑も如何なる理。ぞ』
これは捨吉が毎月匿名で翻訳を寄せて居る吉本さんの雑誌の中に見つけた文章の文句だ。捨吉は最初の数行を読んで見たばかりで、もうその寄稿者が奈何いふ人であるかを想像し始めずには居られなかった。彼は薄い桃色の表紙のついたその雑誌の中を辿って見た。
『思想と恋愛は仇讐なるか。安んぞ知らむ恋愛は思想を高潔ならしむる慈母なるを。エマルソン言へることあり、最も冷淡なる哲学者といへども恋愛の猛勢に駆られて逍遥徘徊せし少壮なりし時の霊魂が負ふたる債を済ます能はずと。恋愛は各人の胸裡に一墨痕を印して外には見る可らざるも、終生抹すること能はざる者となすの奇蹟なり。然れども恋愛は一見して卑陋暗黒なるが如くに、其実性の卑陋暗黒なる者にあらず。恋愛を有せざる者は春来ぬ間の樹立の如く、何となく物寂しき位置に立つ者なり。而して各人各個の人生の奥義の一端に入るを得るは恋愛の時期を通過しての後なるべし。夫れ恋愛は透明にして美の真を貫ぬく。恋愛あらざる内は、社会は一個の他人なるが如くに頓着あらず。恋愛ある後は物のあはれ、風物の光景、何となく仮を去って、実に就き、隣家より吾家に映るが如く覚ゆるなれ。』
これほど大胆に物を言つた青年がその日まであらうか。すくなくも自分等の言はうとして、まだ言ひ得ないで居ることを、これほど大胆に言つた人があらうか。捨吉は先ずこの文章に籠る強い力に心を引かれた。彼の癖として電気にでも触れるやうな深い幽かな身震ひが彼の身内を通過ぎた。
島崎藤村が上の文章を発表したのは大正7年2月『文章世界』誌上のことである。藤村が初めて透谷の文章に感動してから四半世紀の時間が流れているが、その感動は少しも薄れることがなかったのだ。透谷もまた藤村を通じて生き残ったということが出来る。藤村なければ、透谷の天才も明治文学史の一部分に名を残すにとどまったかも知れない。稀有なる魂の邂逅が透谷、藤村という日本近代文学の偉大な先駆者とその後継者を生んだのである。
天才は何故自殺願望を育み、繰り返し自殺を試み、遂に目的を果たして死の世界へ旅立ってしまうのだろうか。透谷はまだ10代から20代にかけて自由民権運動に身を投じ、早くも政治的社会的活動の素質の欠如を身を以て知り、文学へ志す。そしてこの民権活動から離脱する中で東京三多摩民権活動の最高指導者石坂昌孝の長女、3歳年長の石坂ミナと運命的出会いを果たし、紆余曲折の恋愛時代を経て、3年後数寄屋橋教会で結婚式を挙げ、京橋区弥左衛門町の自宅で新婚生活が始まる。透谷は没落士族出身の貧書生であり、石坂ミナは何不自由ない大地主の長女であり、横浜にあった共立女学校を卒業する。透谷もミナもキリスト教信者であった。
透谷の随筆に「三日幻境」がある。明治25年『女学雑誌』に掲載された。この中に透谷の俳句がいくつか載せられている。現在の東京都八王子市の郊外に当たる南多摩郡川口村に年長の友人秋山国三郎を訪ねた時の一文である。秋山国三郎は民権活動家大矢正夫(蒼海)を通じて透谷がまだ10代半ばの10年ばかり前に知り合った豪農であり、民権運動の支持者であった。この秋山は俳人であり、透谷は彼から俳句を学んだのであろう。
七年を夢に入れとや水の音 透谷
夢いくつさまして来しぞほととぎす 秋山国三郎
ここに寝む花の吹雪に埋むまで 同
越えて来て又一峰や月のあと 透谷
すず風や高雄まうでの朝まだら 同
この山に鶯の春いつまでぞ 同
日ぐらしの声の底から岩清水 同
透谷は『文学界』創刊第2号に「人生に相渉るとは何の謂ぞ」という文章を発表し、民友社の論客山路愛山の実益優先の芸術論を厳しく批判する。
愛山生は、文章即ち事業なる事を認めて、「頼襄論」の冒頭に宣言せり。何が故に事業なりや。愛山生は之を解いて曰く、第一 為す所あるが為なり。第二 世を益するが故なり。第三 人世に相渉るが故なりと。
而して彼は又た文章の事業たるを得ざる条件を挙げて曰く、第一 空を撃つ劒の如きもの。第二 空の空なるもの。第三 華辞妙文の人世に相渉らざるもの。而して彼は此冒頭を結びて曰く、「文章は事業なるが故に崇むべし、吾人が頼襄を論ずる、渠の事業を論ずるなり」と。
透谷は上記の愛山の文章事業論に反論して芭蕉の名句「名月や池をめぐりてよもすがら」を取り上げ、以下のように論陣を張る。
宗教なし、サブライムなしと嘲けられたる芭蕉は、振り向きて嘲けりたる者を見もせまじ。然れども斯く嘲けりたる平民的短歌の史論家(同じく愛山生)と時を同うして立つの悲しさは、無言勤行の芭蕉より其詞句の一を假り来たつて、わが論陣を固むるの非礼を行はざるを得ず。古池の句は世に定説ありと聞けば之を引かず、一層簡明なる一句、余が浅学に該当するものあれば、暫らく之を論ぜんと欲す。其は
名月や池をめぐりてよもすがら
の一句なり。
池の岸に立ちたる一個人は肉をもて成りたる人間なることを記憶せよ。彼はすべての愛縛、すべての執着、すべての官能的感覚に囲まれてあることを記憶せよ。彼は限ある物質的の権(ちから)をもて争ひ得る丈は、是等無形の仇敵と搏闘したりといふことを記憶せよ。彼は功名と利達と事業とに手を出すべき多くの機会ありたることを記憶せよ。彼は人世に相渉るの事業に何事をも難しとするところなかりしことを記憶せよ。然るに彼は自ら満足することを得ざりしなり、自ら勝利を占めたりと信ずることを得ざりしなり、浅薄なる眼光を以てすれば勝利なりと見るべきものをも、彼は勝利と見る能はざりしなり。爰に於て彼は実を撃つの手を息めて、空を撃たんと悶きはじめたるなり。彼は池の一側に立ちて、池の一小部分を睨むに甘んぜず、徐々として歩みはじめたり。池の周辺を一めぐりせり。一めぐりにては池の全面を睨むに足らざるを知りて、再回せり。再回は池の全面を睨むに足りしかど、池の底まで睨むことを得ざりしが故に、更に三回めぐりたり、四回めぐりたり、而して終によもすがらめぐりたり。池は即ち実なり。而して彼が池を睨みたるは、暗中に水を打つ小児の業に同じからずして、何物をか池に写して睨みたるなり。何物をか池に打ち入れて睨みたるなり。何物にか池を照らさしめて睨みたるなり。睨みたりとは、視る仕方の当初を指して言ひ得る言葉なり。視る仕方の後を言ふ言葉はAnnihilationの外なかるべし。彼は実を忘れたるなり。彼は人間を離れたるなり、彼は肉を脱したるなり。実を忘れ、肉を脱し、人間を離れて、何処にか去れる。杜鵑の行衛は問ふことを止めよ。天涯高く飛び去りて、絶対的の物、即ちIdeaにまで達したるなり。
彼は事実の世界を忘れたるにあらず。池をめぐりて両三回するは実を見貫く心ありてなり。実は自然の一個なり。而して実を照らすものも亦た自然の他の一個なり、実は吾人の敵となりて、吾人に迫ることを為せども、他の一個なる虚は、吾人の好友となりて、吾人を導きて天涯にまで上らしむるなり。池面にうつり出たる団々たる名月は、彼をして力としての自然を後へに見て、一躍して美妙なる自然に進み入らしめたり。
サブライムとは形の判断にあらずして、想の領分なり、即ち前に云ひたる池をめぐりてよもすがらせる如き人の、一躍して自然の懐裡に入りたる後に、彼処にて見出すべき朋友を言ふなり。この至真至誠なる朋友を得て、而して後、夜を徹するまで池をめぐるの味あるなり。池をめぐるはNothingnessをめぐるにあらず、この世ならぬ朋友と共に、逍遥遊するを楽しむ為にするなり。
近代日本文学を命がけで切り開いた透谷の天才も明治社会の現実の中で、しがらみの中で、桎梏の中で疲労困憊し、刀折れ矢尽きて自ら首括らざるを得なかった。同時代の俳句革新者正岡子規はこの頃はまだその道に踏み出す前であり、夏目漱石は英文学の大学院生であり、早熟の天才北村透谷とは同じ東京にありながら、路傍の人でしかなかった。尚透谷の号は彼の住んだ町の眼と鼻の先の江戸城外堀にかかった数寄屋橋から洒落たものである。透谷を訓読みすれば「数寄屋(すきや)」というわけである。