秋寒や行先ざきは人の家 (一茶 以下同)
秋の風乞食は我を見くらぶる
小林一茶は不思議な俳人だ。蛙や雀などの小動物に暖かい眼差しを向けたかと思うと、人生の辛苦を激しく詠う。詩人の宗左近氏は「一茶とは、何よりもこの世の人間としての愛と悲しみがはげしすぎた詩人です」「不幸の原因は、一茶自身の思想にあるのです。その文芸観、俳句観の新しさ、いわば近代性にあるのです。そこが、芭蕉や蕪村とこの上なく深い違いなのです」(『小林一茶』集英社新書)とその近代性に注目している。
ふと、俳諧を囀りおぼゆ
継母とうまくいかない一茶が、父親の配慮により江戸奉公に出されたのは十五の春だった。その後十年、一茶がどこで何をしていたのかはよくわかっていない。「弥太郎は江戸の人ごみの中にふっと消えてしまったようだった」(藤沢周平『一茶』文春文庫)。
二十五歳のころ突然、一茶は俳諧の世界に登場する。「巣なし鳥のかなしさは、…そこの軒下に露をしのぎ、かしこの家陰に霜をふせぎ、ただちに塒に迷ひ、くるしき月日をおくるうちにふと諧々たる夷ぶりの俳諧を囀りおぼゆ」(一茶『文政手帖』)。一茶は、葛飾派の二六庵竹弥・今日庵元夢に師事し、葛飾派三世素丸の執筆役となっていた。
葛飾派は江戸本所・深川を中心に上総・下総方面に勢力をもち、その祖は「目には青葉山ほととぎす初鰹」で名高い葛飾在住の期日庵山口素堂である。一世素堂、二世馬光、三世素丸は武家出身だったので門人には武家が多く田舎風の俳諧といわれる。『一茶の生涯と文学』(矢羽勝幸、一茶記念館)によると、一茶の句の「最も古い記録は…、是からも未だ幾かへりまつの花 渭浜庵執筆一茶」であるという。渭浜庵は素丸の庵号、一茶二十五歳の句である。
このころの生活を、一茶は「西にうろたえ東に漂い、一所不定の狂人有り、旦には上総に喰らい、夕べには武蔵にやどりて、しら波のよるべをしらず、たつ泡の消えやすき物から、名を一茶坊といふ。青雲の志なきにしもあらねど、身運もとより薄ければ、神仏の加護にうとく、年月恨みに恨みをかさねて」(『寛政帰郷日記』)と表した。
俳諧を志した一茶は、三十歳から三十六歳まで京阪・西国・四国・九州に竹阿縁故の人々を訪ね、松山の栗田樗堂など著名な宗匠と親交を深め俳句の腕をみがく。このとき『寛政句帖』『寛政紀行』を表し、『旅拾遺(たびしうゐ)』『さらば笠』を刊行して、宗匠としての足場を固めていった。
江戸の一茶
三十六歳の一茶は江戸に戻り二六庵を継ぎ葛飾派宗匠の道を歩み出が、二年あまりでこの号は消える。「一派の規範を過つ」とされたらしい。さらに三十九歳で父の死に直面する。『父の終焉日記』はその様子を叙した優れた文学となっている。
東京江東区の大島二丁目、地下鉄新宿線の西大島駅から5分ほど歩くと、小さな家が密集する下町の路地裏に愛宕神社(写真)がある。
一茶がここに住んだのは享和三年(一八〇三)から、翌文化元年、四十台の初めの一年半だった。このころの『享和句帖』に「江戸本所五ツ目大島愛宕山別当一茶園雲外」とある。現在、神社の入り口には「小林一茶旧居」のプレート、鳥居の脇には「雀の子そこのけそこのけ…」の句碑(写真)が建っている。
一茶は うきくさの花より低き通りかな と詠んでいるから、この辺は当時から海抜ゼロメートル地帯だったのかも知れない。神社の別当といっても、粗末な小屋の侘び住いに過ぎないし、葛飾方面への旅に明け暮れた。ここから北へ十五分ほど歩くと伊藤左千夫の墓もある。明治時代、左千夫の牧場がこの付近にあったという。
その後、同じ竪川沿いを墨田川方向に行った本所相生町五丁目(現墨田区緑一丁目)に転居した。ここには小さいながら庭もあったという。両国と森下の中間、清澄通りの二之橋付近の馬車通りに、「小林一茶旧居跡」の碑(写真上)が建っているが、この付近は『鬼平犯科帖』の舞台で、ゆかりの料理屋跡などの札(写真下)が目立ち、旧居跡碑は裏路地に人知れず佇んでいるばかりだ。
一茶はここに四十六歳まで住んでいたが、弟との財産分与の争いで帰郷しているうちに見知らぬ人が住み着いてしまい転居を余儀なくされた。ここから歩いて数十分の墨田川沿いに芭蕉庵跡、両国方面に忠臣蔵の吉良屋敷跡がある。
江戸の庇護者たち
一茶は、四十歳頃から葛飾派を離れ、江戸の友人、庇護者と親しんでいる。耕舜は、一茶より年上で竪川に住む浪人の手習い師匠。同じ蚊張に入り一つの布団にくるまる仲だった。しかし、一茶四十五歳のとき死去し、一茶は「耕舜先生挽歌」を捧げ この次は我が身の上かなく烏 と詠んだ。JR西日暮里東口前にある谷中本行寺(写真)の住職一瓢は、一茶より年少だが俳友として親しく、一茶像を彫った。本堂の前に 陽炎や道潅どのの物見塚 の句碑が建つ。また、其翠楼松井は日本橋久松町の富商。江戸での一茶の宿泊先はここが一番多いが商は不明である。
夏目成美・鈴木道彦・建部巣兆・閑齋など当時江戸の中心だった俳人ともしきりに交遊している。特に浅草蔵前の札差井筒屋主人八郎右衛門でもある成美は「君の句々みな一作あり。予がごとき不才は其所に心至らず。いはば活句といふべし」と一茶を「発見」し、援助した。
上総・下総の漂白
一茶は、江戸を拠点にして上総、下総の漂白を繰り返す。水戸街道ぞいでは馬橋(本所から十三キロ)、小金、流山から利根川に沿った守谷(馬橋から四キロ)、布川(流山から十二キロ)を歩き、また内房沿いでは木更津、富津、金谷、保田、勝山を巡り交流を深めたが、同時にそれは生活の糧を得る旅でもあった。
梅咲くやあはれことしももらい餅
春立や四十三年人の飯
馬橋(現松戸市)の油問屋の主人大川平衛門(栢日庵立砂)はいつも暖かく迎えてくれた。立砂は今日庵元無の門弟であったが、一茶が二十歳ごろここに奉公をしていたという説もある。常磐線馬橋駅東口から徒歩十分の東京ベイ信金の駐車場に、栢日庵立砂の居住跡の碑(写真)があり「親子ほど歳の差があった一茶から爺と慕われた」と記されている。
立砂は、一茶三十七歳のとき急死する。偶然居合わせた一茶は「栢日庵はこの道に入り始めてよりのちなみにして、交わり他に異れり」と挽歌を詠んだ。立砂の息子斗囿も弟子として一茶に尽くしている。
下総流山には酒造家であり味醂開発者の一人ともいわれる五代目秋元三左衛門双樹がいた。一茶は四十一歳以降十五年間に五十回以上もここを訪れている。馬橋駅から二車両連結の長閑な流山線に乗り換え十分ほどで平和台駅に着く。江戸川に向かって進むとスーパー堤防のすぐ下の道に一茶双樹記念館(写真)があり、庭には 夕月や流残りのきりぎりす の句碑がある。文化十年十月、柏原帰郷を目前にして双樹の葬儀に参加した一茶は、おりおりのなむあみだ仏ききしりて米をねだりしむら雀哉 と詠んだ。
下総守谷の西林寺住職鶴老も一茶と交遊が深い。一茶四十八歳のとき、桜井芭雨に案内されて訪ねたのが最初だが、その後九回にわたってここを訪れた。守屋駅へは、つくばエキスプレスで秋葉原から約四十分。ここから歩いて二十分ほどで、すっかり落葉した垂れ桜の大樹の後ろに、美しい屋根が印象的な伽藍が建っている(写真)。
人気もない静寂な庭には 行としや空の名残を守屋迄 の句碑がある。寺の裏側は、平将門に縁があるともいわれる守屋城趾公園が広がっている。利根川を渡った川港・布川には回船問屋古田月船もいた。
内房の木更津にも門人は多い。富津の定宿は大乗寺、住職は徳阿。一茶のほとんど唯一の女弟子、名主の未亡人花嬌はその縁による。美しき団扇もちけり未亡人 「(一茶は)花嬌がこの世にいるというだけで、存在の芯軸があるような気がするのだ。それを頼りに、いつまでも放浪する自分……」(田辺聖子『ひねくれ一茶』講談社文庫)。しかし矢羽勝幸氏は「一茶が花嬌に恋慕したという資料は皆無である」(『「あるがまま」の俳人一茶』NHK出版)という。花嬌は一茶四十八歳のとき死去した。翌年この大乗寺で一茶は奥歯を失い、しみじみと老いを感じることになる。五十歳で故郷定住を決意する。
彼は江戸にどうしてもなじめなかった。春の雪江戸の奴らが何知って その根底には、耕さぬ罪もいくばく年の暮 の句にみられるように、農民出身であるにもかかわらず大地に根付かない者の不安があったのだろう。このデラシネ感は、今日の私たちにも通じている。金子兜太氏は「私は、〈非土着者〉というものを考えてしまう。〈土着者〉でない、〈土着者の心底とは隔たり、しかもそれを埋めようとして埋められない〉一人の帰郷者の内面をおもう。」(『ある庶民考』合同出版)と述べている。帰郷後四半世紀、散華せず一人田草引く鬼塚金剛主宰の心境にも通じるだろう。
参考文献
一茶記念館『一茶の生涯と文学』、小林計一郎『写真 俳人一茶』角川文庫、嶋岡晨『小林一茶』成美堂出版、金子兜太『ある庶民考』合同出版、宗左近『小林一茶』集英社新書、荻原井泉水『一茶随想』講談社文芸文庫、矢羽勝幸『「あるがまま」の俳人一茶』NHK出版、藤原周平『一茶』文春文庫、田辺聖子『ひねくれ一茶』講談社文庫。