藤沢周平は、本名小菅留治(こすげ とめじ)。昭和2年に、山形県鶴岡市に生まれている。
時代小説の名作を数多く残しているが、その作品の多くの舞台となっているのが、架空の「海坂(うなさか)藩」である。
実は、この「海坂」は、静岡で百合山羽公らが発行していた俳誌「海坂」から名付けられたものである。藤沢自身がその経緯を書いている。それによると、結核に感染して、多摩地方の療養所に入っていた昭和28年頃、同じ患者のなかに海坂に投句している人があり、誘われて句作をはじめ、海坂に投句するようになったが、「小説を書くにあたって「海坂」の名を無断借用した」とのことである。
ちなみに、「海坂」とは、水平線の先が坂になって別世界に続いていると信じられていた当時の、境界の坂のことを指すそうである。
生前、藤沢は、色紙にサインを求められると、きまって
軒を出て犬寒月に照らされる
の自作の句を書いたといい、それは、「むかしむかし百合山羽公先生にほめていただいた句」だからなのだという。
病気療養中に句作を始める人は多く、石田波郷の「胸形変」などに代表される、療養俳句という分野があるのはご承知のとおりである。藤沢も
陽炎や胸部の痛み測りゐる
桐の花踏み葬列が通るなり
蜩や高熱の額暮るゝなり
病者の句閲し寒夜に去られしと
などの療養俳句を残している。また、
聖書借り來し畑道や春の虹
桐の花咲く邑に病みロマ書読む
基督者の墓ある丘の木の芽吹く
十藥や病者ら聖書持ち集ふ
といったカトリックを連想する句も残しているが、本人が洗礼を受けていたのかどうかはわからない。
生家は山形県鶴岡の農家であり、農家を継いだ兄や郷里を詠んだのであろう次のような句も残している。
桐咲くや田を賣る話多き村
花合歓や畦を溢るゝ雨後の水
水爭ふ聲亡父に似て貧農夫
友もわれも五十路に出羽の稲みのる
花合歓の句は、藤沢が教鞭をとっていた山形県の中学校の碑文に添えられているそうである。
桐の花に関する句が多いが、その由来は不明である。
昭和48年「暗殺の年輪」で直木賞を受賞し、5年後の昭和53年に「一茶」を上梓したが、はるか昔の海坂での作句の経験がその根底にあるのは間違いのないところであろう。
平成9年、肝不全のため東京の病院で死去、享年69歳であった。
参考文献 「藤沢周平句集」(平成11年 文藝春秋)