天草市河浦町崎津にある教会(写真)は、アルメイダ神父により永禄12年(1569)2月23日に建てられ、ここを中心としてキリスト教は天草に栄えました。寛永15年(1638)に禁教令が敷かれると、激しい迫害と弾圧により隠れキリシタンになりながら、ひそかに信仰を守り続けて潜伏期に入りました。なかでも崎津のキリシタンは、メダイやロザリオの他に、アワビやタイラギ貝などの海産物を聖遺物として信仰したことが特徴といわれています。
明治5年(1872)にキリスト教が解禁されると、240年振りに神父が帰ってきて、隠れキリシタンから熱烈な歓迎を受けたとのことです。教会は、明治以来3度建て直され、現在の崎津教会は、長崎の建築家・鉄川与助により設計されたゴシック様式の教会で、昭和9年に建てられました。 建てられた土地は、崎津教会の当時のハルブ神父の強い希望で、弾圧の象徴である踏絵が行われた吉田庄屋宅跡が選ばれました。また踏絵が行われた場所に、現在の正面祭壇が配置されたと言われています。教会内部は国内でも数少ない畳敷きです。
ところで、文化審議委員会特別委員会は8月23日、河浦町の崎津集落を含む「長崎の教会群とキリスト教関連遺産」をユネスコの世界文化遺産に推薦する候補に選びました。
地元では集落の景観保全や地域振興策を考えるシンポジウムを9月1日に開き、住民の機運を高めました。これまでは文化審の推薦が政府推薦に直結していましたが、今回は内閣官房の有識者会議が推した「明治日本の産業革命遺産」と競合になり、政府は9月17日菅官房長官の判断で、年1件枠のため「産業革命遺産」を候補とすることに決め、「長崎の協会群」は候補を逃してしまいました。
天草市長は、最終的には政治判断に委ねられたと、公平性に疑問を呈しながら来年度推薦をめざすと述べました。これで、昨年富岡製糸場(群馬県)の後塵を拝したのに続き、2年連続見送られたことになりました。政治的な力が働くのは仕方がないことなのでしょうか
崎津の名物を二つ紹介します。
「カケ」(写真左下)は、護岸から海に突き出た構造物で、船舶の碇泊や干物作り、漁具の手入れ、物干し場など、崎津の漁業集落特有のものです。構築材は棕櫚や竹などで、 狭い土地での生活空間のひとつとして作りだされたものです。
家斉が11代将軍となった年、寛政2年(1790)琉球王使節船が漂着しました。「杉ようかん」(写真右下)は、そのとき救助した地元のもてなしの御礼に、作り方を伝授されたといわれています。もち米と小豆あんの上に杉の葉をおき、香りがついて素朴な味がします。