やぶ入りや浪速に出でて長柄川 (蕪村)
長柄川は大阪を流れる淀川の支流・中津川の古い名称である。大阪駅から地下鉄天神橋六丁目駅を出て、徒歩約三十分、淀川が閘門を隔て直角に分枝する旧淀川の毛馬橋を渡たると、句碑や月渓作蕪村像の写真など蕪村の資料を飾った公園がある。その先に広々とした淀川の河川敷と土手が長く延びている。土手を上がると淀川が一面に目に飛び込み、片隅に「蕪村生誕の地」「春風や堤長うして家遠し」「蕪村礼讃」の碑が並び建つ。土手の右下に広がる家並みが蕪村の故郷、毛馬である。
蕪村は、一七七七(安永六)年、六十二歳の正月、発句、漢詩、仮名詩など多彩な詩形による「春風馬堤曲」を句文集『夜半楽』に発表した。馬堤は、摂津国東成郡毛馬村、現大阪市都島区毛馬町である。出生など不明な点が多い蕪村だが、「馬堤は毛馬塘也。則(すなわち)余が故園也」と、門人に送る手紙のなかで述べ、さらに「余、幼童之時、春色清和の日には、必ず友どちと此堤上にのぼりて遊び候。……実は愚老、懐旧のやるかたなきよりうめき出たる実情にて候」と続く。しかし、蕪村は二十歳前後にここを出てから、ついに一度も故郷には帰らなかった。
「春風馬堤曲」は、浪速に奉公に出ている娘が薮入りで淀川の堤を歩いて故郷・毛馬に帰る道々を、この若い娘の身になりかわって詠んだ詩だ。「蕪村は、その薮入り娘に代わって、彼の魂の哀切なノスタルジア、亡き母の懐袍の哀切に夢を結んだ、子守歌の古く悲しい、追憶のオルゴールを聴いているのだ。」(萩原朔太郎『郷愁の詩人 与謝蕪村』岩波文庫)。「実験的な詩型からいっても、そこに盛られた艶情のわかわかしさからいっても、これが徳川中期(略)に、還暦以来病いがちであった一老詩人によって書かれたとは思えぬような、斬新にして新鮮な『歌曲』であった。」(芳賀徹『與謝蕪村の小さな世界』中公文庫)。
この詞を口ずさむとき、誰でも懐かしさがこみ上げてくるだろう。
のどかな淀川の堤を後にして大阪に戻り、京都まで足を延ばした。叡山本線の一乗寺駅を降りて二十分くらい坂を上がると、八六四(貞観六)年、慈覚大師(円仁)の遺志によって創建され、元禄の頃、鉄舟和尚が復興した金福寺に出る。
ここでは、蕪村筆「芭蕉翁の肖像画」、蕪村愛用の「文台と重硯箱」などを拝観することができる。鉄舟は芭蕉と親交が深かったので、後丘の庵を芭蕉庵と名づけた。後年、荒廃していたこの庵を蕪村は再興し、俳文「洛東芭蕉庵再興記」を納めた。庵落成に詠んだ、耳目肺腸ここに玉巻く芭蕉庵 の句は、芭蕉俳諧精神復興を目指す強い決意を示している。
蕪村の墓は、我も死して碑に辺(ほとり)せむ枯尾花 の望みどおり、芭蕉庵傍らの小高い場所にある。周囲には月許、大魯、呉春などの墓が宗匠を囲んでいる。
金福寺の隣は石川丈山の居宅・詩仙堂。付近には宮本武蔵と吉岡一門の決闘で有名な一乗寺下がり松や、決闘の朝、足を止め思わず神に祈ろうとしたが、「我れ神仏を尊んで神仏を恃まず」という信念を胸に、静かに決闘に向かったという八大神社がある。
蕪村の詩情に触れる大阪・京都の旅だった。