東赤石山、西赤石山、銅山越  四国のツーリング縦走2

愛媛県  東赤石山(最高点1,707m、三角点1,706m)、八巻山1,698m、物住頭1,635m、西赤石山1,626m、銅山越1,294m  2020年6月9日

綱繰山1,466m、西山1,429m  2020年6月10日

(東赤石山)花の百名山、日本二百名山

(西赤石山)四国百名山

508

D1

二つ目のツーリング縦走は東赤石山。東赤石山から大栄山トンネルまで歩き、トンネルから笹ヶ峰まで往復し、MTBで筏津まで下るプラン(結局雨のため、笹ヶ峰へは行かず)。

予定通り2時に起き、最高所にある大永山トンネルに着く。林道ゲート脇のガードレールのところにMTBを置き、筏津登山口に向かう。

筏津登山口に着くが、駐車場は県道47沿いに流れている銅山川を渡った南側。車を九十九折りの上まで移動。たわわに咲いた白い花の房はヒメウツギ。

植林の中を淡々と登る。登山道はやがて枯沢を辿るようになるが、その枯沢を埋める岩が赤い。つまり、この赤い岩が赤石山の語源になっているのだろう。

ようやく赤石越に着く。手袋をはめて大きな赤い石を登り、14年ぶりの東赤石山(最高点1,707m)に着く。14年前に見つけられなかった三角点を探しに行くが、それはだいぶ離れた頂上尾根の東端にあった。そこは東側が開けていて、東に連なる二ツ岳、エビラ山、権現山の尾根が見えていた。

手ごわいということで14年前には登らなかった八巻山に向かう。赤い岩壁を障壁のように立てる八巻山の頂上に小さな銀色が光っているのが見える。

明らかな踏跡や灌木の枝のテープなどを辿り、手前の岩峰をトラバースし、岩だらけの八巻山頂上に着く。頂上には避雷針と頂上標識と銀色の祠。銀色の祠には八巻大権現の表札があった。

八巻山から見る東赤石山は緑の鋭鋒。だが緑の中に赤い石がたくさん見えていて、その名の由来を示している。

八巻山の西側にはテープ目印が目立ち、最初はすいすい進むが、やがて岩尾根の西端に出る。手がかりをつかんで岩壁を下りはじめると、そこにユキワリソウが咲いていた。しかもたくさん。そこにうずくまって夢中で撮影。風にヒラヒラと揺れる薄紫やピンクのユキワリソウは、八巻山の西の岩尾根にたくさん咲いていた。

前赤石山の南側をトラバースしていく。白いガマズミに似た花はイワガサらしい。一つ一つの花が大きくで立派。前赤石山を回ると、すぐ先に一回り小さなピークがあり、それが物住頭だった。

それは灌木トンネルになった単調な登りで、淡々と登っているうちに物住頭の頂上に着いてしまった。三角点と茶色の地味な頂上標識。

物住頭の先から見る西赤石山はゆったりした裾野をのばした形の良い緑の鋭角トライアングル。

ニガナの咲く道にツガザクラが現われ、黄色いヘビイチゴに似た花はイワキンバイだろうか。あっちの黄色い花はヤクシソウ。やっと西赤石山頂上に到達。

今回は近道を行かずに直進し、銅山越に着く(*1)。銅山越は四つ角になっていて、石壁に囲まれた古い地蔵尊がいくつか。かつて別子銅山を支えた要衝だったらしい。その地蔵尊にお参りし、四つ角を北に下る。

ネットで見た通り、銅山峰ヒュッテは健在だった。14年前に見たのとほとんど変わっていないように見えた。

水場はテントサイトの奥の橋の手前にあり、黒いホースから水がほとばしり出ていた。橋の手前には「第一通洞(八丁マンプ)北口」の跡があり、案内(*2)が立っていた。

D2

スマホで天気予報を調べてみるとどうやら台風の影響で予報が大きく変わり、この日からずっと雨になっていた。仕方ないのでこの日は笹ヶ峰まで行くのを止めて大栄山トンネルのところで下山することにする。

起きたのは5時前。銅山越に到着し、岩壁に囲まれた古い仏像にもう一度お参りし、そして縦走路を西に向かう。ここにもツガザクラ。

西山までは歩きやすい道だがなかなか遠く、じっくり歩いてようやく到着する。

西山の先にはもっと高いツナクリ山(綱繰山)というのがあり、これもまた道は歩きやすいが頂上は遠かった。ツナクリ山の先はとんでもない急な下りで、その急坂を下った先でこの日唯一の休憩。

雨に誘われてサワガニが歩いている。そしてようやく、トンネル口への分岐に着く。

トンネルに下る道もどうやら古道を利用しているらしく、最初は緩い植林の中の道、それから沢沿いの道となる。その沢はナメ滝となってはるか下に流れ落ちている。倒木で荒れてはいるが、これはなかなかの景観だ。

立木の脇から急斜面を下って林道脇の登山口に出る。MTBはすっかり雨に濡れていたが、走り出すといつも通りに快調だった。

途中から傾斜がなくなってペダルをこぎ始め、別子ダム手前では順にギヤを下げながら漕いで行き、ダムのある最高地点の手前で前ギヤを2段に落とし、やっとの思いで最高点到達。そこからはもう下り。

今回の縦走は二日間で16㎞を16時間)、MTBは10㎞を40分。雨のため二日目が短くなってしまったが、花の百名山、東赤石山の花をたくさん見れたし、赤石連峰の岩尾根歩きと景観を十分に味わうことができた。銅山越と銅山峰ヒュッテに再訪したのも懐かしかった。

 八巻山から見る東赤石山は緑の鋭鋒。だが緑の中に赤い石がたくさん見えていて、その名の由来を示している。
手ごわいということで14年前には登らなかった八巻山に向かう。赤い岩壁を障壁のように立てる八巻山の頂上に小さな銀色が光っているのが見える。
 物住頭の先から見る西赤石山はゆったりした裾野をのばした形の良い緑の鋭角トライアングル。
 手がかりをつかんで岩壁を下りはじめると、そこにユキワリソウが咲いていた。しかもたくさん。そこにうずくまって夢中で撮影。石鎚山で見たのと同じ花だと思うが、風にヒラヒラと揺れる薄紫やピンクのユキワリソウは、八巻山の西の岩尾根にたくさん咲いていた。
 銅山越は四つ角になっていて、石壁に囲まれた古い地蔵尊がいくつか。かつて別子銅山を支えた要衝だったらしい。
 ネットで見た通り、銅山峰ヒュッテは健在だった。14年前に見たのとほとんど変わっていないように見えた。
 たわわに咲いた白い花の房はヒメウツギ。
メギ?
 稜線近くになるとキバナノコマノツメ
 白いガマズミに似た花はイワガサらしい。一つ一つの花が大きくで立派
 黄色いヘビイチゴに似た花はイワキンバイだろうか
 大きな白い花はモリイバラ?
 草叢には小さなツガザクラ(アカモノ)がいっぱい
D1  3:43 トンネル登山口、MTBデポ  5:18 筏津登山者P発  5:24 筏津登山口10:10 東赤石山・最高点1,707m・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・筏津登山者Pから4時間52分10:17 東赤石山・三角点1,706m11:14 八巻山1,698m12:44 赤石山荘からの縦走路と合流13:59 物住頭1,635m15:05 西赤石山1,626m16:42 東山1,392m16:57 銅山越1,294m17:25 銅山峰ヒュッテ、テント・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・筏津登山者Pから12時間7分D2  6:17 銅山峰ヒュッテ、テント発  7:10 銅山越  7:51 西山1,429m  8:34 綱繰山1,466m10:32 トンネル登山口・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・銅山峰ヒュッテ、テントから4時間15分10:44 トンネル登山口発、MTB11:25 筏津登山者P・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・トンネル登山口から41分・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・銅山峰ヒュッテ、テントから5時間8分

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D1

二つ目のツーリング縦走は東赤石山。当初は堂ヶ森から東赤石山まで4泊で縦走し、筏津から保井野までMTBという構想だったが、4泊分の食材はたいへんだし、雨も降るかもしれない、それに保井野にMTBで登るのはしんどい。そこで4泊を二つに分け、東半分は東赤石山から大栄山トンネルまで歩き、トンネルから笹ヶ峰まで往復し、MTBで筏津まで下るプランとする(結局雨のため、笹ヶ峰へは行かず)。

予定通り2時に起き、朝食を食べて道の駅を出る。県道47のくねくねした道を登り、最高所にある大永山トンネルに着く。トンネルの出口には林道入口があったが狭いので少し先の電話ボックスのある駐車スペースに停車。林道入口はロープによるゲートで閉鎖されていたが、ゲートを入って少し進んだ右手に「笹ヶ峰、ちち山登山口」があった。ここでいいようだ。小さな登山口標識は林道入口にもあったが、ヘッドランプでは最初、気づかなかった。林道ゲート脇のガードレールのところにMTBを置き、筏津登山口に向かうが、大永山トンネルから下って別子ダムまでは登りだった。筏津までずっと下りだと思っていたのでこれは予想外。とてもザックをしょって登れないだろう。まあ、どうせトンネルはもう一度通るから、ザックをデポしておけばいいだろう。筏津の集落に入り、筏津登山口に着くが、駐車場は県道47沿いに流れている銅山川を渡った南側にあるらしい。そこで橋を渡ってみるが、登山者用Pは九十九折りを二つ三つ登った先だった。しかもその九十九折りの道は荒れていて、最初はそこだと分からず、下にあった駐車場に停める。そこには筏津タクシー以外利用禁止の標識があったので、ずっと奥の問題なさそうなところに駐車して出かけるが、登山口に登山者用Pの正確な位置が示されていたので、ザックをそこに置いて車を九十九折りの上まで移動。面倒だったが、九十九折りの途中で花をいくつか撮影。たわわに咲いた白い花の房はヒメウツギ、大きな黄色いキアヤメ。ここにも白いドクダミ、それにアカツメクサ。

筏津登山口からは最初は林の中の急登だが次第に傾斜は緩まり、植林の中を淡々と登る。咲き残りのヤマツツジ。薄暗い林に大きな白い花はガクウツギだろうか。途中で筏津の少し東にある瀬場登山口からの道が合流するが、瀬場の方が駐車場に止めやすかったかもしれない。次は赤石山荘との分岐。山荘経由・東赤石山は3時間強、直接行くと2時間半とあるで、右に直接行くルートに入る。だが、2時間半では着かなかった。植林を歩いている間はほとんど花はなし。瀬場谷の枝沢を時々越え、下ってきた男性に会い、やがて瀬場谷を渡って左岸を登る。木道のトラバース路の下に深い淵。左岸の植林を登り、道が落ち着いたところで最初の休憩。登山道はやがて枯沢を辿るようになるが、その枯沢を埋める岩が赤い。つまり、この赤い岩が赤石山の語源になっているのだろう。黄色い花の灌木はメギ?道端にはヒトリシズカの白いヒゲ。そして縦走路に合流。右は二ツ岳、左は赤石山荘、まっすぐは東赤石山。まっすぐ進む。もう頂上は近いだろうと思ったが、そこからが長かった。枯沢の道は分かりにくく、ときどき迷うが、この時はまだ道は間違えなかった。もうそろそろかな思ったのに、樹間に見えた頂上はまだはるか上。淡々と登り、ようやく赤石越に着く。右が東赤石山、左が八巻山経由赤石山荘、とあるが、14年前に登ってきた河又からのルートへの表示はなかった。もう廃道になってしまったのかもしれない。稜線近くになるとキバナノコマノツメとキバナウツギの黄色い花が目立つようになる。

手袋をはめて大きな赤い石を登り、14年ぶりの東赤石山(最高点1,707m)に着く。今回は晴れていて、西に八巻山の丸い頭の岩山が見えていた。なるほど、あれは手ごわそうだ。その左には笹ヶ峰、冠山、平家平がシルエットで見えており、笹ヶ峰の右奥には石鎚山も見えていた。すると、石鎚から東赤石山も見えていたのだろう。ザックとスティックを置き、14年前に見つけられなかった三角点を探しに行くが、それはだいぶ離れた頂上尾根の東端にあった。1,706mとあるので、最高地点1,707mよりも1m低いのだろう。そこは東側が開けていて、東に連なる二ツ岳、エビラ山、権現山の尾根が見えていた。二ツ岳は確かにピークが二つあるように見える。2年前に登ったのはあの奥のピークなのだろう。最高点に戻り、少し休んでから、手ごわいということで14年前には登らなかった八巻山に向かう。赤い岩壁を障壁のように立てる八巻山の頂上に小さな銀色が光っているのが見える。赤石越に着く前に道を見失い、GPSで確認して斜面を数メートル下って登山道に戻るが、これがこの日の最初のロストだった。さっそく大きな岩場に取付くが、ルートには目印が少なく、分かりにくい。このときは間違えてはいないと思うが、どう進んでもよいのかもしれない。それでも明らかな踏跡や灌木の枝のテープなどを辿り、手前の岩峰をトラバースし、岩だらけの八巻山頂上に着く。頂上には避雷針と頂上標識と銀色の祠。銀色の祠には八巻大権現の表札があった。八巻山から見る東赤石山は緑の鋭鋒。だが緑の中に赤い石がたくさん見えていて、その名の由来を示している。反対側には西に続く岩尾根が見えていて、その上ににょっきり立っている鋭鋒は前赤石山。西赤石山はその左奥に見えていたが、物住頭は前赤石山の陰で見えていなかった。写真を撮っていると男性が一人、西から登ってきた。この日会ったのは二人だけ。

さて、八巻山の西側は東側よりも楽だろうとやや気楽な気持ちで進むが、そうではなかった。岩尾根の左下に赤石山荘が見えている。山腹斜面の平らな林の中にある赤石山荘はずいぶん近く見え、そこから踏跡が岩尾根の下に続いている。八巻山の西側にはテープ目印が目立ち、最初はすいすい進むが、やがて岩尾根の西端に出る。西端は角張って切り立っていて、その下に踏跡が見えているのだが、どこから降りるのだろう。垂直に近いが手がかりがたくさんある岩壁を降りようとすると、岩壁の左後ろに斜めに下る踏跡が見えた。しまった、あそこを下るのか、と思ったが、そこまで戻るためにはだいぶ引き返さないといけない(ロスト2)。このくらいなら降りれるだろう、と手がかりをつかんで岩壁を下りはじめると、そこにユキワリソウが咲いていた。しかもたくさん。そこにうずくまって夢中で撮影。石鎚山で見たのと同じ花だと思うが、風にヒラヒラと揺れる薄紫やピンクのユキワリソウは、八巻山の西の岩尾根にたくさん咲いていた。そして無事に正しい道に達するが、その垂直岩壁を下ったのは誤りだったと思う。テントザックを背負って片手一本の手がかりというのは無謀だった。引き返して正しい道を下るべきだった。

赤石山荘への分岐を通過し、岩尾根を進む。八巻山の西にも岩尾根のピークがいくつか並んでいて、踏跡はピークの南側をトラバースしていくが、八巻山の西の岩尾根で一番高いピークの頂上のすぐ下を通過するところにルンゼがあり、そこにザックを置いてピークまで登ってみる。ルンゼにはユキワリソウとキバナノコマノツメがたくさん咲いていて、足の置き場に困るほど。水平距離で10mほど登って頂上に到達。東には東赤石山と八巻山が並び、その左奥に二ツ岳も見えている。行く手の西側には前赤石山の鋭鋒がますます目立っており、西赤石山や銅山越の山がその向こうに並び、その向こうにちち山と笹ヶ峰。この時は翌日、大永山トンネルのところから笹ヶ峰まで往復するつもりだった。まだずいぶん遠い。岩尾根の間の狭い回廊のようなところに入り込むと、両側が岩壁で、行く手の岩壁の下に低いハシゴが置いてある。回廊の先は行き止まり。ルートはどっちだ?それは低いハシゴの上だった。ハシゴの上の岩壁にとりつくと、果たしてその先にルートがあった(これはロストではない)。岩尾根を下っていって赤石山荘からの道と合流する直前にまた道を間違え、合流点の標識の立っている少し先に出る(ロスト3)。そこで本日2度目の休憩。ここからは14年前に歩いた道だが、その時は雨が降っていて視界はなかった。目の前にそびえる前赤石山も見えていなかった。あの時は視界の見えぬままにあんな高いところまで登ったのだろうか。ここからはもう楽だろうと思った道はまた険しくなり、八巻山のような岩場を越えていくが、前赤石山の南側をトラバースしていく。白いガマズミに似た花はイワガサらしい。一つ一つの花が大きくで立派。どうやら頂上までは登らずにすみそうだ。前赤石山を回ると、すぐ先に一回り小さなピークがあり、それが物住頭だった。

この岩場の道にも目印は少なく、トラバースから尾根に戻る地点で岩場を登る踏跡を辿り、行き詰る(ロスト4)。これが最悪のロストで、眼下に尾根に続く踏跡が見えているのだが、数十メートルの高さがあり、今回は引き返す。よく見ると、正しいルートには石を重ねた目印やテープを巻いた石が置いてあった。もっと周囲をよく見なければいけないということか。正しいルートに乗り物住頭に向かうが、それは灌木トンネルになった単調な登りで、淡々と登っているうちに物住頭の頂上に着いてしまった。北側にも踏跡があるので、そっちからの登山道もあるのかもしれない。三角点と茶色の地味な頂上標識。灌木の日陰で横になって少し休むが、風が次第に強くなり、冷たくなってきていた。西赤石山へも同じような灌木トンネルの道が続くが、距離があり、いくつかの小ピークを越えていく。物住頭の先から見る西赤石山はゆったりした裾野をのばした形の良い緑の鋭角トライアングル。ニガナの咲く道にツガザクラが現われ、黄色いヘビイチゴに似た花はイワキンバイだろうか。あっちの黄色い花はヤクシソウ。下りはともかく登りは辛く、やっと西赤石山頂上に到達。4回目の休憩。広い頂上に三角点と頂上標識。標高1,626㎞とあるのは誤植?西に向かう道は二つあり、右の道はたぶん北に下る道だったと思われる。東には物住頭と前赤石山が並ぶが、その奥にある東赤石山は尾根の陰で見えていないようだ。西に見える風景はだいぶ霞んで見えなくなっていた。銅山越のあたりには緑の広い尾根に白い部分が見えている。

西赤石山からの下りは最初結構険しく、急な細尾根を枝や灌木を掴んで降りてゆく。やがて傾斜が緩くなると楽な灌木トンネルの道となるが、小ピークがいくつかあり、登りで苦しみ下りは軽快。この日は腰バンドも肩も痛くならず快調だったがさすがに疲れてきて、GPSを時々見ながら目的地までの距離を確認する。大きな白い花はモリイバラ?そして銅山峰ヒュッテへの近道分岐に着く。14年前はここで近道に入ったが、えらく時間がかかった記憶がある。分岐表示は霞んでいた。今回は近道を行かずに直進し、14年前に行かなかった東山に到達。それほど目立つ山でもないのに東山や西山があるのは、たぶん銅山越の東西にあるからだろう。このあたりは昔は登山道というよりは生活のための街道だったのかも知れない。東山から下っていくと途中のマイナーピークには天満山の標識があり、更に下って銅山越に着く。銅山越についての案内あり(*1)。そこは四つ角になっていて、石壁に囲まれた古い地蔵尊がいくつか。かつて別子銅山を支えた要衝だったらしい。その地蔵尊にお参りし、四つ角を北に下る。もうあと1㎞弱だが、この下りは長く感じた。銅山のためにトンネルができるまでは往来がさかんだったらしく、古い幅広の岩が敷き詰められている。急なところでは足が滑りそうで怖い。

(*1)開坑以来の悲願が叶って元禄15年(1702年)別子銅山の粗銅(あらがね)は、ここを越えて新居浜の大江の浜まで2日で運び出せるようになった。それまでは村の東はずれの小箱峠を越えて宇摩郡天満(てんま)の浦まで2継3日もかかっていた。以来、明治19年に第一通洞が開通するまでの184年間、粗銅と共に山内に住む数千人の食糧も中持(なかもち)人夫に背負われてこの峠を往来した。しかし海抜1,300mもある銅山峰はしばしば厳しい表情を見せ、風説のため行き倒れた者もあった。峰の地蔵さんは三界万霊、その無縁仏を祠ったものである。その地蔵さんの縁日は旧暦8月24日であった。明治のころには道筋には幟(のぼり)がはためき、横の舟窪には土俵があって子供相撲に歓声が湧いたという。

だいぶ下ったところで標識のたくさんある分岐に出るが、銅山峰ヒュッテの道標は一つしかなかった。別子銅山や銅山越の案内活動とは少し違うのかもしれない。だが、ネットで見た通り、銅山峰ヒュッテは健在だった。14年前に見たのとほとんど変わっていないように見えた。あのときは雨の中をやっと到着し、ヒュッテの中に入ってほっとした。今回は快晴の春の日の夕暮れ。草叢には小さなツガザクラ(アカモノ)がいっぱい咲いていて、北には新居浜市街と港が見えていた。いいところに建っている。建物の奥にあるテントサイトにザックを置き、ヒュッテにテント泊の申込に行く。静かだったので誰もいないだろうと思ったが、勝手口の方におばさんがいた。その人は確かに、14年前に私を迎えてくれたあのおばさんだったようだ。向こうは私のことを覚えてはいないと思ったが、14年前にここに泊まったこと、その時、本をもらったことのお礼を言う。おばさんはちょっとまごついているようだったが、しばらく後で、テントまでやってきて、今度はコーヒーの瓶をもらってくれという。貰い物らしいが、あまり飲まないらしい。私はコーヒーは好物なので、ありがたくいただく。おばさんにもう一度会えてよかった。

水場はテントサイトの奥の橋の手前にあり、黒いホースから水がほとばしり出ていた。その橋の奥には道が続いており、縦走路の近道から続いていると思われる。14年前はこの橋を渡ってきたのだろう。橋の手前には「第一通洞(八丁マンプ)北口」の跡があり、案内(*2)が立っていた。トイレは逆にヒュッテの手前にあるので、そこまで歩いていくのは距離があったが、途中で景色を楽しめた。夕暮れの瞬間の新居浜が美しく、テントにカメラを取りに行くが、ちょうどバッテリーが切れてうまく写せなかった。残念。キャベツ、エンリギ、ナスにアスパラをたっぷり刻んできたものを半分に分け、アルファ米ができるまでの15分の間にゆっくり煮込み、塩コショーをかけて味付けし、雑炊にしてゆっくり食べる。野菜は豊富になったが肉がソーセージではちょっと物足りなくなってきた。ここまでは全く順調な山旅。だが、夜中にトイレに行くとテントが濡れていて、ちょっと不安になる。

(*2)別子銅山の近代化が進むにつれて産銅の増加と生産物質や食料の輸送量が増大し、明治13年(1880)には立川中宿まで牛車道をつけたが1,300mの銅山越は交通の隘路で、輸送路の短縮が求められていた。そこで、ここ角石原と別子の東延谷をトンネルで結ぶ計画を立て、明治15年第一通洞の開削に着手した。幸い、この年からダイナマイトを使用したことにより、予定より早く明治19年に代々坑に貫通した。全長1,020mであった。坑内には軌道が敷かれ、人車や馬車によって輸送を行っていた。明治44年、運搬の機能が第三通洞に移って廃止されたが、以後は人道として一般にも共用されていた。

D2

二日前にも夜明け前に雨が降ったが、その時は雨は止んだ。だが、この日は雨は降り続けていた。こいつは本格的だ。スマホで天気予報を調べてみるとどうやら台風の影響で予報が大きく変わり、この日からずっと雨になっていた。仕方ないのでこの日は笹ヶ峰まで行くのを止めて大栄山トンネルのところで下山することにする。笹ヶ峰まで行っても何も見えないだろう。だが、その後に予定していた剣山縦走や関西の沢歩きは諦めないといけない。まあ、雨が続くと仕方がないだろう。

アラームは3時に鳴ったが、相変わらず雨が降っているので早く出ても仕方ない。起きる気力がなくて横になっていたが次第に外が明るくなってきて、ついに起きたのは5時前。まず着替え、それから食事。赤いきつねのカップ麺とカフェオレ。それから荷物を大型防水サックに詰め、雨の降っている外に出し、テント撤収。ズブ濡れだが、思い切り絞ってサックに入れ、それをコンビニ袋に入れてザックに詰める。そして銅山峰ヒュッテから出発。14年前も銅山越までの登りはきつかった覚えがあるが、この日もこの登り返しはきつかった。前日は調子よかったのに、この日は辛かった。ようやく銅山越に到着し、岩壁に囲まれた古い仏像にもう一度お参りし、そして縦走路を西に向かう。ここにもツガザクラ。銅山越の西側は高く盛り上がっており、その先にも小ピークが並んでおり、手前は前山、奥の高いのが西山だった。これらの山腹についた縦走路が緑の上に白く浮き出ており、昨日縦走路の先に見たのはこのあたりだったようだ。西山までは歩きやすい道だがなかなか遠く、じっくり歩いてようやく到着する。西山の頂上には三角点があり(ここの頂上標識も1,429㎞!)、晴れていたらたぶん休んだろうが、雨なので先に進む。足は進まないが、腰ベルトと肩の具合は良かった。

西山の先にはもっと高いツナクリ山(綱繰山)というのがあり、これもまた道は歩きやすいが頂上は遠かった。ようやく着いたその頂上には頂上標識がぽつんとあった。視界はなし。ツナクリ山の先はとんでもない急な下りで、雨でなければ木の幹や枝を掴んで降りるのだが、濡れている幹や枝を手袋で掴みたくないのでますます歩きにくい。その急坂を下った先は縦走路の南側で、右手(西)に尾根をトラバースする道が続いていた。そこでこの日唯一の休憩。といってもザックを降ろし、立ったままペットボトルを1本ほとんど空け、ナッツを取り出して食べ始める。量の多くないナッツだったので、すぐに全部食べてしまった。ここからのトラバース路はところどころ石垣で補強されており、古道であることが分かる。だが、老朽化で歩きにくくなっているところがいくつもあった。雨に誘われてサワガニが歩いている。もう少し古道の整備をしてほしい。そしてようやく、トンネル口への分岐に着く。

トンネルに下る道もどうやら古道を利用しているらしく、最初は緩い植林の中の道、それから沢沿いの道となる。その沢は谷に崩れ落ちた瓦礫の伏流から流れ出ており、ナメ滝となってはるか下に流れ落ちている。倒木で荒れてはいるが、これはなかなかの景観だ。登山道はその険しいナメ床の沢筋に付けられていて、稜線のトラバース路と同じく石垣で補強されていた。険しい道は次第に歩きやすくなるが長かった。待ちきれなくなってGPSを何回か覗き、そして行く手に林道が横切っているのが見え、立木の脇から急斜面を下って林道脇の登山口に出る。MTBはすっかり雨に濡れていたが、シューズ(は濡れていなかった)に履き替えて走り出すといつも通りに快調だった。黄色いザックカバーのザックとコンビニ袋に入れた登山靴をデポし、林道入口から下りを走り始める。途中で咲いていた青い花はイヌノフグリ?途中から傾斜がなくなってペダルをこぎ始め、別子ダム手前では順にギヤを下げながら漕いで行き、ダムのある最高地点の手前で前ギヤを2段に落とし、やっとの思いで最高点到達。そこでは職員たちが何やら作業をしていたが、私はへたへたと到着し、少し立ち止まって休憩。そこからはもう下り。真っ暗なトンネルがあったが、幸い車は来ず。この日は背後からは1台も来ず、前から来る数台と行き違ったのみ。その後は何度かペダルをこぐが順調に走り、筏津登山口に到着。そこから駐車場までの九十九折りが最後の関門で、ギヤを下げながら登り続け、最後の登りのところでいいかげん疲れてMTBを降り、数十メートルを押して歩いて駐車場に到達。

着替えてからMTBを収納して車を出し、ザックの回収に向かう。九十九折に咲いていたのはヨメナ。トンネル手前の駐車スペースに車を入れ、ザックを回収して二日間のツアーは終了。今回の縦走は二日間で16㎞(=11+5)を16時間(=12+4)、MTBは10㎞を40分。雨のため二日目が短くなってしまったが、花の百名山、東赤石山の花をたくさん見れたし、赤石連峰の岩尾根歩きと景観を十分に味わうことができた。銅山越と銅山峰ヒュッテに再訪したのも懐かしかった。

D1

 県道37の最標高地点972m(大栄山トンネル東口)


トンネル登山口の標識


ヒメウツギ


佐々木信綱歌碑

「別子のや雪のいただきほがらほがら 初春の日の輝けり見ゆ」

キアヤメ


ドクダミ


アカツメクサ


筏津登山口


 

ヤマツツジ

 

登山者Pを小さく記した駐車禁止標識


歩きやすい道


ガクウツギ


トラバース路


深い淵


最初の赤石山荘分岐


谷筋の道


 

ごろごろした赤い石の道


縦走路に合流


メギ?


ヒトリシズカ


東赤石山への分岐表示


キバナノコマノツメ


赤石越に到達


キバナツクバネウツギ


 

赤い大きな石を登る

 

八巻山


東赤石山(最高点1,707m)の頂上


東赤石山(最高点1,707m)の頂上標識


東赤石山・三角点峰(1,706m)の頂上標識と三角点


東に続く縦走路に連なる山々


メギ?


八巻山


東赤石山


赤星山?(左奥)と東赤石山


八巻山の銀の祠と頂上標識


銀の祠は八巻大権現


八巻山の西の岩尾根とその向こうの前赤石山


東赤石山


ユキワリソウ


赤石山荘を見下ろす


 

ユキワリソウ

 

東赤石山と八巻山


西の縦走路に連なる山々


ルートはこのハシゴの右上方向


西赤石山(左奥)、前赤石山(中央)、上兜山(右奥)


赤石山荘からの縦走路と合流


イワガサ


ユキワリソウ


 前赤石山のトラバース路(行く手は西赤石山)

 

イワガサ


物住頭


物住頭の頂上標識と三角点


西赤石山


ニガナ


ツガザクラ


イワキンバイ


 

ちち山と笹ヶ峰

 


 

ヤクシソウ


西赤石山の三角点と頂上標識


西赤石山の頂上標識1,626㎞?


西赤石山から西の縦走路に連なる山々


ちち山と笹ヶ峰(左)、西黒森と瓶ヶ森(中央)、石鎚山(中央右奥)、沓掛山(右)


モリイバラ


東山の頂上標識


 天満山の頂上標識

銅山越の石塀に囲まれた地蔵尊

 

銅山越の地蔵尊


銅山越の案内

開坑以来の悲願が叶って元禄15年(1702年)別子銅山の粗銅(あらがね)は、ここを越えて新居浜の大江の浜まで2日で運び出せるようになった。それまでは村の東はずれの小箱峠を越えて宇摩郡天満(てんま)の浦まで2継3日もかかっていた。以来、明治19年に第一通洞が開通するまでの184年間、粗銅と共に山内に住む数千人の食糧も中持(なかもち)人夫に背負われてこの峠を往来した。しかし海抜1,300mもある銅山峰はしばしば厳しい表情を見せ、風説のため行き倒れた者もあった。峰の地蔵さんは三界万霊、その無縁仏を祠ったものである。その地蔵さんの縁日は旧暦8月24日であった。明治のころには道筋には幟(のぼり)がはためき、横の舟窪には土俵があって子供相撲に歓声が湧いたという。

西赤石山


アカモノ


銅山峰ヒュッテ


第一通洞(八丁マンプ)北口の案内

別子銅山の近代化が進むにつれて産銅の増加と生産物質や食料の輸送量が増大し、明治13年(1880)には立川中宿まで牛車道をつけたが1,300mの銅山越は交通の隘路で、輸送路の短縮が求められていた。そこで、ここ角石原と別子の東延谷をトンネルで結ぶ計画を立て、明治15年第一通洞の開削に着手した。幸い、この年からダイナマイトを使用したことにより、予定より早く明治19年に代々坑に貫通した。全長1,020mであった。坑内には軌道が敷かれ、人車や馬車によって輸送を行っていた。明治44年、運搬の機能が第三通洞に移って廃止されたが、以後は人道として一般にも共用されていた。

 水場



テント


D2

 前山の頂上標識

西山の頂上標識(1,420㎞!)


西山の三角点


綱繰山の頂上標識


サワガニ

 

トンネル口の分岐表示


 

沢沿いの道

 



MTBでトンネル口を出発


イヌノフグリ?


雨の車道をMTBで走る(別子ダム付近)


ハルジオン