「『普通』の素晴らしさ~リウマチになって気づくことができた~」
T.K. 35歳2004年5月21日
T.K. 35歳2004年5月21日
(1999.5)
突然、首が回らなくなり、口を開けることが出来なくなった。しゃべることも、笑うこともまったく出来なかった。慌てて、総合病院へ行った。髄膜炎を疑われ、骨髄液を採取し、いろんな検査をした。幸い、髄膜炎ではなかった。が、即入院となり、点滴治療を受けることになった。入院中、めまいが取れないので、念のため耳鼻の検査を受けることになり、国立の耳鼻科外来を受診した。がそこでも、特にこれといった原因は見当たらなかった。5日間入院し、点滴治療を受け、症状が治まったので退院した。
(2000.3)
足がすごくだるかった。「庭の草むしりしたからかなー」「子供と遠足に行って、疲れたかなー」くらいに思っていた。次第に、寝返りも打てなくなっていた。これは、おかしいと思い、整形外科に行った。「たぶん、筋肉痛でしょう」という診断だった。湿布をもらって帰宅した。しかし、日に日に症状は悪くなる一方だった。ひざがものすごく腫れて、ひざ下が、むくんだようにパンパンになった。歩くのがかなり辛かった。足を擦りながら、1cmぐらいの歩幅で歩いた。2階から1階に下る階段が、泣きたいくらい辛かった。実際、呻きながら、階段を上り下りした。
病院を変えた。総合病院の整形外科を受診し、念のためにということで、リウマチ因子の検査をした。結果は陽性。しかし、「リウマチ因子を保持しているからといって、リウマチであるとは限らないから、心配しなくてもいい。」と言われた。はっきり、リウマチという診断には至らなかった。この時、「リウマチって、何?高齢者の病気じゃないの?」と思っていた。ひざの水抜きをした。痛み止めのボルタレンも処方してもらった。痛み止めを飲むと、うそのように痛みが取れ、普通に動けた。それが切れると、あの地獄の痛みが暴れ始めた。あまりの違いに恐れをなし、それっきり、痛み止めを飲むのを止めた。あいかわらず、症状は一向に回復しなかった。というか悪化していった。その旨話をすると、いとも簡単にステロイドを処方された。素人なりにも、ステロイドはまずいのではと思ったので、それを飲まず、病院を変えた。
リウマチにかけては、かなり有名な先生がいる病院で受診した。わざわざその先生を指名し、診てもらった。いままでの経緯を話し、症状を話すと、「間違いなくリウマチですね。あなたは、まだ変形もしてないし、症状が出てから、そう期間も経ってないから、抗リウマチ剤で治したほうがいい。漢方薬で気長に治すのは、勧めたくない。」ということだった。薬の副作用のことを訊ねると、「副作用は、しょうがない。それを治すのが、ぼくたちの仕事だから。」とあっさり言われてしまった。ショックだった。その病院の待合室でのことだった。2人の40~50才代の女性が話していた。
どうやら、電気治療に来たらしかった。「私は、リウマチ暦5年ですよ。」「私は、7年です。きついですよねー。」そんな話を横で聞きながら、この痛みがいつまで続くのか、とてもとても不安になった。
痛くて,重い体、重い気持ちを引きずって、漢方相談所に行った。そこですら、「漢方薬だけで治すのは、どうかなー。病院にかかって、リウマチの薬を飲みながら、漢方薬も飲んだ方がいい。」ということだった。
もう他に頼れるところはないと思った私は、松本漢方クリニックに行く決心をした。リウマチという言葉が身辺に飛び交い始めたころから、主人がインターネットで、いろいろ調べてくれていた。その中で、松本先生の理論が目に入り、主人がここしかないと勧めてくれた。私は、「大阪までなんて、遠すぎる、方言も違う、ましてや、怪しい病院じゃないか。」と思い、かなり尻込みしていたのだった。
そのころの私の症状は、体全身が痛み、歩くこともままならず、かといって横になることも出来なかった。夜、痛くて、寝ることも出来ず、トイレに行こうと思っても、すぐにすたすた行けるわけでもなく、それこそ這っていくような感じだった。体中痛くて、睡眠もとれず、まさに生き地獄だった。
(2000.4)
私は、主人に付き添ってもらい、松本漢方クリニックへ出かけた。全身の痛みを我慢し、歩幅1cmくらいの奇妙な歩き方をしながら、飛行機に乗り、電車に乗り、見慣れない町を、かなりのスローペースで移動した。途中、じろじろ見られたりもした。特に階段は、試練の場だった。その時の私にとって、上り階段は、エベレスト級の山、下り階段は、断崖絶壁状態だった。特に下り階段は命がけといっても過言ではないくらいだった。私のペースに合わせて、まわりに気を遣いながら歩いてくれた主人は、もっときつかったと思うが。松本漢方クリニックの鍼灸師織田先生に教えて頂いたとおりに、ひたすら進んだ。そして、ようやく到着。が、松本漢方クリニックの前に立ったとき、唖然としたのだった。そびえたつ階段に、圧倒された。深呼吸し、最後の力をふりしぼり、その階段を上りきった。そうして、ようやく漢方の心地よい香り漂う、松本漢方クリニックの扉を開けることができた。
まだ午後の休憩時間だった。たまたま受付にいらっしゃった松本先生が、私たちに気づき「患者さんだよ。あいさつは・・・・。」と受付の方たちに挨拶をうながしていた。「こんにちは。」受付の方たちが声をかけてくださった。なにげないことだったが、心身ともに疲れ果て、緊張していた私にとって、先生のさりげない気持ちが、とてもうれしかった。その時、「ここに来て良かった。」と思った。問診表に記入した後、しばらくすると、ピンク色の制服に身を包んだ看護婦さんに呼ばれた。関西弁でまくしたてられるのかなと身構えていた私に、おだやかな口調で、いろいろ話しをしてくださった。気が緩んだ私は、自分でもわけがわからないうちに、感極まって、涙があふれて止まらなかった。
いよいよ先生と対面の時がやってきた。ものすごく威勢がよく、圧倒された。でも先生の語り口の歯切れの良さに、こちらまでまきこまれ、お会いしただけで、元気になった。「必ず、治してあげるから」とおっしゃって下さり、握手をして下さった。もう他に頼るあてがなかった私は、この時はまだ半信半疑ではあったが、先生を信じようと思った。
その後、鍼灸をしてもらった。鍼灸師の織田先生は、とてもおだやかで、ゆったりしたしゃべりをされて、とても安心した。また、とても気持ちよく、ただ1度の治療だけで、かなり良くなったような気がした。初めてお会いした方とは思えないほど、リラックスできた。漢方入浴薬と漢方煎じ薬を、処方してもらい、帰途についた。
言われたとおりに、朝晩薬湯に入り、煎じ薬を飲みはじめた。この薬湯が、想像以上に良かった。家族にも「体がぽかぽか暖まる」と好評だった。服の脱ぎ着がおっくうであったが、薬湯の魅力にとりつかれ、入り続けた。湯の中で、体は重力を感じず、とてもとても楽だった。湯から上がったときの体の重さといったら、たまらなかった。体重を支えるため、いろいろなものに寄りかかったり、つかんだりして、家中のものを壊した。「重力1/5の月で、生活したい。」と、本当に思った。痛い重たい体を引きずって、鍼灸にも通った。家でもお灸をした。そうこうしているうちに、症状が少しずつではあったが、いい方向に向き始めていた。
(2000.5)
主人は、胃痛に悩まされていた。私がリウマチになったことで、かなり心配したせいだった。いろんな意味で辛かった。
絶不調?(絶好調の正反対)の私たちであったが、ゴールデンウィークは、家族そろって旅行に出かけた。ついこの間までは、考えられないことだった。薬湯と煎じ薬の効果が、明らかだった。まだまだ摺り足ではあったが。煎じ薬をポットに入れて、持ち歩いた。
(2000.6)
2ヶ月ぶりに、松本漢方クリニックへ向かった。今度は、私一人で飛行機に乗り、電車に乗り、歩いた。それが出来るまでに回復していた。早い効果の現れに驚くと同時に、とてもうれしかった。松本漢方クリニックで受診する前に行った病院では、「リウマチ薬を飲み始めて、3ヶ月経たないと、効果は期待出来ない」と言われていた。松本漢方クリニックへ来て、本当に良かったと、心底思った。
その日は、先生にいくつかの質問を準備していた。それを、いつもの歯切れのよさで答えて頂いた。その中の1つは、「妊娠しても、大丈夫ですか」という質問であった。「今は、少し待ったほうがいいかもなー」という回答だった。まだまだ体調が万全でない私にとって、これは、あくまで念のための質問であったのだが、後に・・・・・。この日も、先生からたくさんの元気を頂いて、日帰りで、帰路についた。
(2000.8)
家族で、温泉旅行へ出かけた。このころになると、だいぶ痛みも減っていた。が左足首が痛かったので、スムーズには歩けなかった。それでも、かなりの回復ぶりに、私自身も主人も、にこにこ顔だった。もちろん、煎じ薬は持ち歩いた。
(2000.9)
3ヶ月ぶりに、松本漢方クリニックへ向かった。今回は、少し気が重かった。なぜなら、妊娠していたからである。6月に受診した際、「妊娠は、もう少し待ったほうがいいかもなー」との先生からの回答だったので、今回妊娠している旨、切り出すのがとても怖かった。「自分の状態を考えんとー」みたいな感じで、どやされるかなと、ドキドキしながら、妊娠していることを告げた。すると、先生からは、「そうか。そうやったら、薬は、一時止めような。」という返事だった。私は、ほっとした。妊娠がわかった時、本来は、手放しで喜ぶ出来事であるが、今回は、私の体調が万全でないため、純粋に喜べなかった。かといって、授かった我が子を、あきらめることは出来なかった。この複雑な気持ちを、主人に分かってもらえないもどかしさで、とても落ち込んだ。しかし、先生に話して、頑張って、我が子を産む決心をした。
(2000.10)
妊娠してから、一段と体調は良くなっていった。子供の運動会にも、手作りお弁当持参で参加することが出来た。
(2001.3)
来月、出産を控え、マタニティー体操や、呼吸法など、体を動かしていた。ものすごく体調はよかった。リウマチになったことが、うそのようだった。
(2001.4)
長男小学校入学、二男幼稚園入園、三男無事出産。母子ともに元気。順調に産後を過ごしていたが・・・。
(2001.5)
咳が出始めた。どんどん咳が強くなっていった。そのうち、あちこちリウマチの痛みが出始めた。でも私には、松本先生がついていると思うと、ものすごく気が楽だったし、痛みも、それほど苦ではなかった。なつかしい痛みが戻ってきたという感じだった。その頃までは。
(2001.6)
生まれたばかりの三男坊に母乳を与えていたので、病院へ行って、薬をもらっても飲めないなと自己判断していた。そのうち、「だれか、この子を見ていてほしいな。ゆっくり寝て、体を休めたい。」と、かなり自分自身辛い状況になっていた。とうとう、どうにも我慢できない状況になり、病院へ行った。肺炎になっていた。いろいろ検査した。先生には、「入院したほうがいい。」と言われたが、子供のこともあり、通院する方法を選んだ。病院で治療するのは、体にとって、いろいろ問題になることだらけだよなと、とても心配だったので、松本先生に電話をかけた。すると、松本先生は「とりあえず、肺炎から治しなさい。」という返事だった。その言葉に安心した。その日、帰宅して、横になっていたが、咳は相変わらずひっきりなしに出て、リウマチの痛みも、激しさを増していた。歩くことが、かなりむずかしくなっていた。息苦しさを我慢できなくなった。とうとう、救急車で病院へ運ばれた。それから、2週間余りの入院、点滴治療が始まった。
(2001.7)
食欲なし、吐き気あり、咳はとまらず、体重激減、微熱続き、杖なしでは歩けず、自分でいうのも変だが、見られたものではなかった。家のことを心配する気力すらなく、ただただ、良くなることを信じて横になっていた。その頃から、足の甲が、通常の2倍以上に、赤くパンパンに膨れ上がっていた。男性ものの大きな草履しか、履けなくなっていた。足裏が痛くて、歩くのがきつかった。夜は、熟睡できず、朝はかなり早くから起きていた。テレビを見る気力もなかった。
診察を受けても、退院の目処は立たず、私は、いつになったら帰れるのだろうと、涙が溢れて止まらなかった。その入院中に、いろんなことを考えた。家に帰れたら、「いつも笑顔でいよう。」「子供たちを叱るのをやめよう。」「主人に、嫌な事言うのをやめよう。」「人の悪口、陰口は言わないようにしよう。」「元気になったら、何でも自分が出来ることは、率先してしよう。」「どんなことが起きても、許そう。」この時は、心底そう思っていたのだが・・・・。
退院の日がやってきた。杖をつきながらではあったが、なんとか歩くことが出来た。家に帰って来られたことが、大変うれしかった。生後3ヶ月の三男坊は、ソファの上に寝転んでいた。体中が痛む私は、その三男を抱き上げることが出来なかった。ただただ、姿を眺めていることしか出来なかった。
退院して10日後位に、家族で霧島に出かけた。陶器のコップに絵付けをした。私は、杖をつきながらではあったが、家族で出かけられるまで回復した自分が、とてもうれしかった。
(2001.8)
子供たちが、夏休みで家にいた。体の自由が利かない私を見かねて、近所の人が、お昼を準備してくれたりした。涙が出るくらいありがたかった。小学1年の長男が、よく弟たちの面倒を見てくれたり、こまめに動いてくれたりした。もちろん、主人も家の掃除、洗濯、食事作り等、頑張ってくれた。動きたくても動けない自分が歯がゆくて、悔しくて、申し訳なかった。家族に八つ当たりする日もあった。母親が元気じゃないと、家の中が真っ暗になると思った。
(2001.9)
症状は、一向にいい方向へ向かっているとは思えなかった。足の甲はパンパンに腫れあがっているし、杖は手放せなかった。家で、ローラーのついた椅子を、車椅子がわりに使った。何をするにも、一回一回気合を入れながら、動いた。そうしないと動けなかった。台所仕事も、椅子を使ってするようになった。「私は、本当にリウマチなのだろうか。本当は、別の病気じゃないのかな。」余計なことを考えはじめていた。「松本先生、信じていていいのかな。」すぐに松本漢方クリニックに行けない不便さを感じていた。「やっぱり、近くの病院で、薬をもらって、楽になったほうがいいのかな。」自問自答しながら、リウマチに関する書物を読み漁り、落ち込んだ。そんな時、インターネットで、皆さんから寄せられた手記を読んだ。その手記に励まされた。涙が溢れて止まらなかった。迷っている場合じゃないと、思い直した。
(2001.10)
焦ることはなかった。少しずつ、いい方向へ向かっていた。その証拠に、長男の運動会には、手作りお弁当持参で参加出来たからだ。杖も必要なくなっていた。
(2002.6)
かなり久しぶりの松本漢方クリニック行きであった。昨年のいろんな迷いが嘘のように、通常生活を普通に送れるようになっていた。
(2002.8)
高校時代の友人と、同窓会で会った。お気に入りの服を着て、普通に出かけられる自分が、とてもうれしかった。もちろん、周りの友人は、私がリウマチで苦しんでいたなんてことは、私を見る限りでは知る由もなかった。このころ、新たな鍼灸院へ行き始めた。とても感じのいい先生で、腕もよかった。すぐに効果は現れ始めた。この鍼灸の先生と、もっと早く出会っておけば、もっと早く体調も良くなったと思う。リウマチ患者にとって、鍼灸がとても重要であることを痛感している。
(2002.10)
主人の弟の結婚式で、東京へ出かけた。このころは、かなり体調もよかった。ただ、左足首が少々痛み、歩き方がぎこちなかった。
(2003.6)
松本漢方クリニックで受診した。体調は、すこぶる良かった。松本先生も、私の回復ぶりを喜んで下さった。とてもうれしかった。体力に自信を持った私は、週3~4日、短時間働き始めた。
(2004.4)
たまに、節々が痛むことはあっても、寝込むほど辛いことはなく、過ごしてきていた。普通に生活していたので、煎じ薬もさぼりがちであった。仕事は、体に無理のこない範囲のつもりであったが、やはり働きはじめると、そういうわけにもいかなくなっていた。比重が仕事に傾きはじめていて、正直辛くなっていた。無理に無理を重ねたあげく、気づかぬ間に、また肺炎になっていた。今回は、入院は免れた。仕事をあきらめた。肺炎も治り、普通の穏やかな生活を送っている。
私は、リウマチになる前は、自他共に認める頑健な体の持ち主であった。結婚し、翌年長男を出産、1年間育児休業し、仕事は続けた。4年後、二男を妊娠中に退職。二男を出産後、家を新築。環境の変化に伴ってか、出産の影響か、かなり精神状態が不安定になっていた。すべての物事に対し、マイナス思考になり、吐き気をもよおすなど、ストレスに押し潰されそうだった。自分自身でストレスを作りだしていたのかもしれない。それからが、体調変調の始まりだった気がする。今となっては、その時、うまくストレス発散していれば、もしくは、ストレスに打ち勝てる強靭な体であれば、リウマチになることもなかったかもしれないと思ったりもする。
しかし、リウマチになったことで、いろいろなことを考えることが出来たのも事実である。たとえば、普通の生活である。今の私にとって、すべてのことがありがたく、すばらしいことに思える。一つ一つの動作に感動する。何もかもに対して、感謝せずにはいられないのである。何気なく、ソファに座る、立ち上がる、歩く、洗濯物を干す、掃除機をかける、階段を上る、下りる、台所に立つ、ご飯をつくる、ベッドで寝ることが出来る、布団をかけることが出来る、朝、目が覚めて、すぐに起きられる・・・。
体が思うように動かない経験をして、はじめて分かった。人間の体って、本当にすごいなと、改めて感じた。子供と手をつなぐことが出来たときは、うれしかった。抱っこも出来るようになって、親子共々、ニコニコ顔である。体の弱い人にも、なにげなくやさしく声かけ出来るようになった。以前の私は、元気120%だったので、病弱な人の気持ちなど考えたこともなかったし、「そんなことぐらいでー」みたいな気持ちしか持っていなかった。以前の私でなく、今の私になることが出来てよかった。これは、通常生活を普通に送れるようになったからこそ、そう思えるのだろうが。
今は、朝、目が覚めたことにまず感謝し、その日一日がスタートする。普通に生活出来ることが、幸せでたまらない。これも偏に、松本漢方クリニック、松本先生のおかげであると、心から思っています。本当にありがとうございます。いざという時は、松本先生が私にはついていると思うからこそ、安心して、毎日過ごせているのかもしれない。
そして、松本漢方クリニックに出会わせてくれた主人に、感謝。今、通っている鍼灸院の先生に、感謝。家族に、感謝。いつも何げなく励ましてくれる友人に、感謝。元気になることが出来たなら、私は、いろんなことにチャレンジしようと思っていた。元気になれたら、何でも出来ると思っていた。その思いを忘れることなく、いろいろなことに取り組んでいきたい。一日一日を大切に過ごしたい。みんなに感謝しながら。いつまでも家族が笑って過ごせるように、元気でありつづけたいと思う。