「リウマチ手記」
34歳2006年7月4日
34歳2006年7月4日
リウマチは完治しないという現代医学の間違いを、松本仁幸先生は真実の追究によって正されています。人間の免疫の働きを絶対に抑制してはならないという直感とそれに基づいた松本理論とによってどれほど多くの人が救われたでしょう。幸いなことに私もその内の一人になることができました。松本理論の正当性を私自身の体で証明することもできました。悪いものが体の中から出ていって、まっさらな体に生まれ変わったようです。松本先生に心より感謝いたします。本当にありがとうございました。そしていつもパワーあふれる織田先生、下口看護士、スタッフの皆様、もう少しお世話になりますがよろしくお願いいたします。
私がリウマチと診断されたのは2004年9月17日でした。その年の3月頃から右手中指と薬指にツッパリ感のある痛みがあり、気になっていました。当時上の子は2歳。下の子を出産して5ヶ月たったころで、首、肩、腕、腰、膝と、体中筋肉痛のような感じだったので育児による軽い腱鞘炎ぐらいに思っていました。右手がおさまると左手の同じ場所が痛みだします。右手をかばっていたから次は左手か…。下の子がもう少し成長すれば徐々に体も楽になるだろうと思いながら毎日を忙しく過ごしていました。
2004年8月
上の子のオムツはずれの練習が始まり、さらに育児に手間がかかるようになりました。家の中を素足で歩くと、足の裏に何かゴツゴツとした物を踏んだような違和感を覚えるようになりました。毎日気にはなっていました。その内いろいろな部位がジワジワ痛みだしました。手指の力が弱くなり、皿やコップを洗浄中によく取り落としてしまったり、布巾が絞れなかったり、ゴミ袋の口を固く縛れなかったり、ドアノブを回せなかったり、蛇口の開閉がつらかったりなど、数えあげたらきりがないほど日常生活にストレスを感じていました。そして、これらの行為が辛いのは、手首に痛みがあるからだということに気付きました。足の指先も痛みだし、家の中で歩くのさえ辛くなりました。眠っているときもジリジリと痛みました。足がむくんで靴の脱ぎ履きがしにくくなったので、指先の出るサンダルでなんとか乗り切ることにした。この頃は主人に「なんでこんなに体中ガチガチに固まっているのだろう」と相談していました。もともとよく話をする夫婦ですが、「今日はここが痛い」とか「昨日よりまだまし」といった自分の体調の報告ばかりで主人に申し訳なく思っていました。しかし主人に病院へ行くかと問われても、毎日移り変わる痛みがなんとも説明しにくい状態だったので病院へ行く気にはなれませんでした。もともとめったに風邪はひかないし体力にも自信がありました。薬にも頼らないほうで、へんに我慢強い性格なので、(なるべく病院には行かずに済んだらな…そのうち治るわ)という気持ちもありました。そんな私の思いを知ってくれたのか、主人は湿布やひざサポーターを色々と見つけては買ってきてくれていました。8月14日には清水寺でお守りを買って帰ってきてくれました。この日は1年分のお参りをしたぐらいの価値ある日だったそうです。お守りは肌身離さず持っていました。
2004年8月22日
朝、右足つま先の親指辺りが、今までにないぐらいうずくように熱くなり、キリキリと釘で刺されるような痛みで目が覚めました。そして親指が腫れたまま下のほうへダラリと下がっていました。見るからに普通ではない状態でした。それなのに(まだ大丈夫、何とかなる)と様子を見ていました。朝の内は足の原型がわからなくなるぐらい大きく腫れ上がり、普通に足を地面にペッタリつけられませんでした。歩くというより、かかとだけでゆっくり進むといった具合でした。湿布を張りまくってその日一日をなんとか過ごしてみると、次の日には腫れがひいていました。その後、足裏のゴツゴツ感はあったものの大きく腫れることなく8月が終わりました。
2004年9月
上の子の幼稚園選びが始まり説明会に出かける日が多くなりました。
9月5日には首が回らなくなり、枕に首を乗せても痛みました。寝返ろうとしても首が固まってビクともしないので頭を両手で持ち上げたりして…本当に大変なことになりました。その日の夜には2回地震があり(震度2から4)こんな不自由な体で二人の子供を守れるのかと不安になりました。夜、会社から帰った主人がダンボールでムチウチ治療のときに使用するカラーらしきものを作ってくれました。さっそく着けてみたものの効果はなくすぐに外しました(一生懸命作ってくれてありがとう)。
次の日も首の痛みは少しありました。その翌日、朝から体中の節々が痛く熱が出ました。37.5度でしたが普段熱を出さない私にとっては珍しいことでした。夜になっても熱は下がりませんでした。暑さで体がだるいのだと思い込んでいましたが、今思えばこれもリウマチの症状のうちの一つだったのでしょう。
子供と同じくらい昼寝をしていても一日過ごすのがやっとでした。朝起きるにも立ち上がるまでとても時間がかかりました。何かにつかまらないと起きられません。特に朝一番の下の子のオムツ替えは体中のこわばりがあり指先もガチガチに固まっていて苦痛でした。食欲がなくなりこの頃には体重が7キロも減っていました。洋服のサイズが合わなくなり、不格好になりました。尾てい骨が出っぱり始め、上を向いて寝ると痛いくらいでした。全身の倦怠感と思うように動けないストレスは体の痛みにまして精神的に不安定になりました。
2004年9月11日
朝から両足親指付近が8月22日のときと同じように強く痛みだしました。そしてまた腫れ上がるので、さすがに怖くなり電話帳で整形外科を調べました。(この日は土曜日で午前中に診療が終わるところがほとんど。主人は会社へ出勤した後。子供二人は昼までスヤスヤ寝ているだろうし二人を連れての外出は無理。ましてやこんなに膨れ上がった足ではスリッパも入らない)。あれこれ考えているうちにお昼を過ぎました。子供二人はまだ寝ています。やっぱり今日は無理。じっとしているだけでがんがん痛みました。週明け必ず病院に行くと決めました。
2004年9月13日
腫れは引いていましたが、病院でこの痛みの原因を検査して欲しいとやっと思えるようになりました。主人の出勤前に山口整形外科へ連れて行ってもらうことにしました。以前主人がひざを悪くしたときに通っていたところで診療時間のずいぶん前から患者さんが列を作っているところでした。「リウマチかもしれないね。」と先生。リウマチ?5年ほど前に手首が急に動かなくなり検査をしたけれど陰性でした。高齢の人がなる病気だと思い込んでいました。(今の私には違う病名がつくはず…)血液検査と腫れていた部分のレントゲンをとりレーザーを当ててもらう。じんわり温かく足の痛みが和らぐ感じがしました。湿布だけもらって帰りました。この日が4回目の結婚記念日だと後日気がつきました。それくらい痛みと倦怠感で日々の生活にゆとりがなくなっていました。
2004年9月17日
山口整形外科の検査結果はRF60でリウマチとの診断が下されました。(私がリウマチ?)ショックでした。しかし、この時点ではリウマチが「根治療法が無く一生付き合わなければならない難病」と定義されている病気だとは知りませんでした。
看板にリウマチ科を掲げている山口整形外科ですが、先生からは病気についての説明もなく、「本たくさんあるから読んでみて」と明るく言われました。「アレルギーみたいなもの」とにこやかに言われました。「3人目(赤ちゃん)考えているの?薬を飲み始めると妊娠は避けなければいけないよ」とのこと。できればもう一人ほしいと思っていたので薬を飲むのをためらっていると、「1ヵ月後に来て下さい!」と、また笑顔で言われました。「とりあえず病名がわかってよかった。後はどうやって直したらいいか考えればいいだけだから」と主人は言ってくれました。私も同感でした。でも頭の中はぼんやりしていて何も考えたくないし(ひょっとして何かの間違いかも…)といったどうしようもないことがぐるぐる回っていました。次の日、私の知らないうちに主人はリウマチに関する情報と知識を頭に詰め込んでいました。(1ヵ月後に来て下さいなんて病気が進行してしまう…山口整形外科ではアカン!)そう思ったそうです。主人は「もっとリウマチに強い病院を探したほうがいい」とインターネットからプリントアウトした紙束や名医のいる本などの資料を仕事帰りに持ち帰ってくれました。いろいろ調べた挙句、京都でも有名なリウマチ科のある下鴨病院へ行ってみることにしました。
2004年9月21日
下鴨病院へ
主人が前日に電話予約でリウマチ科の山下院長を指名してくれていました。
上の子は祖父母が預かってくれました。下の子と主人と3人で予約時間前に到着し2時間ほど待ちました。診察前に体重と握力を測る段取りになっており、毎回測って専用の紙に記入し先生に渡すとのこと。
ずいぶん待ってやっと順番が来ました。山口整形での血液検査の結果を持参していたので見てもらいました。「早分かりリウマチQ&A」という冊子を頂き、それに沿って病気の説明をしてもらいました。山下先生はボソボソと聞き取りにくい声だったのでこちらも必死に耳をそばだてて聞きました。それでも山口整形外科よりは丁寧に感じたので、説明を受けている段階で「病院替えて良かった…」と思ってしまいました。リウマチは全身の炎症性自己免疫疾患で治療の決め手が無く、一生この病気と付き合わなければならない…(それならば薬で「寛解」(症状の治まる状態)に持ち込めたらいいな)と前向きに考えました。しかし下の子は11ヶ月でまだ母乳をあげていました。薬を飲むとなると断乳(卒乳)しなければなりません。その事で少し考え込んでいると山下先生は子を見ながら「(母乳やめても)もうええやろ」と一言。あっさりと私のお薬生活がスタートしてしまいました。
リマチル100mg、ハイペン200mg、ムコスタ100mgを1日2回
アルファロール1mg(ビタミンD)を1日1回
下の子の母乳もこの日で終わり…
いきなりの卒乳でさみしいものがありました。
「りんちゃん、おっぱいバイバイの日。
さみしいけど今までいっぱい飲んでくれてありがとう」(この日の日記より)
2004年10月5日
下鴨病院
血液検査の結果、やはりリウマチでした。レントゲンはひざから爪先、手指を10枚以上撮りました。雨のせいか、体中がガチガチに固まっていて、撮影時に体勢を変えるのがとても苦痛でした。レントゲンの結果、「異常なし」。ただし両足親指付け根の骨が傷んでいるとのこと。この日もその部分が腫れて痛くて普通に歩けなかったので先生に素足を見てもらうと「だいぶ腫れてるな、注射しとこか。」と言われ、両足親指付け根に注射されました。この注射がステロイドだという説明は無く、こちらも聞き出しませんでしたが、この痛みから逃れられるのならお願いしますという感じでした。
リウマトレックス2mg、1週間に1度 1日2回が新たに加わる。
リウマチ本を2冊購入する。リウマトレックスはもともと抗ガン剤として使われてきた薬をリウマチの治療用に応用したものです。1週間に1度の服用と聞いただけで相当きつい薬だと思いましたし(抗ガン剤だった薬を自分が飲むなんて…)と、泣きました。(後に新聞でリウマトレックスの副作用により100人以上が死亡している事を知る)
2004年10月19日
下鴨病院
薬を1日も欠かさずに飲み続けて約1ヶ月経ちました。この間、足に蕁麻疹が出たり手の平にしこりが出たり、首の後ろのリンパ腺が腫れたり副作用かと思われる症状が色々あったのに山下先生は副作用だとは認めませんでした。私も(先生が言うのだからそうだろう)と考える馬鹿な患者でした。それに前回の注射で足が腫れることも痛みを感じることもなくなったけれど、そのあまりの効果に疑問をもった主人が「あの注射はステロイドですか」と聞くと「ああそうや」との返事。「ああそうや」が「当たり前や」に聞こえました。今思えば、なぜ注射のときに言ってくれなかったのか腹立たしく思いますが、こちらも患者として勉強不足だったのだと思うしかありません。この1週間、肩が異常にこったり、右ひざが曲がらないうえに重くて寝返りをうつときも両手で右足を持ち上げないといけなかったりした程でした。普通に歩けず右足をひきずる様な格好でした。左ひざと比べても少し腫れているみたいでした。
2004年10月25日
下の子の1歳の誕生日。この日は体中ガチガチに固まっていたけれど上の子の幼稚園の入園金を支払いに家族4人で出かけました(普段外出を控えていたので気分転換も兼ねて)。帰りにショッピングセンターへ。買い物中、とうとう右ひざにピクッという激痛が走りました。足がつったみたいで転げそうになり、心臓が高鳴り、次の一歩を踏み出すことが出来ないくらいでした。すぐに下鴨病院へ向かいましたが、山下先生は手術中だったので仕方なく翌朝一番の予約を取り帰宅しました。
2004年10月26日
朝9時。主人の出勤前に下鴨病院へ。右ひざは水が溜まって腫れていたようです。すぐに抜いてもらうと、腫れがなくなりペッタンコになりました。しかし、それで痛みが治まる訳ではありませんでした。抜いた液をリウマチと関係があるものか調べるということでしたが、この日が下鴨病院へ通った最後の日になりました。
2004年10月27日
夜、義父から電話があり「(主人が)仕事中に脚立から落ち、胸を打ったので府立病院へ連れて行く」と、連絡がありました。強打したようなので念のため精密検査を受けるとの事でした。無事を祈るばかりでしたが不安に押し潰されそうでした。(主人にもしものことがあればどうやって生きていけばいいのか…健康でないこの体でまだ幼い二人の子供を育てていけるのか…私がしっかりしなくては)と、冷静さを取り戻すのに時間がかかりました。主人の胸のレントゲンとMRIの結果は異常なしでした。胸の痛みは辛そうでしたが、帰ってきてくれた顔を見てホッとしました。
2004年10月28日
主人は大事をとって会社を休んでいました。まだ胸は痛そうなのに自分のことはそっちのけで、リウマチに効くという「クロレラ」をインターネットで検索していました。その時に偶然「松本漢方クリニック」のホームページを見つけたのです。主人は興奮気味に「リウマチがアトピーになって、アトピーをこの先生が治せるらしい」と簡単に説明してくれました。私は食事の後片付けをしたり、子供を寝かせたりして忙しいし、何より今日は何の為に会社を休んでいるのかということで主人に少し腹を立てていましたが、仕方なく少しだけ手記に目を通しました。「リウマチは治る」とか「先生に感謝している」とか(ホンマに?)と思う様な内容でした。私の今飲んでいる薬は副作用があるけれど漢方ならその心配はまずありません。どの本にも「難病」と書かれ、どの医者も「完治しない」と言うリウマチを「治してあげる」という人がこの日本に、しかも大阪に実在するとは。しかしこの時は手記の一部を少し読んだだけで「理論」には取りかかれませんでした。主人は「明日行ってみよう」と言ってくれましたが、私は乗り気になれませんでした。第一に私のことよりも今は自分の体を大切にして欲しかったし、胸の打撲が完全に治ってからでいいと思っていました。それに病院を替えるにしても、今後、高槻まで幼い子を連れて通い続けることが出来るのか不安もありました。しかし主人の決心は固く、義父に事情を話し、明日一日、上の子だけ預かってもらう約束を取り付けていました。
2004年10月29日
松本漢方クリニック初診
電車で高槻へ。10時過ぎに到着。私の歩みはのろく主人は痛みの残る胸に下の子を抱いて進みました。「松本漢方クリニック」はすぐに見つかりました。が、仕上げに階段を登らなくてはなりません。まだ右ひざが曲がらないので一段ずつ足を揃えて登りました。ドアを開けると漢方薬のにおい。それ以外は特にかわった病院だとは感じないけれど、座って周りを見ると貼り紙がたくさん…「ステロイドが欲しい人は他院へ行って下さい」、「患者さんの書いた手記を読みながら待つように」など。そしてこれこそ他院には無い「治ったあかつきには手記を書いてもらう」という誓約書を受け取りました。(私にも書く時が来るのかな…)この時はまだ漠然とした希望しか持てませんでした。待つ間、手記を読み始めると止まらなくなりました。私よりも重い症状で長い間リウマチに悩まされてきた方がほとんどでした。中には学生や20代の女性といった若い人達の多いことに驚かされました。そして自分にしか分からないであろうと思っていた痛み、だるさ、しんどさ、辛さがどの手記を読んでも伝わってくるのです。自分と重ねては共感し、その人達の闘病生活に涙しながら読み進みました。この日は混んでいたようで、長い間待ちましたが、その間、診察室から聞こえる松本先生の声は静まることなく逆にヒートアップしているみたいでした。(パワーのある先生やなぁ...)途中、下口看護士に松本理論のクラススイッチの説明と採血をしてもらいました。その間、松本先生はこちらの会話に突っ込みを入れに何度かとなりの診察室から顔を出されました。白衣ではなく皮のベストに柄のシャツ、早口で大声で「手術は絶対やったらアカン」みたいな事を叫び、また診察室へ消えてしまいました。手記で読んだように最初の印象は今までに会ったことのない風変わりなお医者さんという感じでした。その後2回ほど早口で名前を呼ばれ診察室へ。私は丸椅子に主人はパソコン前の椅子に座ると同時に「その椅子10センチ下がります。10センチ」の先生の掛け声とともに主人の座高は椅子と一緒にズンと下がりました。「買ったらいいねんけど」先生の座っておられる椅子の上のマットはボロボロに破れていました。「これ視覚障害の子が作ってくれたんや。捨てられへん」と、この一件だけでも先生の人柄を少し伺うことができました。「リウマチ?治したげるよ」と握手。そして今までのアレルギーの治療歴を聞かれました。小学生から高校生ぐらいまで蕁麻疹になりやすく、皮膚科で処方された塗り薬を何種類か使っていました。成人してからも体に湿疹が出来たときなど同じ皮膚科に行って出された薬を根気良く塗っていました。今思うと良く効く物もあったのでステロイド入りのものもあったのでしょう。そして結婚する1年前位から鼻炎も気になっていました。鼻づまりの時期は3月から6月位、花粉症だと思っていたのですが、下の子を妊娠中から出産する時はずっと鼻づまりで陣痛のときに鼻呼吸が出来ずにパニックになりかけていました。耳鼻科で点鼻薬を処方されたり市販の「AGノーズ」を使ったりして、その場しのぎをしていました。先生の言われる「いらん事」をしてきたのです。理論が理解できるまで何度も読むようにということと、鍼とお灸もしっかりやるようにということをおっしゃり、絶対治したるでと握手…この日だけで何度かしてもらいましたがリウマチになってからの暗い日々と将来への不安が取り去られるような気がして涙が溢れそうでした。「治したる」この一言でどれだけ救われたでしょうか…鍼は午後のたまたま空いている時間でお願いした。時間までに昼食を済ませて戻る。下の子を主人に任せて初めての鍼治療へ。織田先生は優しく「痛いの我慢してきはったんやね」「お家の人にはお姫様みたいにしてもらったらいい」「リウマチは免疫力の高い美男美女がなる病気」など精神的に楽になれるようなお話をしてくださいました。その反面「朝昼晩、まずはお灸。空いてる時間にやろうなんて甘い考えでは絶対に治らない」と、これから始まるお灸の生活に喝を入れられました。織田先生の温かく時に厳しいお話で鍼の1時間はすぐに過ぎました。初めてにしては力まずリラックスして受けることが出来ました。その後、主人と一緒にお灸のやり方を教わりました。もぐさを扱うのも初めてだし、患者さんの写真を拝見してお灸の数の多さに圧倒されました。私に同じことができるのだろうか。精算を終え薬局へ。大量の漢方煎剤や入浴剤など一週間分が大きな袋二つになった。その金額の高さに私は少し戸惑いましたが主人は「気にせんでええ」という顔をしていました。上の子を祖父母宅まで迎えに行き自宅に着く頃には疲れきっていました。家族4人、遅い昼寝に入りました。私は上の子の手を握り寝かしつけているつもりでしたが考えると私の方が手を離せない位、強く子供の手をつかんでいました。
治療開始
漢方煎剤、入浴剤、鍼灸、アミノバクト(1日1袋)、プロテイン(1日3杯)
漢方煎剤
始めの内は一日中お茶を煎じているようで気が滅入りました。なので一度に3日分、3番煎じまで沸かすようにしました。1番煎じだけ別のボトルにいれ食前にのみ2番3番目は一緒のボトルにいれお茶代わりに飲みます。これで必ず治るなら味は全然苦ではありませんでした。決して治らないのに副作用のある抗リウマチ剤を飲み続ける人生と比較してみても天と地の差です。体に害は無いのですから。プロテインは牛乳に溶かしこれも食前に飲む。
入浴剤
薬湯に入る準備をする。まずはこわばりのある手で薬を入れる袋をガーゼで簡単に作り、浴槽に湯を3分の1ほど溜める。アパートの給湯器なので高温でも60度くらい。追い炊き機能がついていないので適温適量にするのに失敗は許されません。1時間蒸らして袋を主人に絞り込んでもらい1番風呂に私が入るというやり方でしばらくの間続けていました。薬湯の用意に慣れるまでは日数がかかりました。その後、試行錯誤して今では大きな鍋に80度くらいの湯を沸かし、その中で蒸らして浴槽に移すスタイルに定着しています(この方法は患者さんの手記で教わりました)。
お灸
10月31日初めてのお灸の日。幼い子二人が寝ている間にと主人の出勤前に朝早く起床し二人でやることにした。まずは自分の手が届かない右肩から。想像以上に熱く突き刺さるように痛い。一粒消えては一粒焼くといったロースピードで一粒一粒ぐっと体を縮こまらせてただ熱さに耐えていました。こんな調子では続けていけない…早くも弱音を吐きました。途中子供二人が起きてしまい泣き出したので灸は終了。この日の入浴後には大量の汗が出ました。お灸1日目にして苦手意識が表れてしまいました。毎日お灸をする為には習慣づけなければ続かない。
最低1日1回は必ずやる。休まない。たとえ短時間でもいいから毎日やる癖をつける。
すぐに取り掛かれるように灸セットをすぐ出せる場所に保管する(面倒でない所に)。うちは小さい子が二人いるので手の届かない食器棚の上段に陣取りました。
以上たった二つの決め事を守るだけです。当たり前すぎることかもしれません。でもこの時は熱さで痛みが和らぐというお灸の醍醐味をまだ身をもって分かっていなかったのです。二日目のお灸が終わったあと右腕にかゆみと湿疹が出ました。「こんなに早くアトピー?」アトピーでないとしても明らかにお灸の効果です。これは私の体の中での正しい反応だったのでしょうが、治療開始から一週間経ってもまだリバウンドは起こりませんでした。その一週間後には長女の三歳の誕生日に七五三を兼ねたお祝いをしようと以前から予定していました。このお祝いの日だけはリバウンドの時期と重ならないように祈っていました。着物を着、足の親指の付け根は少しむくんでいたけれどなんとか足袋をはいて草履も入りました。(足を引きずるのに着物姿ならあまり目立たないな)などと考えながら、忙しくも無事終了しました。
私の飲んだ薬の量は、37日間で
リマチル7400mg
リウマトレックス16mg
(その他ハイペン、ムコスタ)
2004年11月19日
松本漢方クリニック3回目
治療開始から3週間経ってもリバウンドは起こりませんでした。体にまとわりつく様な倦怠感は少し和らいでおり10月よりも気分的に元気でした。右足がまた痛み出し、手のこわばりもまだありました。
2004年11月26日
主人の休日、久しぶりにどこかへ出掛けようという気持ちが湧いてきました。天龍寺へ紅葉狩りに行きました。右ひざの水を抜いて1ヶ月経ち、足の動きが楽になってきましたが、新たに胸の辺り、鎖骨に痛みが出てきました。(松本先生によると鎖骨はリウマチとの関連は無いとのことでしたが、私としてはリウマチの痛さと同じように感じました。)服の着脱がつらい。
2004年12月3日
松本漢方クリニック4回目
右足親指がパンパンに腫れ靴がきつい。織田先生に足が冷えていると注意を受けました。私自身「冷えている」という感覚が判りませんでした。今まで暑がりで冬でも薄着でした。以前にも「冷え」を指摘されていたので、この日は意識して厚着をしていたつもりでしたが「もっとゆったりとした、空気の層を作るような服装をしなさい。靴下を2枚、3枚重ねていても逆に締め付けているだけ。レッグウォーマーで体温調節するとか工夫して!」と教えていただきました。頭では寒いと感じていなくても、ひざや足首は知らず知らずのうちに冷え切ってしまっていたのです。
2004年12月9日
目にわかる変化
右手小指付け根が赤くて押すと痛みがあったのが、お灸の甲斐あってか痛みが取れてきました。その代わり中指が一日中痛くなりました。ただのこわばりではなく突き指のような重い痛さで何もかも作業しづらい…
2004年12月10日
突き指のような痛みがあった右手指はとうとう腫れて動かせなくなる。左手と右手を何回も見比べる。どう見ても右手のほうが腫れているし横から見比べても厚みが違う!!主人は休日で子供二人もまだ寝ていました。早朝でしたが布団の中で「早くお灸したい!」と初めて思いました。この日まで毎日欠かさずにいたお灸ですが、「今すぐにでもしたい!」と思ったのはこの時が最初です。寒くて両手の朝のこわばりはきついし利き手の右手に「もぐさ」を置いていくのは大変な作業でした。でもお灸のおかげで小指の痛みが取れたのが励みになっていたのかもしれません。「絶対腫れはひく」という確信がありました。
2004年12月11日
右手中指付け根の腫れはひいていました。痛みはまだありましたが一安心。と思いきや左足親指の付け根がまた腫れて痛い。この場所が腫れるのは久しぶりでした。(リバウンドが始まっているのかな?)
2004年12月13日
手のこわばり昼までに無くなる。
次の日も手のこわばりは昼までに取れ、そのかわりに鼻づまりが始まりました。
2004年12月21日
3歳の上の子と歩いて片道10分程(この時の私の歩みでは30分以上かかる)のスーパーへ散歩を兼ね買い物へ。(こんなに長い距離を歩けたなんて…)とても嬉しかった。
2004年12月23日
左足かかとが痛む。右足と比べると少し腫れていました。
2004年12月28日
松本漢方クリニック6回目
血液検査(3回目)の結果CRP、RF、マトリックスメタロプロティナーゼ3ともに下がっていました。まだ基準値より上だけれど飛び上がるほど嬉しい。右手の甲にブツブツとアトピーが出てきたので手入れ方法を教えてもらいました。看護士の下口さんに「良かったね」と言われ私の体は良くなっていると実感。でもまだ油断できない。
2004年12月末
子供の写真を撮るとき無意識にしゃがんでいました。自分でもびっくりしてもう一度ゆっくりと屈伸してみました。右ひざが曲がったのは一年ぶり位。一生曲がらないかもと考えていた事もあったので本当に嬉しかった…(やったー!!)
お灸は習慣になりました。お灸をしなければ絶対に治らない…松本先生が「織田先生に褒められる位やったらいい」と、おっしゃっていましたので、私も「褒められる」所を目指しました。織田先生はよく観察されています。よくやった時には「頑張ってるね」「エライ!」と声をかけてくださいますが、そうでない時は何もおっしゃいません。もぐさの無くなり方があまりに遅くて織田先生にショックを与えてしまったこともあります。最初はもぐさを細くキリキリと巻いていました。それを燃やすと刺すように痛く、一時お灸が嫌になったこともあります。灸をすえる範囲が狭かったこともあり「もぐさ」がいっこうに減りませんでした。しばらくして主人が「ふわっと巻いてふわっと置く」ことを漢方の薬屋で聞いてきて知りました。なんとなく刺すような熱さが和らぐようでした。2005年もお灸からのスタートです。
2005年1月11日
試しに自転車で近くの郵便局へ。
ひざの違和感も無く普通にペダルをこげました。5ヶ月前までは日常生活さえ苦しかったのに、いま自転車に乗っている!!信じられますか?
2005年1月14日
松本漢方クリニック7回目
私の診察中、ある患者さんの電話での診察が終わろうとした頃、先生は私に受話器を握らせました。数多くいらっしゃる患者さんの中でも先生の印象に残っている方で、私よりも症状の重い方だったそうです。声の主は明るい話し方で若い女性のようでした。「私も最初は大変だったけど今は良くなってるからあなたも頑張ってください」といった内容でした。やさしく励まされて、お礼を言うにも涙がこみ上げてきて「ありがとうございました」と言うのが精一杯でした。そばに居た主人ももらい泣きしていました。多分1分も経っていない短い間でしたが先生は涙を拭くためのティッシュを私と主人に下さいました。同じ患者の立場でありながら励まして下さったことが単純に嬉しく私も同じ様に必ず良くなるという思いを新たにした出来事でした。この様な場面を与えて下さった松本先生は私達にとって恩師の様な温かい人なのだと感じた日でもあります。松本先生、ありがとうございました。
2005年1月下旬
右手甲のアトピーがひどくなり、リンパ液が常に出ている状態で表皮がなくなり、腫れ上がり、かゆいというよりも痛さが上回っていました。ネオヨジンはしみるし、薬湯でもヒリヒリするし、赤い薬を塗る時も上滑りするようでした。服やコートの袖口にリンパ液が付着するので外出するときだけガーゼで覆っていました。左手薬指と肘にもアトピーが出ていました。4回目の血液検査の結果、RF以外基準値に下がっていたのでびっくりしました。(先生は「当たり前や」とおっしゃいます)。体調は良く子供と一緒に近くの公園へ主人の休みの日に出掛けました。リウマチになってから公園で子供を遊ばせてあげる事が無くなっていました。自分の事で精一杯で心身ともに余裕がありませんでした。でもこの日はまた驚くことに、大きな滑り台を下から駆け上がることが出来たのです。何となく「行けそう」と思っただけで無理はしていません。まさかリウマチ患者だとは誰も思わないでしょう。病気でない人より元気です。
2005年2月はじめ
お灸は1時間で400個ぐらい出来る様になりました。数を数えているとキリの良い所までやりたくなりますが子供が起きてきたら終了です。主人も背中の分を手伝ってくれました。アトピーが治ってきたなと思えばまたリンパ液が出てくるという繰り返しです。一晩でどす黒い薄皮が出来て、朝ぺらぺらとはがすのが面白くもあり…私の体が頑張ってくれているのを感じたりもしました。
2005年2月8日
松本漢方クリニック9回目
織田先生に初めて「冷えてない!!」と褒めてもらいました。寒い時期、内からも外からも暖めなければ。
2005年2月23日
松本漢方クリニック10回目
今日も織田先生に「冷えてない!」と褒められました。5回目の血液検査の結果、リウマチに関する血沈、CRP、RF、プロティナーゼが基準値内に下がっていました。でも手放しで喜べません。結果は2週間前の状態であって今はアトピーが消えてきているせいか朝のこわばりを感じるのです。気のせいかもしれませんが…
2005年3月はじめ
下鴨病院の医者に言われたことを思い出しました。「リウマチの人は、刺繍などはやめたほうがいい…」物を作るのが大好きな私にはショックでした。でも、それも仕方ないとあきらめていた自分がいました。それが今や長女が幼稚園で使う袋類をミシンで作ることが出来ているのです。手先を使う細かい作業も問題ありません。やりたいことが出来る。最高です。
2005年3月8日
松本漢方クリニック11回目
今日も織田先生は「冷えてない」と喜んで下さいました。
松本先生「痛いところは?」
私「痛いところはありません」
毎日入っていた薬湯が「2日に1回で良い」と減らされました。1日3杯飲んでいたプロテインも1杯に減りました!!嬉しいです。
血沈4 CRP・RFとも基準値内
IgE86(初診時239)
「手記書き始めて」と言われました。
2005年4月
幼稚園の入園式
右手甲のアトピーはまだ見苦しい状態でしたが表皮が現れてきました。ピリピリしていたのがましになりましたが、かゆくて眠れない日もある。
2005年5月
右手甲は「手荒れ」の様な状態。人前では気になります。
2005年6月29日
松本漢方クリニック19回目
入浴剤週2回分に減る!!持ち帰る漢方薬の袋がずいぶん軽くなりました。
2005年夏
右手甲のアトピーは黒ずみに変わりました。左右の指の何本かは、まだ切れたり硬くなったりして膨張しておりかゆい時は一心不乱にかきます。つめを思い切り短くしてもかいた後は赤黒いもの(赤い塗り薬と皮)が爪に残ります。現在も手指のアトピーは同じ場所に繰り返し出ています。そのおかげでリウマチの痛みはありません。
リウマチを不治の病と知ってからは毎日のように泣いて過ごしていました。子供とたわむれていてもふと涙が出てしまったり、軽いうつ状態になっていました。将来を悲観して、いっそ死ねたらとまで思いつめました。リウマチのことをもっと知りたくて主人とリウマチ友の会の集会に一度だけ出席した事がありますが、その内容は悲惨でした。最新の手術を紹介したり、質問コーナーでは、菌が付着して人工関節を何度も出し入れしているという人がいたり、寝たきりの姉の代わりに来たという人がいたり、真剣に質問されていても周りでクスクスと笑いがもれたり、みんなで仲良くリウマチと付き合っていきましょうという空気で、私と主人は場違いなところに来てしまった感じでした。悲しい替え歌まであり惨めな気持ちになり、また涙が流れるのでした。
アパート2階からごみ収集所までかなり遠く、ごみ出しの距離を歩くのが辛いときがありました。松本漢方クリニックにお世話になりはじめた頃でいつ来るか分からないリバウンドの事もあり主人が市の土木事務所に電話してアパートの前でごみを集めてくれるように頼んでくれました。土木事務所の所長はその願いを快く受け入れて下さいました。しんどくても家事全般をこなしたかったので、ありがたいことでした。
それに主人はリウマチのことを私以上によく勉強してくれていました。主人が支えてくれなければ今の健康な私は居なかったでしょう。どの病院にも一緒に行き診察を受け最終的には松本漢方クリニックを探し当て、治療法は薬を飲み続けるほかは無いとあきらめていた私を強引に連れて行ってくれました。その一生懸命さに本当に感謝しています。ありがとう。
長女の通園が始まり松本漢方クリニックへ出向いている間は幼稚園の送迎バスを出迎えるのが無理でした。代わりに迎えにいって預かって下さった主人の両親、時に奈良から出てきて出迎えと世話を引き受けてくれた母。私のリウマチ治療に、家族の理解があったことを幸せに思っています。ご心配をおかけしてすみません。そして心よりありがとうございました。
私は幸運にも松本先生に出会うことができ、わずか一年も経たない内にリウマチの痛みから解放されました。しかしそれは、松本先生が権力にとらわれない自由な発想で研究された努力の上に成り立つものです。今も勉強し続けられている姿勢には頭が下がります。
偽りの多い世の中で先生は一人輝いて見えます。嘘の無い素直な子供の様でもあります。うわべだけの優しさではない奥深いものを、私達は先生からいただいた気がします。患者として少し賢くなったとまでは言えませんが自分の体を大切に思うようになりました。
命の恩人であるといっても言い過ぎではない松本先生。ご自身のお体も大切になさって下さい。ノーベル賞は突き返さないでもらって下さい。あらゆる迫害に負けないで下さい。改めて心より感謝申し上げます。本当にありがとうございました。