「リウマチ・・・でも今は幸せです!!」
34歳2005年11月19日
34歳2005年11月19日
はじめに、松本先生、織田先生、スタッフのみなさん本当にありがとうございした。痛みが激しく、一日中寝ていた頃は、先が見えず、果てしなく感じた闘病生活でしたが、いつの間にか元気に動き回っている自分がいて、こうして手記が書ける日がついにやって来ました!!何だか不思議です!!完治までは、もう暫く時間が必要ですが、今は何も怖がらずにやりたい事ができ、一瞬一瞬が幸せでたまりません。もう出来ないと諦めていたキャンプやスノーボードに再挑戦し、ずっとやりたかった乗馬もやってみたいと思います。
この手記が、まだ松本漢方クリニックへ来院されず迷われている方への何かのきっかけになる事や、松本先生の根本療法でリウマチと闘い中の方への励みになればと思います。発病から現状まで出来るだけ詳しく書きたいと思いますので、ダラダラと長く下手な文章ですがお許し下さい。
【リウマチ診断後、服用した薬】
プレドニン錠(ステロイド) 5mg×0.5~2錠/1日
(合計1,300mg)
アザルフィジン錠(抗リウマチ薬) 1錠/1日 × 10日
ロキソニン錠(鎮痛剤) 3回/1日 × 6ヶ月
サイトテック錠(胃腸薬) 3回/1日 × 6ヶ月
胎盤注射(プラセンタ) 7回
リウマチ発病まで(2002年1月まで)
私は昔から薬が大好きでした。会社に勤めるまでは多くは服用してなかったのですが、仕事が忙しく休みも取りにくい職場だったので、風邪をひくと風邪薬、お腹痛には正露丸、生理痛には鎮痛剤といった感じで「お薬を飲むと楽になるわ~♪」なんてサプリメント感覚で何の躊躇もなく服用していました。
1998年からは、温度変化による鼻炎になり、鼻炎の症状が出ると我慢することなく薬を飲んで過ごしており、特にクーラーが入る時期は、鼻炎薬を週に3回ほど服用していた時もありました。
2001年頃に鼻炎はいつの間にか治まり、治まった頃に、今度は偏頭痛に悩まされ、これはだんだんと酷くなっていき、リウマチ発病の1年前には2~3日に1回は頭痛薬を服用していました。恐ろしいほどの薬漬け状態で、化粧ポーチ、会社の机の引き出し、全てのカバンにもどんな症状にも対応できるように薬を整えていました。今でもたまにカバンの中から薬が出てくるので、汚い物を見つけたかのように慌ててゴミ箱に捨てています。
リウマチ発病の兆候 (2003年2月~5月)
【2003年2月】
急に38度の高熱が出たので、会社を休みました。二日後ようやく熱が下がったのですが、同時に手の甲に赤い発疹が出て、両手首に痛み(高熱の際に関節が痛くなるような痛み)がありました。かかり付けの診療所で診てもらうと、「風疹かもしれないので、総合病院で検査して下さい」と言われ、家の近くにあるK病院で検査をしました。受付で「風疹かもしれないです。」と言うと、小児科へ回されました。結果は風疹ではなかったのです、先生によると、「原因、病名がわからないので、無理やり病名をつけると“ウイルス性発疹”かな・・・」と言うことになりました。「何だかいい加減だなぁ・・・」と思いながらも、病院の先生がおっしゃる事だったので、なんとなく信じてしまいました。
4~5日後には、発疹も両手首の痛みもマシになったので、その週末はスノーボードにも行っていました。
その日以降3月~5月は毎月1回必ず風邪を引くようになり、5月は発疹と両手首の痛みが再発し、自分でも「体がおかしい。普通じゃない。」と思い始めていました。
【2003年6月】
突然両膝が痛み始め、歩くとコキコキとなっている感じがしたので、この症状を母に話すと、「リウマチじゃないの?」と不安そうに言われました。と言うのも、私の祖母は、私が小学校1年生の時にリウマチを患い、62歳で亡くなってしまいました。色んな治療を試したようなのですが、結局どれも効果がなく、私が物心ついた頃には寝たきりの状態になっていました。そんな理由もあって、私の両親は、特にリウマチには敏感になっていたようです。
母の心配もあり、翌日に再び“ウイルス性発疹”と診断されたK病院へ行きました。今度は整形外科に回され、担当の先生に、「リウマチではありませんか?」と尋ねると、「最近はリウマチと言っても、年寄りがなる関節痛でもリウマチと言うからな・・・」とよくわからない事を言われ、その日は採血をして帰りました。その頃から、何をしても気だるく、また全身に赤くみみず腫れのよう発疹が出始めました。
検査の結果は、「膠原病かもしれません。この病院では診ることが出来ないので、他の病院を紹介します。もしくは、今日、外来の小児科の先生で、この病気を診れる先生がいるので、診てもらいますか?」という事でした。私はこれ以上会社を休む事ができないと思い、取り敢えず、その外来の先生に診てもらう事にしました。
小児科へ行き、診察室に入ると、あの“ウイルス性発疹”と診断した先生がいらっしゃいました。事情を話すと、今回の検査結果ではまだはっきりとはわからず、再び採血をし、全身の赤いみみず腫れの発疹には錠剤をもらい、その日は帰りました。
その時は、“膠原病”とは聞いた事もなく、どんな病気とも知らず、病院帰りに母へ電話し、「リウマチではなかったけど、膠原病の疑いがあるんだって!!取り敢えずリウマチじゃなくて良かったわ~」母は、「でも膠原病も大変な病気らしいよ。でもリウマチじゃなくて、良かったね」と・・・。後で思うと、何ともマヌケな会話を二人でしていました。それにしても、最初から「リウマチではないか?」と疑って病院に行っていたのだから、病院の先生も「膠原病=リウマチ」と教えて下さっても良かったと思うのですが・・・。
再検査の結果(CRP : 1.0 血沈 : 20)、やはり膠原病と診断。結局、この病院では診ることが出来ないので、他の病院を紹介されることになりました。紹介状は、整形外科の先生に書いてもらわないといけないので、再び整形外科に戻され、O国立大阪医学部附属病院(以後O大学病院)を紹介してもらいました。また紹介状といっしょにレントゲン写真が必要との事だったので、胸部のレントゲン写真を撮って帰りました。(後でわかったのですが、O大学病院が必要だったのは関節の写真だったようで、胸部の写真を渡すと、「こんなの必要ない。」とあっさり言われてしました。)
その時は、まだ医者の言う事、病院が言う事が一番だったので、そんなに不信には思わなかったのですが、今思うと、病院内をたらいに回され、患者の擦り付け合いをし、「この病院は、一体なんだったの?」と疑問に思ってしまいます。
この頃は、あちこちの指の関節が腫れ痛みだし、膝も益々痛くて、びっこを引きながら歩いていましたが、関節の痛みはまだ我慢する事ができました。とにかく体が怠く、しんどく、会社に行くのもやっとの思いで行っていました。鎮痛剤のバファリンを飲むと楽になったので、毎日3回服用し、何とかごまかしながら、その日その日を過ごしていました。
リウマチ診断後~松本漢方クリニックに辿り着くまで
<その1> O大学病院 (2003年6月~2004年1月)
【2003年6月】
O大学病院初診。この日は採血と関節のレントゲンを撮ってかえりました。“膠原病”の事はすでにインターネットで調査済みでした。治療方法は、ステロイドや抗リウマチ薬を飲み続け、病気と上手に付き合っていく。症状が酷い場合は、入院も必要など・・・。でもまだ膠原病=リウマチとは知りませんでした。どのHPにも、ステロイドを飲むと楽になり、痛みがなくなると書いてあったので、「とにかく早くステロイドが飲みたい!!」と思っていました。(今、考えると、恐ろしく、ありえない事なのですが・・・。松本先生の「アホかぁ!!」との怒鳴り声が聞こえてきそうです。)
検査結果を聞きに、O大学病院へ(CRP : 2.2 血沈 : ―)。「自己免疫疾患で、リウマチの疑いはあるが、判断はできない。」と診断され、しばらく薬を飲んで様子をみる事になりました。
ブレドニン(5mg×2錠/1日)
ロキソニン錠(3回/1日 )
サイトテック錠(3回/1日)
待ちに待ったステロイド!!病院から帰り、すぐにブレドニンを飲みました。あれだけ痛く辛い日々だったのが、2時間後には、何事もなかったかのように痛みが消え、もと通りの生活に戻っていました。毎日飲むたびに、益々元気になり、「病気が治った?」とまで思ったほどでした。(ホント麻薬のような薬ですね。)この時は本当に無知で、医者を疑うことなく信じ、ステロイドの恐ろしさなど深く考えてもいませんでした。友達から「ステロイドは、怖い薬よ。」と聞いた事もありましたが、治療方法はステロイドの投与しかないし、「医者が怖い薬を処方する訳ない!!」と思っていました。本やインターネットで調べても「副作用があり、急にやめると命に係わり危ないが、医者の指示どおりに服用すれば大丈夫。」など書いてあったので、「先生の指示に従えば、心配する事なんてないんだわ。」なんて軽く考えていました。これがステロイド漬けの始まりで、第一の悪夢の始まりなのです・・・。
【2003年8月】 (CRP :1.5 血沈 : ―)
O大学病院へ、定期検診。あれから指の腫れは少しあるものの、特に痛みはなかったので、ブレドニンを1日2錠→1.5錠に減らし、新たに抗リウマチ薬のアザルフィジンを処方されました。副作用の注意はなく、ただ薬が効き始める時期が2週間くらい後になるとの事でした。
それから1週間後、夏休みに2泊3日の旅行に行きました。2日目の朝に、急に寒く、ガタガタとふるえるほどの高熱が出たので、鎮痛剤のロキソニンを飲むと、熱が下がりました。少し怠さは残っていましたが、観光ができるぐらいまで回復しました。
その状態が、2目の夜、3日目の朝にも繰り返しあったのですが、特に気にもせず、「風邪をひいたのかな?」と思いながら過ごしていました。帰宅後も高熱が出て、顔が浮腫み始めたのですが、まだ病院は夏休み中だったので、翌日まで行けず、薬の副作用かもしれないと思い、ブレドニン以外の薬をやめてみました。
翌日、熱は下がったものの、今度は全身激しい痒みに襲われ、急いでO大学病院に駆け込みました。結果はアザルフィジンにようるアレルギー反応だったので、アザルフィジンの服用はやめる事となりました。血小板の数値が低く、肝臓の数値が何倍も高くなっていたようです。(と言っても、数値が高い低いと言われても、意味がよくわかりませんでしたが・・・)
この出来事から、やっと医者と薬を疑うようになりました。リウマチになると、担当の医師と長いお付き合いをしてく事になりそうなので、信頼関係を築いていきたいと思っていたのですが、医師との距離は縮まらず、益々広がるばかり・・・。今回の出来事だけでなく、以前から、病気の事を聞いてもモゴモゴと何を言っているのかわからないし、説明もあまりしてもらえないし、「治りますか?」と尋ねても、「まだ初期だからね・・・まぁ大丈夫でしょう。」と、何だか適当にごまかされているような感じでした。薬も長期間飲み続ける事になりそうだったので、本やインターネットで、ステロイドがどうして悪く言われるのか調べてみました。これも調べれば調べるほど不安になるばかりでした。
【2003年9月】 (CRP :0.2 血沈 : ―)
O大学病院へ定期検診。体調は至って順調。(ステロイドで抑えていたから、当たり前なのですが・・・)ブレドニンが1日1.5錠→1錠に減る。
この頃、やっとステロイドを服用する事に恐怖心を持つようになり、「早く減らしたい。」「早く絶ちたい。」と思っていましたが、ステロイド以外の薬でリウマチを治療する薬がなかったので、仕方なく飲み続けていました。
そんなとき、本屋である本を見つけ、『刺絡療法』を知りました。注射針やミシン針くらいの針を軽くツボに刺し、免疫力を高める治療方法で、「ステロイドを服用せずに、リウマチが治る」と書いていました。脱ステロイド願望の私にとって、夢のような治療法でした。「ステロイドを止められる!!リウマチが治る!!」と思い、急いでインターネットで『刺絡療法』をしている病院を検索し、比叡山にあるK内科を見つけました。早速電話をかけ、病状を話し、ステロイドを止めさせてもらえるか尋ねると、ステロイドに対し否定的な考えを持ち、またステロイドを止めさせることができるとの事だったので、すぐに予約を取りました。
<その2> K内科(2003年10月~2004年1月)
【2003年10月】
K内科、初診。自宅からK内科まで、車で高速道路を乗り継いで約1時間半。思っていたよりも小さな診療所でした。『刺絡療法』は、癌、リウマチ、アトピーなど一般的に難病と言われている病気に効果があるらしく、色んな症状の患者さんが来られていました。K内科は、『刺絡療法』と漢方薬治療を併用し、月に1度、中国人の先生が来られ漢方薬の処方をされていて、ちょうどこの日も来られていました。
診察室に入ると、先生が二人いらっしゃり、二人の先生から問診がありました。ここでも「治りますか?」と尋ねると、二人とも「う~ん。たぶん治るでしょう。」と、また“たぶん”・・・。「ステロイドを止めるのは、漢方薬が効き始めるまで、暫く飲み続けないといけない。」との事だったので、先生の指示があるまで、ステロイド1錠を飲み続ける事にしました。二人とも優しそうで、話もO大学病院よりは聞いてもらえたので、K内科の先生を信じて病気と闘おうと思いました。ただ、K内科はO大学病院と比べると規模もかなり小さく、『刺絡療法』も、本当にリウマチが治るか不安だったので、O大学病院の検診を止めることができなかったので、K内科とO大学病院と同時に通院することにしました。
『刺絡療法』は、注射針でツボ(主に手足の爪の両側)にツンツンと刺し、刺すたびに血も少しずつ出て、毎回「痛いっ!痛いっ!」と言いながら治療を受けていました。これは、最後まで慣れることが出来ませんでした。また漢方薬は、煎じ料を払えばこの病院で煎じてもらう事ができ、保険がきく範囲内の処方だったので、料金も2週間分で4000円とかなり安かったです。この病院で処方された漢方薬は何とも苦まずく、毎回鼻をつまみながら飲んでいました。この日から3カ月半、早く治りたいという思いで、毎週土曜日に、父に兵庫県から滋賀県まで車で送ってもらい、通院する事になりました。
しかし1ヶ月経っても、『刺絡療法』で何の効果もなく(良くも悪くもならず)、また先生からステロイドを減らす指示が一向になかったので、11月に入り、自分からお願いして、やっと1錠→0.5錠に減らす事ができました。減らし始めると、やはりリバウンドが始まり、ジワジワとあちこちの関節が痛み始めました。先生に痛みを訴えると、「痛みに効くあらゆるお薬を処方しました。」とか、「漢方薬で新しい錠剤の薬を作ったので、無料で差し上げます。試しに飲んでみて下さい。」など色んな処置をして下さったので、その時は「なんで善良的な先生なの!!」と感動していました。今思えば、この先生は、リウマチの事なんて何もわかっておらず、手探り状態だったのだと思います。
この頃にインターネットで松本漢方クリニックのHPを見つけたのですが、K内科の治療を始めたばかりで、同じ漢方薬治療と鍼治療(刺絡療法)だったので、かなり気にはなっていたのですが、取り敢えずK内科の治療に専念することにしました。
リバウンドは益々酷くなり、12月に入ると、びっこを引きながら歩くようになりました。先生からの進めもあり、『胎盤注射(プランセタン)治療』を受ける事になりました。“胎盤”=血液製剤という事もあり、始めはかなり抵抗があって暫くは拒んでいたのですが、先生から、他のリウマチの患者さんが『胎盤注射』をして、リウマチが良くなっている話を伺ったり、以前に姉が飲んでいたサプリメントに胎盤エキスが入っていたのを思い出し、少しずつ興味を持ち始めました。また本やインターネットで『胎盤注射』の事を調べ、自分なりに納得する事が出来たので、治療を受ける事にしました。また治療費の面で悩んでいると、「胎盤注射は、半額にしておきます。」と言って下さり、またまた感動していたバカな私でした。これが第2の悪夢の始まりでした・・・。
しかし1ヶ月が過ぎ、年が明け、1月に入っても、どの治療も何の効果もなく、痛みはどんどん増すばかりでした。さすがに先生も慌て始めた様子で、「痛みが激しくなると、変形が始まるので、ステロイドを増やしましょう。」と、0.5錠まで減ったステロイドを、2~3錠まで増やすように指示されてしまいました。せっかく減ったステロイドが、また増えてしまうので、悩みました。両親も、「変形が始まるのだったら、すぐに飲みなさい。」「色々調べてみたけど、ステロイは、そんなに悪い薬ではないよ。」など言われ、とうとうステロイドを2錠まで増やしてしまいました。
しかしステロイドを増やしたのと同時に、ステロイドを飲む事に対する罪悪感と、K内科に対して不信感を、一気に抱くようになりました。「ステロイドを止めたいと思い、K内科を信じて治療していたのに、これでは、なかなかステロイドが減らせない・・・。減らせたとしても、もまた痛くなったらステロイドを飲み、そんなことの繰り返しになるんじゃないか?」と思いました。そして以前から気になっていた松本漢方クリニックの事を思い出し、再びHPを探し、たくさんの患者の方の手記を読みました。同じ症状、苦しみ、色んな事が自分と重なりあって、自然と涙がでて、泣きながら全ての手記を読みました。松本先生のビッシリと書かれた理論には圧倒されましたが、誰でもわかり易く書かれていました。今まで病院と医者を信じ過ぎたので、今度は、「HPにある手記なんて、病院のスタッフが作りだした話じゃないか・・・」と疑ってかかりました(松本先生、スミマセン・・・)。でも松本先生の理論は何か説得力がある。松本先生の理論は1度しか読んでいなかったのですが、手記からリバウンドとの闘いが大変だという事と、松本先生はかなり怖く、また変わった先生という事はわかりました。(またまたスミマセン!)それからステロイドを服用した量が多すぎると、治療できないと書かれていたので、すぐに自分が飲んだステロイドの量を計算し、約1,300mgだったので、今ならまだ間に合うと思い、両親に松本漢方クリニックの事を相談しました。両親はまだK内科の事を全く不信に思っていなかったので、「もう少し続けたら?」とも言われましたが、取り敢えず松本漢方クリニックが信用できるまで、K内科とO大学病院(毎月1回まだ続けて通院していました)の3ヶ所を同時に通院する事にしました。
松本漢方クリニックから現状まで(2004年1月~2005年11月現在)
【2004年1月】 (CRP : 8.3 血沈 : 69)
K内科を信用できなくなった2日後、ステロイドを2錠に増やしたこともあって、出来るだけ早く松本漢方クリニックに行った方が良いと思い、平日だったのですが、会社を休み、母について来てもらって松本漢方クリニックに行きました。手記どおり、小さな病院で、ドアを開けると漢方薬のにおいが漂ってきました。待合室に入ると、これもまた手記どおりで、平日にもかかわらず、たくさんの人・人・人・・・だらけでした。
待合室で待っていると、診察室の方から、大きな声で何か早口でしゃべる声が聞こえてきました。そんな声を聞きながら、「どんな先生なんだろう・・・」と、ドキドキしながら待っていました。手記には、松本先生の事を「怖い」「変わっている」「優しい」「信頼できる」「今までにない」「ちょびヒゲ」など、色んな表現で書かれていたので、一体どれが本当なのかわかりませんでした。また母には松本先生がどんな先生か話していなかったので、松本先生に圧倒されて、引いてしまうのではないか?と少し心配していました。
1時間半ほど経ち、やっと名前が呼ばれました。初対面の松本先生は、本当に手記どおりでした。でも怖くはありませんでした。初診、1時間にも及ぶ長い診察でした。途中、患者さんから電話が何度も入り、松本先生はお茶をガブガブ飲み、何度もお茶のおかわりやおトイレに席を立たれ、鼻をかみゴミ箱に”ポイッ”と投げ捨てたりして、何とも騒々しい診察でした。でもそれが何だかおかしくて、初めは緊張していたのですが、最後の方は、今までとは違う何だか医者らしくない先生が好きになっていました。心配していた母も、診察の途中で、急に「私、そんな先生が好きです!!」と大激白!!私は母にびっくりでした!! 最後は握手で、診察終了。「これが噂の握手なんだわ・・・」と思いながら、診察室を出て行きました。
診察後、鍼灸室に呼ばれ、織田先生に鍼をして貰い、自宅でのお灸の仕方を教えて頂きました。最初は、織田先生には、私が松本先生の治療を甘く考えている事を指摘され、とても厳しい事を言われました。2回目以降はとても優しく、色んな事で慰めてもらい、自分の事のように親身に考え、また泣き言を言うと、ピシッと叱って貰えました。今も昔も私の心のオアシスです!!(でもお灸に関しては、いつまでも厳しい一言が飛んできますけど・・・。)
松本漢方クリニックに通いだして間もない頃、痛みが増し、着替えもできなくなり、身の回りの世話を母にしてもらうようになりました。私は、母に、赤ちゃんのように世話をしてもらう事に抵抗があり、戸惑いを感じていました。鍼をしてもらいながら、その話を何気なく織田先生に話していると、「何言ってるの!!親なんだから、甘えたらいいのよ!!」と言って頂き、何か胸の中でモヤモヤとしていたものが、“スーッ”と一気に消え去りました。きっと織田先生は覚えてられてないと思うのですが、私にとっては、この言葉がきっかけで、母に対して、安心して心も体も許せる事ができ、治療に専念できるようになしました。本当に感謝しています。
病院の帰り、母が松本先生に言った「先生が好きです!!」発言がお世辞で言ったのか聞いてみると、お世辞ではなく、本心からでた発言だったようで、変わった先生だけど、正直に患者に接する姿に感動したようです。病院を出た瞬間、母と私は松本先生を信じて治療していこうと意見が一致し、K内科とO大学病院の通院を止めることを決めました。
この日以降から2005年3月末まで、毎週欠かさず松本漢方クリニックに通いました。松本先生からは毎週とは言われてないのですが、リバウンドがきつく、不安もあり、松本先生と織田先生と会って、話す事により、安心することができたので、父の協力もあって毎週通う事にしました。現在は、やっと先生離れができ、通院は月1回となりました。
自宅に帰り、漢方薬、漢方風呂、お灸治療の開始です。とは言っても、私はステロイドを飲んでいたので、まずはステロイド止める作業をしなければいけませんでした。漢方薬は、K内科でもらっていた味と全く違う味で、甘みがあって、美味しく飲むことができました。最初は水分を多く取ることに慣れなかったので、2番煎じまでしか飲む事ができなかったのですが、次第に体が要求するのか、いつの間にか3~4番煎じまで飲むようになっていました。なので、漢方薬、漢方風呂は、何の苦痛もなくできました。
ですが、何と言っても、お灸が辛くて辛くてたまりませんでした。最初はステロイドを飲んでいたので、痛みはあっても、少し我慢したらそれなりに生活ができたので、お灸をほとんどしていませんでした。でもお灸パワーは本当にすごいのですよ!!
ステロイドは、1週間に0.5錠ずつ減らしていき、脱ステロイドまで1ヶ月かかりました。私の考えが甘く、リバウンドがある事はわかっていましたが、ここまで酷くなるとは思っていなかったので、会社を休む事など全く考えていませんでした。ステロイドを減らす度に痛む関節が増え、益々痛くなりました。お灸をすると痛みが和らいだので、あれだけ嫌だったお灸も、会社から帰るとすぐに、翌日の仕事のために少量ながらも頑張ってお灸をしました。
半月経った2月中旬には、1時間半かかる電車通勤に耐えられなくなり、父の会社と私の会社が近かかったこともあり、父の会社の近くに駐車場を借り、父といっしょに車で通勤する事にしました。
痛みが増してきたので、松本先生から、「プロテインを毎日10杯飲むように」言われました。プロテインは、漢方薬よりも不味く、松本先生は「不味い漢方薬に混ぜていっしょに飲んだらいい。」と言われましたが、私は漢方薬を美味しく飲んでいましたので、毎朝飲むコーヒー牛乳にプロテインを10杯入れて飲む事にしました。
【2004年2月】 (CRP : 6.5 血沈 : 60)
ステロイドがゼロになりました。すでに漢方薬やお灸治療はしていましたが、やっと松本先生の治療の土俵にあがれる事ができました。でも同時にどんどん痛みが酷くなり、職場でもペンのキャップを開ける事もできなくなりました。コピー用紙を1枚もつだけでも痛く、イスから立ちあがるにも、痛くてなかなか立てなくなり、毎日毎日泣く思いで必死に仕事をしていました。誰が見ても痛々しそうに見えたのでしょう。とうとう見かねた社長から、「一度、長期的に会社を休んだらどうか?」と言われ、それまで張りつめていたものがガタガタと崩れ落ちるように気が抜け、「あぁ~、これで楽になれるんだわ。」とホッした思いになりました。
3月8日から、会社を休職する事になりました。織田先生からは、「ここの治療は、そんなに甘いものではない!!」と常に厳しく言われていましたので、休職の報告をすると、「これからは治療に専念できるね。」と、心から喜んで頂きました。
それでも痛みは一向に軽くなる事はなく、反対に母に世話をしてもらう事が増える一方でした。ごはんを食べさせてもらい、着替えをさせてもらい、トイレの際はパンツの上げ下ろしをしてもらい、ベットやイスから立ち上がるのも、母に抱きかかえられ立ち上がっていました。
また痛みが一番激しい頃は、何故か毎晩トイレに2~3回起きるので、その度に母を起こして、ベットから立たせてもらい、パンツも下ろしてもらい、トイレに行きました。寝る時も痛くて、ミイラのように固まって真っ直ぐ仰向けになる事しかできず、肩や肘が痛いと言い、あちこちにタオルをひいてもらったりしたのですが、結局はどこにタオルをひいても同じで、寝るのも一苦労でした。掛け布団も軽い羽毛布団にしているにもかかわらず、綿布団を何枚も被っているかのように重く感じられました。今となっては、母と「寝る時は大変だったね。あれは何だったのかな・・・」と笑い話になっています。
【2004年3月】 (CRP : 4.8 血沈 : 44)
休職してから半月、痛みは変わらず、お灸している時以外は、1日中ベットで横になっている状態でした。でも何か違う気がする・・・。重い鎧を何枚も着ているような感じだったのが、一枚一枚、ゆっくりと剥がれていくような感覚でした。痛みは変わらないままだったのですが、何かが違う感じでした。
【2004年4月】 (CRP : 3.56 血沈 : 20)
GW前に、急に声がでなくなってしまいました。風邪を引いたようなシワ嗄れ声で、最初は「風邪かな?」と思っていたのですが、1~2週間経っても治らず、松本先生に相談すると、「一度、専門の病院で検査してもらって、それから診断してあげよう。薬を処方されても絶対に飲まないように!!」と言われました。リウマチの事では、「わしが治したる!!」と必ず言って貰えるのに、この時はその言葉がなかったので、とても不安でした。
すぐに市立病院に行って、検査をしましたが、ポリープもなく、結局原因がわかりませんでした。翌日、松本先生に電話し、結果報告をすると、「ポリープがなかったら、大丈夫や!!わしが治したる!!」と、やっといつもの言葉を言って下さり、お薬を処方してもらうと、1ヶ月後には声が出るようになりました。松本先生は「わしは、癌は治せないから、治せない事は治すと言わないんや。」と言いわれ、いい加減な事を絶対におっしゃらない松本先生を信じて良かったと再確認しました。またGWのため病院が暫く休診する際には、「何か困った事があれば、電話しておいで。」と、自宅の電話を教えて下さいました。
痛みは大きな変化はありませんが、ほんの少しずつ、些細な動作ができるようになり始めました。GWに、母がついに風邪を引いてダウンしてしまい、夜中にトイレで母を起こすのが可哀想だったので、自分でベットから立ち上がり、パンツを下ろし、トイレに行きました。痛みはあるものの、関節が少しずつ動くようになってきているようで、いつの間にか少しずつ良くなっている自分に気づき、嬉しくなりました。翌朝、母に、「昨日の夜は、自分でトイレに行けたよ。」と自慢すると、母も喜んでいました。またこの頃から、お風呂に入ると、足の甲が痒くなり始めました。「アトピーかな?」と思い、必死で掻いていました。
【2004年5月】 (CRP : 1.70 血沈 : 6)
アトピーが、足の甲から首まで全身、真っ赤になり、一気に広がってきました。痒くて痒くて、一日中掻いていました。掻いていると皮膚がポロポロと剥がれ落ち、お風呂でも湯船が皮膚だらけになり、不潔な自分が嫌でした。それでもアトピーの患者の方の手記のように痒くて眠れなかったり、皮膚から黄色い汁がでるような事はなく、ただただ痒くて掻く手を休める事なくひたすら掻いていました。
痛みはほとんど変わらないように思い、松本先生に、「アトピーが出てきたのに、どうしてまだ痛いのですか?」とよく尋ねていたのですが、今思えば、一番痛かった3~4月に比べると、かなり痛みが軽くなっていたと思います。ずーっと行きたかった松本漢方クリニックの下にあるミスタードーナツにも、やっと買いにいけるようになり、知らず知らずのうちに少しずつ動くようになっていたようです。常に痛みが伴っていたので、痛みが軽くなっている事に気づいていなかったんだと思います。
こうして手記を書きながら血液検査の数値を見ていると、一目瞭然に良くなっている事がわかるのですが、痛みと闘っている最中は、その日その日が大変だったので、気づくことができなかったのでしょうね・・・。
【2004年6月】 (CRP : 1.79 血沈 : 6)
体は少しずつ動くようになっていましたが、痛みも痒みもあまり変化がなく、治療も少しマンネリ化?していたようで、たまに不安に感じる事もあり、少し精神不安定ぎみになっていました。しかし週に1度は松本漢方クリニック通っていたので、松本先生に会うたびに「絶対に治したるからな!!」と言ってもらって元気をもらい、織田先生とは鍼をしてもらいながら爆笑トークをして、1週間をやり過ごしていました。
また病院に行く度に、必ず手記を読みあさり、自分の症状と比較したり、「私もいつかはこうなるんだ!!」と、完治する日を目指して励みにしていました。でも体が良くなり始めると、手記を読みあさる事はなくなってしました。外出するのは松本漢方クリニックに行くだけだったので、毎週松本先生と織田先生に会えるのを楽しみにしていました。また私は細かい作業が好きだったので、通信販売で手芸キットを買い、母に手伝ってもらいながら手芸作りに励んでいました。そうしていると、手芸に集中し、痒みを忘れる事ができたので、私にとっては痒み対策には非常に役立ったと思います。
【2004年7月】 (CRP : 2.11 血沈 : 7)
体は、ゆっくりゆっくり気づかないぐらいの早さで良くなっていました。両親からも、「だいぶ動けるようになったんじゃない?」とよく言われていましたが、私にはそうは思えなかったし、一喜一憂するのが嫌だったので、「軽はずみにそんな事言わないで!!」と怒っていました。
そんな頃、体毛と髪の毛が抜け始めました。髪の毛は、最初はそれほど気にはしていなかったのですが、毎日抜け落ち、抜ける量も普通ではない量で、朝起きると枕に何十本も落ちており、髪の毛を洗うたびにゴッソリと抜け、ドライヤーで乾かしていてもどんどん抜け落ちました。9月頃まで抜け毛は止まらず、首筋から順番に耳の辺り、頭の半分まで抜け落ちてしまい、頭半分ツルッパゲ状態になってしまいました。リウマチでの事よりも髪の毛の事の方が心配で憂鬱になっていたのですが、病院に行く度に、松本先生に「生えてきますよね?」と尋ねると、「生えてくる!!わしが治したる!!」と、いつもの言葉が飛んでくるので、その度に安心しながら帰って行きました。鬘を買うことも考えていたのですが、幸いにも耳から上の頭の上部は抜けなかったので、何とかごまかす事ができました。
また同じ頃、足首にスリ傷のような傷ができ、血がにじんでいました。「掻き過ぎたのかな?」と思ってバンドエイドを貼っていたのですが、なかなか治らずさらに傷口が広がり、膿が出てきました。直系1cmぐらいだった傷が2cmまで広がり、1~2ヶ月ほどしてやっと傷口が閉じるといった感じで、次々に膝まで傷が増え、大きい傷で直径5cm以上にもなりました。バンドエイドでは傷口が納まらず、ガーゼをして、包帯を巻いていました。包帯も、始めは2本ぐらいで足りていたのですが、傷口がふさがらず、さらに増えていったので、多い時は20本ほど必要でした。それを毎日洗濯しないといけなかったので、また母の仕事が増えてしまいました。お風呂に入る時に包帯を取るのですが、“そぉ~”と剥がしても、血と膿が包帯にくっついて、痛く、なかなか剥がれず、剥がれてもまた血が流れ出すの繰り返しで、傷口がふさぐ気配が一向にありませんでした。また傷口から包帯を通して血がポタポタと落ちたり、膿みの何とも言えない臭い匂いが漂ってくるので、嫌でした。その傷は翌年3月頃まで続きました。
【2004年8月】 (CRP : 1.30 血沈 : 6)
8月初旬に真っ赤だった皮膚が、急に赤みが引き始めました。そして痒くて一生懸命掻いていた部分は、赤ちゃんのような真っ白い肌になり、痒くならなかった顔と、痒くても手がとどかなかった部分は、アトピー前の古い日焼けした肌が残ってしまいました。白い肌と黒い肌の斑になり、キレイなのか汚いのかよくわからない肌になってしました。今思えば、顔にアトピーが出なくて喜んでいたけれど、顔にもアトピーがでて、全体的にしっかり斑なく掻けば良かったと後悔しています・・・。
またそれ以降も、腕、足、お腹、背中は痒みが治まらなかったので、ゴシゴシと掻いていると、最初は点々と黒いホクロのようなものができ、そのうちシミようなものが出始めました。シミとシミが結合して、その部分一体に広がり、真っ黒(こげ茶色?)になってしまいました。松本先生に尋ねると「これは見たことがないなぁ・・・」と言われ、とても不安になりました。最初は原因がわからず、松本先生も、「ステロイド以外に、他に薬を飲んでないか?」と何度か聞かれましたが、思いあたる薬はありませんでした。暫くして、K内科で治療した『胎盤注射』の事を思い出し、松本先生にK内科でした事を話すと、「これや!!こんな事してたんか!!胎盤はステロイドと同じや!!」と言われ、かなりショックを受けました。松本先生の理論に『ステロイド注射が一番治りにくい』と書いてあったので、私はステロイドを服用していましたが、ステロイド注射をしていなかったので、少しだけ安心していたのですが、「胎盤=ステロイド」であれば、ステロイド注射を7回もしていた事になるのです。それでも、原因がわかり、松本先生にも、やっと「治るから。わしが治したる!!」と言ってもらえるようになったので、安心する事ができました。
この事を織田先生に話すと、もう呆れられたように笑われてしまい、「これからどんどん反応が出るから、覚悟しておかないとダメよ。」と言われ、「それでも体は、24時間寝ないで、働いてるから、エライね。」「辛いけど、よく頑張ってるね。」、いつもいつも私を励まして下さいました。
この黒いシミと白い肌と黒い肌の斑は、今現在も残っています。毎日見ているので、変化があまりわからないのですが、以前と比べると、少し薄くなっているような気もします。新陳代謝で良くなっていくようなので、時間はかなりかかると思いますが、松本先生を信じて頑張っています。自分の肌を見ると愕然とし、人には見せれないほど醜く、気持ち悪い肌なので、夏でも長袖長スボンで過ごしています。温泉旅行に行っても、大浴場には誰もいない時に入ったり、露天風呂付き客室を選んだりと、常に人目を気にしないといけないのですが、それでもリウマチでほとんど寝たきり状態の時を思うと、今は本当に幸せでたまりません。
【2004年9月】 (CRP : 1.16 血沈 : 8)
痛みも痒みも少しずつ良くなってきている感じ。漢方薬も自分で煎じるようになっていたし、イスから立ち上がるのは、「よいしょ」と気合いを入れて立たないといけませんが、比較的簡単に立ち上がれるようになり、身の回りの事が少しできるようになっていきました。歩き方は、まだびっこを引きながら歩いていましたが、以前よりは早く歩けるようになっています。また生後9ヶ月の姪をやっと抱き上げる事ができ、それまでは少し離れた所から見ていただけなのであまりなついてくれなかったのですが、遊んであげられることもできるようになると、次第になついてくれるようになりました。毎日、一日中家に閉じこもり、全く変わらない生活を送っていたのですが、手芸作りをする楽しみがあったので、それなりに楽しく毎日を過ごしていました。
始めの頃は、会社に対しては、取り敢えず3ヶ月間の6月まで休職届けを提出していたので、思うように良くならなくて、「6月までに早く治さないと・・・」と勝手に期限を作り、一人で焦っていました。9月に、さらに3ヶ月間延長する事になったのですが、この時は覚悟を決め、「自分の体の方が大事だから、もう会社なんて辞めさせられてもいい。とにかく完治を目指そう!!」と思えるようになりました。そう思えると、精神的に楽になり、それまでは「治らない。まだ治らない。」と思ってばかりいたのですが、冷静に自分の体と向き合えるようになって、体の変化もわかるようになりました。
【2004年10月】 (CRP : 1.34 血沈 : 8)
相変わらず、気づかない早さで、ゆっくりゆっくり、着々と良くなっている感じです。
車で、母と姉と姪でショッピングモールに行きました。7ヶ月ぶりの病院以外の外出でした。いつもと違う空気、景色、目に映る物すべて輝いて見え、やる事すべてに感動していました。まだ歩き方はぎこちなかったのですが、旧式のロボットから、よくCMで見かける人間型ロボットぐらいまでスムーズに歩けるようになりました。階段もゆっくりですが、左右の足交互に上り下りできるようになりました。それでもイスを見つけては休み、座れそうな場所があれば休みと、休んでばかりしていました。疲れましたが、家に帰ってもどこかが痛むような事はなく、一晩ぐっすり寝れば次の日は普段通りの体調に戻っていました。
【2004年11月】 (CRP : 1.19 血沈 : 10)
11月初旬に寝ていると、頭がチクチクし始めました。よく見ると、ツルッパゲの部分全体から髪の毛が0.5cm~1cmほど伸びていました。伸び出すと早く、“あっ”と言う間にツルッパゲ部分にビッシリと髪の毛でいっぱいになりました。ところが生えてきた髪の毛のほとんどは白髪で、同時に生えてきた体毛も白髪になって生えてきました。松本先生に報告すると、「皮膚も髪の毛も、元にもどるから、大丈夫。ステロイドによって、遺伝子が破壊されたんや。遺伝子は、自然と元に戻ろうとするから、皮膚も髪の毛も元に戻る。」という言葉に、また一安心。
現在は、髪の毛は生えそろったのですが、白髪は変わらず白髪のままで、月に一度白髪染めをして、日常を送っています。手間はかかりますが、やっぱりリウマチの事を思うと、こんな事はたいした事ではありません。
【2004年12月】 (CRP : 0.51 血沈 : 11)
特に変化はありませんでした。
今月は、また母、姉、姪で電車に乗って、大阪駅まで出かけました。9ヶ月ぶりの大阪駅でした。会社が梅田にあったので、休職するまでは毎日通勤していた道のりでしたので、またまたつまらない事に感動していました。でもこの感動は、久しぶりの出来事に対して感動しているのではなく、きっとリウマチとここまで闘って、これほど良くなっている事に対して感動していたのだと思うのです。今回は10月に外出した時と違って、あまり休む事もありませんでした。
【2005年1月】 (CRP : 0.26 血沈 : 4)
CRP、血沈と共に正常数値になりました!!それでも一気に良くなる事はなく、ずっと同じペースで良くなっている感じでした。
お正月には、家族で毎年恒例の箱根旅行に行く事ができました。寒い中1時間近く沿道に立ちっぱなしの箱根駅伝の応援にも、今回は諦めていたのですが、応援に行くことができました。歩き方は、人間型ロボットよりも私の方がスムーズに歩けるようになり、ゆっくりだけど他の人から見ても違和感なく歩けるようになっていました。家にいるのとは違って、座敷に座ったり、お風呂など不自由な点はたくさんありましたが、旅行にも行けるようになった自分が、明らかに良くなっているとわかったので、私にとって特別な旅行になりました。寒さや疲れで体調が悪くなったり、関節が痛くなるようなことはありませんでした。
【2005年2月】 (CRP : 0.15 血沈 : 6)
特に変化ありませんでした。
【2005年3月】 (CRP : 0.05 血沈 : 6)
前年7月からの足の傷が、新しく傷口が増えることなく徐々に減ってきました。3月末頃にはやっと傷がなくなりました。
【2005年4月】 (CRP : 0.06 血沈 : 5)
4月になり、やっと松本先生離れをする決心つき、毎週かかさず通院していたのを、2週間に1回にしました。何ヶ月も前から、松本先生からは病院に行くと、「何しに来たのかな?顔だけみたら、どこが悪いのかわからないで。」と度々言われていたのですが、私自身は「まだ痛い。治らない。」と思っていたので、なかなか先生離れする事ができませんでした。
また暖かくなったので、リハビリがてらに犬の散歩を始めました。これまでほとんど外出しておらず、一人で行動することがなかったので最初は人と会うのがとても怖く不安でしたが、私にとって、この犬の散歩が社会復帰に向けての第一歩となりました。始めは、どこか痛くなりそうで、こわごわ散歩していました。少し筋肉痛のような違和感はありましたが、特に気にならず、日を重ねると違和感もなくなり、何の問題もなく散歩をすることができました。
散歩に慣れると、今度は、隣りの駅に住んでいる姉の家に30分かけて歩いて行ってみたりと、行動範囲も広く、一人で動き回るようになりました。また1年半ぶりに友人とも会うことができました。涙がでそうなぐらい感動でした。友人は私を見て、「どこが悪いのか、全然わからない。」と言ってくれ、最初は少し気遣ってくれましたが、そのうちにあまりにも病人だった事を意識してくれないので、自分から「前は、こんな事できなかったのよ。」「歩くのもロボットみたいだったのよ。」と大変だった事を訴え、良くなった事を自慢していました。つい2~3月前までは、まだ自分は病人だと思っていたのに、本当に自分でも驚くほど知らず知らずのうちに元気な頃の自分に戻っていました。
【2005年5月】 (CRP : 0.14 血沈 : 4)
リウマチの煎じ薬から、アトピーの煎じ薬に変わりました。味は全く違う味で、何とも言えない不味さだったのですが、3~4日もすると慣れてしまい、またガブガブお茶がわりに飲めるようになりました。お薬を変えた事で、痛みが出てくる事はありませんでした。
【2005年6月】 (CRP : 0.05以下 血沈 : 4)
松本先生から、会社復帰へGOサインが出たので、会社に復帰したい旨を伝えたのですが、リウマチが治るなんて信じられなかったのか、会社からはもうしばらく療養するように言われて、更に3ヶ月延長になってしまいました。職場の仲間は、リバウンドが出て痛々しい私の姿を知っているので、あまりの変わりようにみんな驚いていました。
復帰する気マンマンだったので、時間が余りに余ってしまい、会社復帰へ向けて、リハビリがてらに専門学校に通う事にしました。毎週、月水金に決まった時間に通い、今まで不規則な生活を送っていて、また通勤(通学?)電車も久しぶりだったので、本当に良いリハビリとなりました。
【2005年7月】 (CRP : 0.05以下 血沈 : 3)
母が肘を骨折してしまい、今まで母まかせだった家事を私がする事になりました。恥ずかしい事なのですが、34歳になっても家事をほとんどした事がなかったので、最初は何をするにも時間がかかってしまい1日中立ちっぱなしで、また専門学校にも通い始めたばかりで、少し無理をしたのか1週間ほどすると、リウマチ特有の気だるさ感がして、両足首と両膝が痛みだしました。最近ではこんなことなかった感覚に少し落ち込んでしまいました。まだ完全に治った訳でもないし、無理をすると再び痛みだす事もあるとわかっていたはずなのですが、かなりショックを受けました。この時ばかりは、せっせとお灸に励みました。お薬をアトピーの薬からリウマチの薬に戻してもらうと、2~3日で痛みが治まりました。
【2005年8月】 (CRP : 0.07 血沈 : 4)
家事にも通学にも慣れ、動けば動くほど、益々体は軽くなる一方でした。いつの間にか5cmのハイヒールも履けるようになり、正座もできるようになりました。自分では「出来ない」と思っていても、やってみると案外すんなりできたりして、日々驚きと感動の繰り返しでした。
【2005年9月】 (CRP : 0.22 血沈 : 5)
特に変化ありませんでした。
【2005年10月】 (CRP : ? 血沈 : ?)
特に変化ありませんでした。
【2005年11月( 現状 )】
11/1から会社復帰です!!休職前と同じ会社への復帰です。雇用形態が正社員から契約社員になってはしまったのですが、やっと会社復帰する事ができました。毎日1時間半かけて、満員バスと電車を乗り継ぎ、9~17時半まで働いています。初日は仕事をほとんどしなかったのですが、さすがに慣れない環境に気疲れし、自宅に帰った途端にグッタリしてしましました。また1日中イスに座っていたので、夕方には足がパンパンに浮腫んでしまい、「やっぱりまだ無理なのかな?」と少し不安も感じたのですが、翌日からは浮腫む事はありませんでした。またいつもより少し忙しく疲れを感じると、足首と膝が少し痛くなったりするのですが、また翌日には治まりの繰り返しの状態です。それでも体の疲れ方は会社に行く度に、益々元気になっていっているような気がします。
最後に・・・
私も何度か叱られ、たまに怖~い松本先生になってしまうのですが、本当に患者の事を思って下さっているからこそ叱っているんだと思います。K病院、O大学病院、K内科のような事勿れ主義の先生では、一見優しく思えるのかもしれませんが、結局のところ、患者の事なんて本当に考えてくれてないのでしょう。
リウマチになり、松本漢方クリニックに辿り着くまでは、本当に辛い思いをし、「なぜ私が?」と自問自答し、リウマチの遺伝子を分けあたえられた父と母を恨む毎日でした。でも今では松本先生と出会い、リウマチのおかげで健全だったらできなかった体験と色んな事を考え悩み、知る事ができたと思います。契約社員になってしまいましたが、今は残念に思っていても、リウマチのおかげで得た事がたくさんあるように、もしかすると、将来的にはこの事が結果オーライとなるかもしれません。せっかく手に入れた新たな人生なのに、また会社復帰とともに会社人間に戻ってしまってはもったいない気がします。これからは、自分のやりしたい事や趣味を優先に、新たな人生を送りたいと思っています。近頃“ふっ”とした瞬間、「何か幸せ」と良く思うのです。「幸せ」と一言ではくくれず、どう表現していいのかわからないのですが、胸がいっぱいと言うか、何とも言えない、今まで感じた事のない幸福感です。きっとリウマチになっていなかったら感じられなかった、不思議な幸福感なのです。
松本先生、まだまだお世話になりそうですが、完治に向けて、これからもよろしくお願いします。またどんな病気でも、私の主治医「困ったときの松本先生頼み」で、よろしくお願い致します。現代医学に反し、一人で立ち向かわれている松本先生に、早くノーベル賞が受賞されますように・・・。これからもたくさんのリウマチ患者を救って下さい。本当に有難うございました。
この場をかりて・・・自分より大きな娘を抱きかかえ、献身的に看護してくれた母と、毎週病院まで送り、母の負担を減らすために、疲れて仕事から帰ってきているにもかかわらず家事を手伝ってくれた父に、本当に感謝しています。家族の助けがなければ、病気と闘う事はできなかったと思います。