「リウマチ手記(中間報告)」
23 歳 女性
2005年6月13日
23 歳 女性
2005年6月13日
まず、中間報告を書くにあたって
私は、治療を始めて1年経ちました。その間、診察の待ち時間等にたくさんの手記を読んできましたが、最近の手記は、中間報告が多いことが気になっていました。私は先生の理論を理解しているつもりですし、治ると確信しているので構わないのですが、なかなか結果の出ない患者さんや他の治療を受けている患者さんからすると、中間報告では少し不安に思うところがあるのではないかと思いました。だから、私が書くときは、やはり最終報告を出したいと強く思っていました。もちろん、治療が長引くのであれば、途中で中間報告を出し、最後に最終報告を出して中間報告と合わせてもらおうと。しかし、そのことを先生に告げると、怒られてしまいました。中間報告が多くなってしまうのは、治療が終わったら手記を出さない人が多いということも関係しているのだそうで、私もどうせ出さないのではと思われてしまったみたいです。私の最終報告へのこだわりが誤解を招いてしまいました。
私は、手記を書くことは、幸運にも松本漢方クリニックと出会い、理論の証人となることができた私達の責務であり、松本先生への感謝の気持ちを体現するものでもあると思っています。また、自分の性格から実名を載せると構えてしまい気持ちを正直に書くことができないかもしれないという懸念があったので、事実を正確に書くためにイニシャルにさせてもらいます。すみません。
〔 2003年7月末 〕大学4年
夏休みに2日間の短期バイトをしました。ヒールを履いて8時間立ちっぱなしのきつい仕事でした。2日目の途中から足が痛み出したものの、立ち仕事に慣れてないからだなぁと、特に気にすることはありませんでした。しかし帰る頃になると、左膝がまるで固まってしまったように動きが鈍くなり、痛みもひどかったので、足をひきずりながら家へ帰りました。次の日、左膝が腫れていたので、以前捻挫したときに通っていた整形外科に行きました。「使いすぎだね。水が溜まっているけど、量が少ないから、抜かなくても自然に治るよ。」と言われたので、しばらく放っておくことにしました。
しかし1ヶ月ほど経っても一向に腫れがひかないので、帰省時に地元の2つの整形外科に行きましたが、そこでも同じことを言われるだけでした。この頃は、腫れはあったものの、生活にそれほど支障はありませんでした。
〔 2003年10月末 〕
相変わらず腫れはひかず、少し歩きにくくなってきたので、今度は大学の近くの整形外科に行きました。すると「水を抜いて、検査してみたほうがいい。」と言われたので、注射で水を抜きました。(あまりの痛さに驚きました。)このとき抜いた水を見て、「あー黄色く濁っているなぁ...。これはまずいかも。」と、先生が小声で言ったのを覚えています。MRI検査もしました。
検査結果を聞きに、再び診察を受けました。私は、ただの使いすぎによるものだろうと気楽に考えていました。ところが、先生に「滑膜炎で、手術が必要かもしれないから、大学病院できちんと見たほうがいい。」と言われたのです。手術??頭の中が真っ白になりました。「手術が、すごく上手な先生がいるから。」と言われ、御茶ノ水にあるN大病院を紹介されました。何が何だかわからないまま、先生の言葉にそのまま従うしかありませんでした。
〔 2003年11月 〕
N 大病院へ。その腕のよいと言われる先生の診察を受けました。その先生は、私に何も言わずに、当たり前のように水を抜きました。(後で分かったことですが、この先生は、この後数回にわたり、私に何の説明もなしに、水を抜いた後にステロイド注射をしていました。)検査の結果、やはり手術が必要とのことでした。「手術と言っても、組織を少し採って検査するだけだから、大した事ではなく、2・3日入院するだけ。」と言われたので、することになりました。薬は、ロキソニン(解熱鎮痛消炎剤)とケルナックカプセル(胃腸薬)を処方されました。
〔 2003年12月上旬 〕
検査のための手術ということだったので、さほどの不安はありませんでした。しかし、入院して、手術の同意書を見ると、そこには左膝鏡視下滑膜切除術という文字が。その見たことも聞いたこともない恐ろしい字面を見てぞっとしましたが、「検査のための手術と言われているのだから、大丈夫。」と、自分を納得させました。(このときは、滑膜切除の意味がわかっていませんでした。)手術は数時間にも及びました。手術後の左足には、ギプスとぐるぐるの包帯が巻かれ、結局1週間入院し、退院後2・3週間ぐらいは松葉杖でした。手術と一週間の入院生活の影響で、左足は筋肉が落ち、とても細くなっていました。「2・3日の入院で済み、とても簡単なものという風に聞いていたのに、こんな状態になるなんて、話が違う・・」と不満に思いましたが、何も言えませんでした。後から、「手術では、検査のために組織を少し取り、かなり増殖していた滑膜を、きれいに掃除した。」と聞かされました。
〔 2003年12月下旬 〕
ある日、急にひどい下痢を起こしました。その後2週間ほど下痢と体調不良が続き、高熱の出る日もありました。手術と入院の疲れが残っているんだなぁぐらいに思っていました。
整形外科受診。手術の生体検査の結果、細菌による炎症・痛風等ではないということがわかり、消去法で、リウマチかもしれないという診断でした。あんなに大変だったのに、この程度の事しかわからないのかと落胆しましたが、リウマチという仮の診断結果が出たことにより、薬がリマチル(抗リウマチ薬)に変わり、ボルタレン(解熱鎮痛薬)・ケルナックカプセルも処方されました。リウマチ因子は陰性であり(リウマチ患者の何割かは、RF 因子が陰性であることも知っていましたが)、自分がリウマチだなんて信じられなかったので、薬を飲むことに抵抗がありましたが、先生の大丈夫という言葉を信じて、飲み始めました。
〔 2004年1月上旬 〕
どうにも体調が優れないので、同じ大学病院の内科へ行きました。血液検査の結果、肝機能障害を起こしていました。「即、入院したほうがいい。」と言われ、卒業がかかった大学の試験があったので、とても迷ったのですが、「命に関わるから」と言われ、すぐに入院しました。今回は、入院といっても、薬は一切服用せず、肝機能の回復を待つという、10日間の安静入院でした。私は、飲んでいたリウマチの薬が原因なのではと思ったので、内科の先生に調べてもらったのですが、診断の結果、薬によるものではなく、EBウィルス肝炎の疑いが強いとのことでした。よっぽど免疫力が弱くなっているときでないと感染しないらしく、疲れがまだ残っていたからかなとは思いましたが、何だか腑に落ちないまま退院しました。(後で、薬によって免疫力が落ちたからという単純な理由に気付いたのですが、このときは、薬は関係ないという内科の先生の言葉を鵜呑みにしてしまいました。)リウマチの薬は一旦中断することになりました。いくつかの試験は病院からフラフラになりながら向かい、退院後も試験がたくさん待ち構えていたので、とにかく大変でした。
〔 2004年2月 〕
肝機能は正常に戻り、体調も一時回復したのですが、2月中旬の夜、嘔吐してしまい、発熱。次の日内科を受診し、風邪薬をもらいました。だいぶ良くなったので、足の治療を始めなければと思い、下旬に整形外科を受診。中断していたリマチル・ボルタレン・ケルナックカプセルを再開しました。すると次の日、急に 39°Cの発熱。「これは、絶対におかしい。」と思い、先生に相談したのですが、「飲んでいる薬(ボルタレン)は、むしろ解熱作用のあるものだから」と言われ、また飲み始めました。それでも、頭痛・だるさ・喉の痛み・鼻水・胃痛・微熱の症状が続いたので、処方された風邪薬も同時に服用していました。このとき口内炎もできたので、ケナログという薬も塗りました。
この頃の左足は、朝起きてから数時間は、しびれて固まってしまったような感じで、全く言うことを聞いてくれませんでした。昼頃になると、ようやく動けるという状態でした。
〔 2004年3月上旬 〕
薬が、リウマトレックス(抗リウマチ剤の中でも、特に強力な薬です。副作用による死亡例が、ニュースになりました)・プレドニゾロン(ステロイド)に変わりました。卒業が決まり、来月に入社を控えていたこともあって、早く治さなくてはいけないからということでした。インターネットでこの薬のことを調べると、「重篤な副作用がある」と書いてあり、心配になったので、何度も先生に聞きました。しかし、またも「大丈夫、大丈夫。」と軽く言い放つだけでした。本当に恐ろしいことです。その後、肌が痒くなり、ミミズ腫れのようになってしまったので、先生に相談したのですが、痒み止めのポララミン錠(抗ヒスタミン薬)が追加されるだけでした。
薬が変わっても、足の調子は変わらず、特に朝は大変でした。
〔 2004年3月下旬~4月上旬 〕
ある朝起きると、左の頬の一部が、あざのように黒くなっていました。肌荒れかなと思って、前通っていた皮膚科の薬をつけました。(大学2年ぐらいから、度々指や顔に湿疹のようなものができることがあったので、たまに皮膚科に行っていました。特に顔に出るのが嫌で嫌で、よく効くステロイドの薬を、何のためらいもなく塗っていたのです。ステロイドの恐ろしさを知った今、思い返すと、本当に馬鹿なことをしていました..。)この肌荒れは、首のほうまで広がっていったものの、このときはまだ痒みはありませんでした。
会社の近くへ引越し、社会人生活への準備も万端でした。足のことは心配でしたが、「2週に1回ぐらい診察を受けながらなら、大丈夫だろう。」と考えていました。
ところが、入社を控えた前日の3月31日。診察を受けに行くと、先生が信じられないことを口にしました。リウマトレックスが効いていないので、また
手術が必要かもしれないと言うのです。「え??どうして、急に言うの??明日から働かなくちゃいけないのに??」大きな鈍器で、頭を殴られたみたいでした。会社の人事の人と話し合い、悩んだ末、入社することを諦めました。仕方がありませんでした。会社を辞めたことを知った先生は、筋力をつけるために、自分が出張診察を行なっている温泉病院への入院を勧めてきました。日取りも決め、準備もしました。
でもその頃から、左肘が真っ直ぐ伸びなくなり、そのことを次の診察時に伝えると、「なんで早く言わないんだ。」と怒られ、すぐ血液検査をしました。その結果、「膠原病の疑いがあるから、膠原病科へ行って、きちんと調べたほうがいい。」と言われたのです。(この頃は、あまりにドタバタで、考える余裕もなかったのですが、後で考えると、このときの血液検査と、今まで何回もやってきた血液検査と、どう違うのかはっきりしません。なぜ急に膠原病の疑いが強くなるのでしょう。検査結果を比べてみても、よく分かりませんでした。)最後まで、この先生には振り回されました。数ヶ月経たないと効果が出ないと言われるリウマチの薬を、1ヶ月で止め、ころころ治療方針を変える。RF 抗体しか調べない。結局、この先生は、リウマチの知識がなかったのです。不満を感じながらも、結局言われるがまま従ってきてしまった自分自身にも嫌気がさしました。そして、実家へ帰ることになったと告げると、「私の地元の大学病院の膠原病科を紹介するから。」と言って紹介状を渡されたので、その病院に電話してみたところ、膠原病科という診療科はないと言われました。同じ市内にある他の大学病院になら、膠原病内科という診療科がありました。病院の名前を間違えていたのでしょうか。本当に最後の最後まで、いい加減な先生でした。
〔 2004年4月下旬 〕
その膠原病内科を受診しました。血液検査で細かく調べてもらったところ、「他の膠原病の可能性はなく、リウマチしか考えられない。」と言われました。このとき、初めてMMP3の値を調べたのですが、500以上ありました。
右膝の腫れも出てきていたこともあり、ようやく、自分がリウマチであるということを受け入れることができました。リウマチの本を買いました。その中には、完治できない難病、人工関節・・・など、絶望的な言葉が並べられていました。ステロイドや抗リウマチ剤という強い薬を飲んでいる間は、妊娠もできないということも書いてありました。こんなにも自分の人生が大きく変わってしまうのだということを知ったときの悲しみは、言葉では言い表すことができません。
〔 2004年5月 〕
何かないのだろうかと、インターネットで検索していたところ、「革命的リウマチ根本的治療」という文字が。両親に「こんな病院があるよ。」とHPを読ませたところ、「すぐ行こう!」と言われました。抜け殻のような精神状態だった私は、流し読みしかしていなかったので(松本先生すみません..)、あまり乗り気ではなかったのですが、両親の真剣さに押され、車で5時間かけて向かったのです。
GW終わりの土曜日。松本漢方クリニックは人で溢れ返っていました。何時間か待ち、松本先生と初対面。今までの経緯を書いたものを見せると、N大病院をぼろくそに言い出しました。「殺せ、殺せーー!」絵に描いたような関西人で、ものすごいマシンガントーク。なんて面白い先生だろう。今までたくさんの医者を見てきましたが、こんな先生は初めてでした。言葉でごまかすことをまるでしない、ストレートな話し方。「治したるでー、君の人生、取り戻してあげる。」こんなことを言われたのは初めてだったので、涙が出そうなほど嬉しかったです。
松本先生の話を聞いて、小さいときからの様々なアレルギー治療(アトピーは小学校のときと大学のときに治療・結膜炎は数回治療・鼻炎は大学のときに1・2回治療)が原因であることが分かりました。また、薬を止めた4月から、左肘・右膝にも症状が出てきたのは、リバウンドによるものということを認識。顔・首の肌荒れはアトピーと言われ、煎じ薬・漢方風呂・消毒液を処方されました。プロテインは自分で買って、6杯飲むように言われました。鍼治療は、生まれて初めての経験だったので緊張しましたが、織田先生の温和トークで、緊張が和らぎました。「松本先生が治るって言ったのだったら、必ず治るから!大丈夫!」と言ってくださり、とても勇気付けられました。鍼の後、お灸の仕方を教えていただきました。
その日の夜、お灸をしてみました。ところが、ものすごく熱い!!痛い!!どうしてもその熱さに耐えられず、その日はできませんでした。こんなものを、これから毎日続けていかなくてはならないのかと思うと、本当に憂鬱になりました。
家に帰り、母に煎じ薬を作ってもらいました。「まずい!何これ!!檜をそのまま食べているみたいな味。続けられるかなぁ・・。」でも、お灸と比べればましかもと思い、鼻をつまんで飲みました。お灸は、どうしても恐怖感を振り払うことができず、2・3日はまともにできませんでした。でも、「やるしかない!」そう腹をくくり、何とかできるようになりました。自分では届かないところは、母にやってもらいました。
血液検査の結果、血沈100・CRP6.26。両膝の状態はますますひどくなり、足を伸ばして寝ると、朝曲がらなくて、曲げて寝ると、伸びない。トイレに行くにも、色んな所につかまりながらでないと行けない。階段もきつかったので、朝起きるのが本当に億劫でした。
顔・首のアトピーもどんどんひどくなり、入浴後は特に痒くて、アイスパッドを当て、鎮まるのを待ちました。夜寝るときも、アイスパッドは欠かせませんでした。どんどん黒く変色していく自分の顔を見ると、悲しくなりましたが、松本先生の「痒くなるのは良い事。痛みを、痒みに変えるんじゃ。」という言葉が励みになりました。私の顔と首のアトピーは、大学時に肌荒れ・湿疹だと思っていたもの(ステロイド軟膏を塗りました。)のリバウンドか、それとも、もしかしたら一部でクラススイッチがもう始まっているのかもしれないと思いました。(今まで、顔や手の肌が荒れることはあっても、痒くなることはありませんでした。顔と首の痒みが始まったのは5月からなので、痒みがなかった今までのアトピーよりも本格化したことは確かです。)でも、「手術をしてしまった左膝は、どうなるか分からない。」と言われ、「どうして手術してしまったのだろう、もっと早く松本漢方クリニックを見つけていれば・・・」と、後悔の気持ちでいっぱいになりました。
〔 2004年6月 〕
血沈 185・CRP 6.98
週に 1 回のペースで、松本漢方クリニックに通い始めました。電車で片道2時間半以上の距離を、毎週行き来するのは大変でしたが、母と2人、治したい一心で、必死に通いました。
足の指・足裏・右肘・手の指・首にも症状が出始める。朝起きると、1箇所ずつ痛いところが増えていくという日々でしたので、朝を迎えるのが、とても怖かったです。このまま私の体はどうなってしまうのだろうという不安に、体のだるさも加わり、かなり精神的に参ってしまいました。それでも、松本先生の理論や皆さんの手記を何度も読み返すことで、精神の安定を保とうとしました。顔と首のアトピーの痒みはまだあるものの、少しずつ肌の色が戻ってくる。
外に出る度に、数々の苦難がありました。曲がったままの肘と引きずりながらでないと動かない足。電車に映る自分の姿を見る度に、ため息が出ました。階段はきついので、駅に行くと、いつもエレベーターかエスカレーターを探し、見つからないときは、仕方なく、一段ずつそろりそろりと上り下りしました。段差の大きいバスや電車にも苦労しました。トイレも、意外と洋式がないところが多く、困りました。どこにいても、何をしていても、常に心配が付きまといました。バリアフリーとよく言うけれども、まだこんなにも不便な世の中なんだなぁと、事ある毎に気付いたものです。人とぶつかるのが怖かったので、いつも隅を歩くようになりました。この頃は、父に「車椅子にしたほうがいいのでは」と言われるほど、足の状態はひどいものでした。
誕生日に、両親がお風呂用のテレビをプレゼントしてくれ、長風呂が苦手な私も、そのおかげで、漢方風呂に30分ぐらいは入れるようになりました。煎じ薬は、どうにも得意にはなれませんでしたが、3番煎じまでは飲みました。プロテインは、数回に分けて、煎じ薬に混ぜて飲むようにしました。(それは、もう、表現のしようのない味でした・・)出掛ける時は、ペットボトルに煎じ薬を入れて持って行きました。
〔 2004年7月~8月 〕
7 月:血沈 110・CRP 6.15 、8 月:血沈 90・CRP 3.81
手首・足首・足の付け根と、症状はどんどん広がっていくものの、7月に入ってから、少しだけ体が軽くなる。今までは、体が重くて、動作も最小限で済ましていたのですが、多少動けるように。体のだるさがすこし抜けてきたり、右膝の曲がりも良くなったりと、上向き要素が出てきたことで、気持ちも明るくなりました。ほとんど外に出ない生活でしたので、毎朝お風呂でバタ足500回という、家でできる自分なりのリハビリを始めました。これは、今でも続けています。
顔・首の痒みがなくなったら、今度は、右手の薬指と小指にアトピーが出てきました。鼻炎も出てきたので、鼻炎の薬が加わりました。(鼻炎も、クラススイッチの一種と、松本先生に言われました。)
下痢がひどくなったので、松本先生に相談したところ、「漢方を、食後に飲むように」と言われました。
〔 2004年9月~10月 〕
9月:血沈 50・CRP 2.22 10 月:血沈 50・CRP 0.87
左膝も、少しずつ曲がるように。去年の12月の手術後ずっと、100度しか膝を曲げることができず、それ以上は、手で押さえても、全く曲がらないという状態でした。それが、日を追って、あと指4本分、あと3本分、あと2本分・・・と、踵がどんどんお尻に近付いていくのは(変な表現ですが)、本当に感動的でした。また、ある日、体が軽い気がしたので、走るフリをしてみたら、なんと、ちゃんと前に進んだのです!大股で、スローモーションみたいな動きでしたが、数ヶ月間忘れていた走る感覚を、ほんの少しだけですが、思い出した瞬間でした。あまりに嬉しくて、その後、何度も何度も試したので、次の日腰が痛くなってしまいました・・。
次々に痛い箇所が減っていくことが、嬉しくて仕方がありませんでした。あんなに嫌だった朝も、清々しく迎えられるようになりました。しかし、油断すると良くないということは手記から教わっていたので、決して油断はしないようにと、自分にいつも言い聞かせて、治療に励みました。
10月になると、指のアトピーがひどくなり、同じ所にあかぎれもできる。すぐ乾燥して切れるので、すごく痛かったです。夜寝るときに、赤い薬をたっぷり塗りました。
〔 2004年11~12月 〕
11 月:血沈 49・CRP 0.28 12 月:血沈 28・CRP0.18
左目にものもらいができる。この後、1ヶ月に1回のペースで、3・4回同じ左目にできる。松本先生にもらった抗生物質を飲むと、2・3日でひきました。松本先生には、「クラススイッチではなく、もしかしたら、リウマチの薬の影響が、免疫が高まってきた今になって出ているのかもしれない。」と言われました。
ひどい鼻炎や、喉の痛みが度々出る。喉が痛いときにも、抗生物質を飲みました。偏頭痛も、1ヶ月に1回起こるようになり(11月から4月まで)、大学のときに、よく頭痛薬を飲んでいたので、そのリバウンドかもしれないと思いました。激しい痛みでしたが、2・3日休むと治りました。
体もどんどん軽くなり、足も順調で、なんと、正座に近い格好もできるように!私にとって、正座なんて、夢のまた夢のものと思っていたので、本当に嬉しかったです。こうして、少しずつでも元の自分に近付いていることが、何よりの喜びでした。
12月は、ディズニーランドにも行きました。段差のある乗り物にも乗ることができ、自分がリウマチであることをすっかり忘れて楽しむことができました。こんな風に遊んだのは、リウマチになってから初めてでしたので、とても嬉しかったです。
〔 2005年1~3月 〕
血沈は3月から、CRP は1月から正常値
指のあかぎれが、さらに悪化。痒みもひどい。調べると、あかぎれの原因は、寒冷刺激と合成洗剤だと、どこかに書いてありました。特別水仕事をするわけではない私は、寒冷が原因なのでしょうか。アトピーとあかぎれの関係は、正直良く分かりませんが、アトピー患者さんの手記に、あかぎれについての松本先生のコメントがあり、「リバウンドは、何十回と繰り返される。それを、トータルリバウンドと呼ぶ。」と書いてありました。あかぎれもアレルギーであり、ステロイドを使った分だけ、リバウンドが来る。私は先にも書きましたが、大学2年のときに、指の湿疹ができて、何度かステロイドを塗りました。私のあかぎれが良くなったり悪くなったりを何度も繰り返すのは、そのリバウンドなのだと、納得がいきました。
下痢がひどくなったので、煎じ薬の量を少し減らす。
足の状態は良く、たくさん歩いても、疲れにくくなりました。1月には、ついに、普通にタッタッと小走りもできるように!足に羽が生えたような、すごく不思議な気分でした。ちゃんと走れたのは、1年ぶりぐらいでしたので、私にもこんなことができるんだと感動しました。3月には、友達と旅行にも行けました。
いつの間にか、左膝以外で痛い箇所はなくなっていました。
〔 2005年4月~5月 〕
診察の後、そのまま京都へお花見旅行に行きました。哲学の道など、2日間でかなりの距離を歩いたのですが、足が痛くなることはなく、満開の桜を満喫することができました。さすがに疲れはありましたが、次の日には回復していました。
GW には、なんと、テニスまでできてしまいました。やる前は、さすがに昔のようには動けないだろうなぁと思っていたのですが、全く昔と変わりなく走り回れたのです!これには自分でも驚きました。体を動かす事がこんなに楽しいなんて、忘れていました。
MMP3について、松本先生に色々教えていただきました。MMP3は、新陳代謝をするときに出る酵素であるから、誰にでもあるものだそうです。「炎症が起こった後でしか、新しい組織を作ることはできないから、薬で炎症を止めてしまうということは、すなわち新しい組織を作ることができないということである。」とも教えていただきました。
〔 現在 〕
血沈・CRP・アルブミン/グロブリン比・ZTT ともに基準値を保ち、MMP3もようやく基準値に入りました。(「MMP3が正常値になったのは、滑膜切除手術のときにできた傷の修復が終わったということ」と、松本先生に教えていただきました。)
疲れると、たまに指や肩が痛くなることはありますが、お灸をすれば、1日で治ってしまいます。しかし、左膝の違和感は、まだ少し残っています。手術をしていなければ、もっと良くなっていただろうと思うと、悔やまれてなりませんが、諦めずに、お灸とリハビリを続けようと思います。指のアトピーは、まだ良くなったり悪くなったりを繰り返しています。頭痛やものもらいも、最近は出ていません。
6月初めに、私のことをいつも心配してくれていた祖父が亡くなりました。最後は、正座をして(まだ何秒間かしかできませんが)、「もう大丈夫だから、心配しないでね。」と言って、お別れすることが出来ました。去年の私では、葬儀にもきちんと参列できていなかったかもしれません。祖父を無事に見送ることができたのも、松本先生のおかげだと思っております。
私がここまで早く良くなれたのは、家族が協力してくれたからこそです。父は、もぐさをたくさん作ってくれ、駅まで送り迎えしてくれます。母は、私の精神的負担が少しでも軽くなるようにと、忙しい仕事の合間を縫って、毎回診察(毎週1回、11月からは月に2回)について来てくれました。重たいものが持てない私のために、毎日(今は2日に1回)漢方風呂を作ってくれ、体が辛かった去年の秋頃まで、毎晩マッサージをしてくれました。自分1人では、精神的にも体力的にも、とてもじゃないけれど乗り越えられなかったと思います。家族のありがたみを、改めて感じています。
今年の2月に、「リウマトレックスの副作用による、百数人死亡」という衝撃的なニュースが入ってきました。私はちょうど旅行中だったので、旅行先で新聞を読んで知りました。あのまま自分が飲んでいたらと考えると、本当にぞっとしました。
治る病気なのに、一生治らないと決め付け、その上強力な薬により、死へ追いやってしまう。そんな不条理な事が許されてよいのでしょうか?私もそうでしたが、リウマチの原因はわからないと言いながらも、簡単に副作用の強い薬を差し出してくるような無知な医者に、自分の人生を預けてしまうのは、あまりにも勿体無い事です。
私は、患者自身が賢くならなくてはと思っています。有難い事に、今はインターネットなどを通して、様々な情報に触れることができます。嘘の情報も氾濫しているので、見極めが必要ですが、自分の体のことなのだから、自分の目でしっかり見て、納得した上で治療を選択するべきですし、その自由があるはずです。
私は松本先生と出会い、人生を取り戻してもらいました。リウマチサイトには、よく生活の質の向上を目指すなどと書いてありますが、リウマチは治る病気なのだから、私達が目指すのは、治すことなのです。
松本先生へ
いつもお世話になっております。嘘と矛盾が蔓延る現代において、真実のみを追求する勇敢な姿勢、とても尊敬しています。松本先生と出会えなければ、今頃どうなっていたであろうと想像すると、松本先生への感謝の気持ちが、心の底から込み上げてきます。あんなに全身に症状があったのに、今は左膝だけ。松本先生の理論からすると、当然の事ですが、奇跡のように思えてしまいます。これから、もう少しお世話になりますが、どうぞ宜しくお願い致します。
織田先生へ
織田先生の、その穏やかなお人柄に、どれだけ多くの人が救われていることでしょう。リバウンドが辛かった時も、織田先生とお話ししていると、自然と明るい気分になったものです。「頑張っているね。」という、優しく温かいお言葉が、本当に嬉しく、心に染み渡りました。厳しい事もおっしゃいますが、それだけ患者一人一人のことを真剣に考えてくださっているのだと思います。これからも宜しくお願い致します。