リウマチ 体験記一覧
●「生活習慣にご注意を(リウマチ性多発筋痛症・ ばね指)」52歳2015年8月14日
●「真の医療に巡り合えた事に感謝(リウマチ性多発筋痛症・ヘルペス手記)」59歳2015年10月31日
●「完治を目指して(リウマチ手記)」53歳2016年2月25日
●「リウマチ性多発筋痛症 経過報告」 匿名希望K.K.51歳2017年4月26日
●「生活習慣にご注意を(リウマチ性多発筋痛症・ ばね指)」52歳2015年8月14日
●「真の医療に巡り合えた事に感謝(リウマチ性多発筋痛症・ヘルペス手記)」59歳2015年10月31日
●「完治を目指して(リウマチ手記)」53歳2016年2月25日
●「リウマチ性多発筋痛症 経過報告」 匿名希望K.K.51歳2017年4月26日
52歳2015年8月14日
2014年1月 バネ指、親指の付け根と手首に痛みを感じていました。インターネットで腱鞘炎解消プログラムのDVDを見つけ購入し実行していたのですが、一向に良くならず肩、首のコリまで出るようになりました。DVDの冊子をよく見ると端の方に「治らない場合はリウマチを疑ってください」と注意書き。
4月8日、近所の整形外科に行き、症状を伝えると、レントゲン、血液検査の後、胃薬、ロキソニン、プレドニゾロン(ステロイド)1週間分を処方されました。1週間後、血液検査の結果を聞くため再診。抗CCP抗体(多分、リウマチ因子)は陰性だがCRP(多分、炎症反応)は2.94の陽性。胃薬、ロキソニン、プレドニゾロン(ステロイド)1ヶ月分を処方。「季節的なものかも知れないから1ヶ月様子を見てまた検査をしましょう」と言われ帰宅。
季節的なものと聞いて花粉症を連想した私はプレドニゾロンを止め以前飲んでいた漢方薬(ツムラ三黄瀉心湯)を飲んでみました。翌日の朝、動くことができず、動くとあちこちに激痛が走るのです。これは発症時の3倍以上症状が悪化したと言っても過言ではありません。プレドニゾロンを飲み落ち着いたところで調べると松本漢方クリニックがヒット。手記を読みあさり、ステロイドが免疫を抑えることによって痛みをなくしていること。それによってヘルペスが増殖し、長期間服用すればどんな病気を併発するかわからないとんでもない薬だと知り、すぐに捨て松本漢方クリニックに行くことを決意。
翌日、夜勤専門でかなり無理をしていたので労災だと思い上司に報告、会社の産業医と面談。「もうじき連休だから様子を見て悪ければ連休明けて行ってはどうか?」と提案され、従うことにしました。とりあえず悪化を防ぐためにL-リジン(ヘルペス対策)、免疫を上げるためルミンAを服用。痛みは主に手首から先だが、他の軽いコリ、痛みは一定ではなく、あちらこちらがランダムに痛くなるといった感じ。朝はストレッチをやって体をほぐしていたが結構辛かった。
連休明けて5月8日松本漢方クリニックへ行く。診察は松本有史先生。時々松本仁幸先生が割って入る。「お前ステロイド飲んだんか~」ネットに書き込みあるとおり理論とは想像できない個性の強い人です。私が子供の頃、よく近所のおじさんに怒られたことがあります。そんな昔懐かしい人のような気がします…。頭が良くて話の上手い人には気を付けなくてはいけませんが、口の悪い人はどうなんでしょう?この日、リウマチ性多発筋痛症で間違いないと診断され、診断書を書いてもらう。夜勤は避けるべきと書いてあった。煎じ薬、ベルクスロンを2週間分処方してもらい福岡に帰る。私はフェリーで往復(変動はあるが安い)。煎じ薬では母親に随分お世話になりました。この頃の平均体温は35度5分(測り方が悪いのかも知れない)。初診から1ヶ月目で日常に差し支えるような痛みはなく、バネ指、親指付け根の痛みはいつの間にか消えていた。このまま回復するのかと思えた。
6月21日夜勤から昼勤へ。月収が半分になったため7月20日からの治療は健康保険適用の範囲内でお願いした。8月4日、朝起きた時、足の裏に違和感を覚えた。まさか下半身まできたかと不安になる。9月初旬、いい時、悪い時では結構差があり、平均すると良くもならず悪くもならずといった印象。(何故か産業医が元の職場に戻った方がいいんじゃないかと提案してくる。給料が安いので迷惑な話だと思っていたが現実となる)。
9月21日、部署が変わり、作業内容、環境が大きく変わる。(月収の低い時は6月21日時点の月収の半分以下)。痛みが激しくなり、先生に相談したところ「それはヘルペスや」と言われ保険適用外の薬もお願いする。(環境変化も大きな要因)。この頃くらいだったと思うが両手の人差し指中指の曲がりが悪く、腫れとむくみがあり、握り拳が作れなくなり慢性化していた。2015年2月26日、退職。3月初旬、人材派遣の面接に行くが握力が15Kしかないため断られた。3月21日、治療中断。治療前のL-リジン、ルミンAを服用。4月28日再診。血液検査のみ5月23日。血液検査の結果は単純ヘルペス以外正常(血糖値は高いが範囲内)。原因を取り除けばこんなに一気に良くなるんだとビックリしています。ここまで読んでくれてありがとうございます。あなたもきっと原因を取り除けば急激な回復はありえます。
ここまで淡々と書いていますが、実は私のハラワタは怒りで煮えくり返っています。労災だと思っているがこの仕打ちです。もちろん労災の申請はしました。結果不支給です。労働保険審査請求書を提出すべく資料作りをするため、免疫生物学を読んでいます。提出する資料をそのままコピペ(固有名詞は伏せました)します。先生の理論とは違い、自己免疫疾患はあり得るという立場で書きました。
・労働保険審査請求書 資料
お世話になります。リウマチ性多発筋痛症、発症の原因は労働による交感神経優位及びストレスによって免疫が下がったために起きた労働災害です。これを免疫生物学から説明します。リンパ球レセプターは、ランダムに生成されうるので、自己と反応して免疫応答を起こしうるリンパ球がこの過程で生じることは避けられない(免疫生物学1-25)
寛容機構1:自己寛容
リンパ球が最初にレセプターを発現した際、直ちに自己抗原と接触する。もしこの段階でレセプターが抗原と結合した場合には、リンパ球は死ぬべくプログラムされている。リンパ球は、この発生段階を通過した後初めて抗原と結合することで活性化される細胞に成熟する。こうしてすべてのリンパ球は、そのエフェクター機能を発揮できるようになる前に自己抗原に対する反応性、すなわち自己反応性をテストされている。(免疫生物学1-5)
寛容機構2:活性化するには2種類のシグナルが必要(免疫生物学1-8)
B細胞:抗原とレセプターの結合、T細胞からの二次シグナル
T細胞:抗原とレセプターの結合、プロフェッショナル抗原提示細胞からの補助刺激。こうした機構があるにも関わらず、特定の自己抗原に対する抗体やエフェクターT細胞が出現し、自己抗原を認識し自己組織を傷害することにより自己免疫疾患を起こすのである(免疫生物学1-25)
免疫生物学 九州大学教授 笹月健彦 監訳 南江堂
1995年11月20日発行
自己、もしくは異物に免疫応答している抗体、エフェクターT細胞が存在し自己組織を傷害するため炎症反応は陽性を示します。これは本来、リンパ組織で寛容、不活性化、死ぬべき細胞です。これらは免疫が下がり(ストレスにより分泌されるステロイドホルモンが免疫の遺伝子を抑制)。寛容機構1,2がうまく機能していないことから起きたと考えられます。
要因1:連続夜勤による交感神経優位な状況
要因2:過度な労働によるストレス
以下は安保 徹 教授 「医療が病をつくる」 P32右から13行~P331行から抜粋したものです。
「交感神経と副交感神経は拮抗して働いているので、交感神経の緊張は副交感神経の抑制を伴う。そのため、副交感神経の支配下にあるリンパ球の働きが低下する。その結果癌細胞を攻撃するT細胞(傷害性T細胞)が減少し、同じく癌細胞を殺してしまうNK細胞(ナチュラルキラー細胞)が機能を発揮できなくなる。こうして免疫系の能力が低下し再生細胞の癌化を許すことになるのである。癌の原因として、働きすぎ、まじめな性格、大酒飲み、心の悩みを挙げたが、この他にも大いに危険なものがある。痛み止めの長期使用である。腰痛、肩こり、リウマチの慢性化した関節痛などは、そもそも交感神経緊張によって引き起こされたものである。つまり、血流障害と顆粒球増多がその背景にある。そして、この状態から逃れようとして副交感神経の反射が起こり激しい痛みが生じる。言うなれば、痛みのつらさというのはからだの治癒反応なのである。痛み止めはこの反射を止めて一時的に痛みを止めるが、熱心に痛み止めを使用するとかえって病気を悪化させ、ついには癌を誘発させることにもなりかねない。」
細胞障害性T細胞はペプチドとMHC(自己の印)クラスⅠ分子の複合体を認識し、マクロファージやB細胞を活性化するT細胞は、MHC(自己の印)クラス2分子と結合したペプチドを認識するのである。(免疫生物学 1-14)。ステロイドホルモンによる遺伝子の抑制、自己を認識しB細胞にも影響を与える障害性T細胞の減少は明らかに寛容機構1,2に悪い影響を与えるのは明白です。痛み止めに限らず人体も免疫を抑制するステロイドホルモンを生成します。要因はストレスです。
過度な労働に関して、通常作業以外の労働
① U層とV層の層間紙のチェックと調整
② 絶縁(保護)チューブのチェックと調整
③ パレットのレバーを定位置に戻す
④ W層のコイルの整え
⑤ U層(外周)の検査
①②では前工程の中間コンベアでの人の習熟度によって、手直し量が増減します。ある人では、殆ど手直しが無いが、ある人では多いなど、ひどい時では3台に1台の割合で手直ししていたと記憶しています。2直(夜勤)、立ち上げ時、大量生産でのライン作業の経験があり、モーターの製造にも関わっていた私は他の作業者よりも優位に立っていたので①-④を追加しても、それほど苦にはなりませんでした。しかし、皆の習熟度が上がるにつれて(ラインタクトが速くなる)困難になりました。自工程前では仕掛品が貯まり、自工程後では手待ち(精神的ストレス)の状況の中、3台を超すと意識的に動きを速くすることで対応していました。結果これが肉体的なストレスになったと考えています。⑤に至っては、慢性的に貯まる状況であり、かなり過酷でした(3ヶ月間)。余談ではありますが、大量生産ラインでは作業者が不良を見つけても手直しをせず、上司を呼ぶ仕組みになっていました。
3月1日より、仕事をしていないので殆どストレスのない状態です(3月20日まで年休の後、契約期間満了、退社)。経済的理由により3月21日より治療を中断しているにもかかわらず血液検査の結果はリバウンドの後、急激な回復(CRPは正常値)を示しています。結果論ですが、会社が事務職など負担の軽い部署に変えてくれたなら治療効果はもっと上がっていたはずです。なぜなら発症から辞めるまで、痛みを我慢してやっていました。約1,2時間で痛みはなくなるので大丈夫だと勘違いしていました。今考えれば分かることなのですが、これは、痛みによるストレスが免疫を抑えたため一時的に痛みがなくなっただけで、次の朝にはまた症状が悪化するというものでした。痛み止めを飲まない治療をしていましたが、現状維持が精一杯だったという印象です。これは先に述べた寛容機構がうまく機能しないため自己、もしくは異物に免疫応答している抗体、エフェクターT細胞(本来、寛容、不活性化、死ぬべき細胞)がリンパ組織を出すためです。ストレスが殆どない3月1日以降では一旦リバウンドが出たものの急激に回復していることから、仕事のストレスが原因で寛容機構がうまく機能していなかったのは明白です。
過去のばね指の因子について、これも労働によるものだと主張します。某社に入社して半年くらい後で発症しました。それまでは全くそのような症状はありませんでした。入社当初、前工程(結線工程)は4人だったのですが5人となり、重量も結構ある半製品を持ち上げて移動する事は頻繁でかなり無理をしていました。以上が私の主張です。
再審査よろしくお願いします。尚、労災でない場合、論拠を示してください。
59歳2015年10月31日
1.発症と治療開始
平成26年1月下旬より、左足首が赤く腫れ、痛みが日を追うほどに広がりました。主治医を受診すると、「足首に細菌が入った」との診断で、ファロム錠を処方されました。トマトの腐ったような赤みと腫脹が続き、再受診した結果、蜂巣炎とのことでした。ペントシリンの点滴を6日間受け、引き続きファロム錠を処方されました。あまりの痛さに、夜、氷で冷やしましたが、微熱が出始め再受診しました。今度は「糖尿病の疑いあり」との見立てで、血液検査を受けました。しかし異常はありませんでした(CRPは1.4でした)
2月中旬、総合病院の整形外科を受診しました。症状は益々ひどくなりました。レントゲン検査では骨に異常はなく、ロキソニンとレパミピドを7日分処方されましたが症状が軽減されず、原因はいまだ不明でした。足首がかなり腫れているため靴が入らず、靴の踵を踏んで足を引きずって歩く状態でした。寝室も2階から1階に移し、トイレの近くの居間で就寝していました。ベッドを使用していました。
2月28日の受診。血液検査を受けましたが、リウマチ反応はありませんでした(検査結果は口頭でのみ聞きました)。引き続きロキソニンとレパミピド14日分を処方されました。医師は「様子を見る」とのことでしたが、原因が分からず不安でした。その後、右足の親指、中指、右足首にも同じ症状が現れました。
3月17日の受診。痛む箇所が増えていることを伝えました。レントゲンと血液検査の結果「リウマチ反応は出ていないが、症状が同じだからリウマチの薬を飲みましょう。こういうケースはそこそこあり、そのうちにリウマチ反応が出てきます。完治はしません。強い薬を一生飲み続けなければいけませんが、薬のコントロールをしっかりすれば怖くありません」と言われました。「完治しない」という言葉に強いショックを感じました。ふと切除して治る病気を羨ましく感じました。プレドニン5mg朝1回服用が追加となりました。ステロイド剤には副作用があり、躊躇しましたが飲み始めました。
4月7日の受診。ステロイド剤を飲み始めても劇的に痛みがなくなるわけではなく、飲まないよりはましな程度でした。ロキソニンを飲んでいたせいか、身体が冷えました。「痛み止めは体温を下げる」とどこかで聞いた覚えがありました。何となく調子が悪く、自分の身体ではないような違和感がありました。今まで病気らしい病気をしたこともなく、薬もサプリメントもほとんど飲まない生活を送り、健康診断もほとんど受けたことがありませんでした。疼痛箇所は、両足首、両足の親指、中指、小指となりました。かなり腫脹、汚い赤みを帯びていました。
新たにメトトレキサード2mg(抗癌剤)を5回分(週1回)処方され、どんどん薬が増えていきました。癌でもないのに抗癌剤を飲む事、そして効果は二ヵ月経過しないと分からないと言われた事に、「冗談じゃない!」と思いましたが、「飲むしかないのか」と思い飲み始めました。
2回目を飲んだ頃から、とうとう私の身体が悲鳴を上げました。薬に頼る人為的な生活はものすごく違和感があり、うまく表現できないが、「何かが違う、本当ではない、自分の身体ではない」という漠然とした焦燥感に襲われました。身体がどんどん壊れてゆく、こんなに多量の薬を飲むことも初めての経験でした。
2.さと子さんとの再会
そうしたときに頭に浮かんだのが、次男の同級生のお母さんである“さと子さん”のことでした。風の噂で「リウマチを患って、大阪の病院に通院している」と聞いていたので、彼女に相談してみようとお宅(近所)を訪れました。「私もリウマチを患った」と話すと驚かれて、「何であなたがリウマチに?どんな強いストレスがあったの?」と聞かれましたが、私の方が知りたいぐらいでした。事情を説明すると、毅然とした口調で「リウマチは治るんだよ!すぐに大阪の松本漢方クリニックのブログを見て受診して」と言われました。健康保険に該当しない医療費の自己負担があること、松本漢方クリニックの先生の理論やリウマチの方の手記も読んでから来院した方が良いことを教えてくれました。それを聞き、早速論文を読んでみましたが、ちんぷんかんぷんで、私のお粗末な脳みそでは、今の自分の切ない状況が精一杯で理解出来ませんでした。
夫の都合もあるので、色々考えた結果、4日後の土曜日に受診することに決めました。さと子さんにそのことを告げると、松本漢方クリニックに行く前に鍼とお灸の予約をするように勧められ、予約をしました。(このさと子の存在が、私を医原病から救ってくれたのです。彼女は、思慮深く、洞察力があり、聡明な方です。)そして、金曜日の夜、夜行バスに乗り、大阪へ向かいました。
3.松本漢方クリニック受診
夜行バスは、地獄でした。狭いバスの中で、痛みとこわばりに9時間耐えながらやっと京都駅に到着しました。下車する時は足が動かず、夫に助けてもらって、やっとの思いで降りました。京都駅前の長い横断歩道は、青のうちに渡りきれず、夫に引っ張ってもらう有様でした。歩くこともままならなくなった自分の身体に、改めて落ち込みました。
5月17日、9時前に松本漢方クリニックに到着しました。受付をすませ、鍼、灸の施術を受けました。自宅でのお灸の仕方の説明も受けました。その後、副院長先生に診ていただくも、疲労困憊でほとんど寝ていなかったため、先生の問診に頓珍漢な答えをして、ひんしゅくをかいました。そして決定的なミスをしました。「自分にはストレスなんてない」と答えてしまったのです。大馬鹿野郎でした。私は、「嫌なことも良いことも、ずっと続かない」と考えていたので、「嫌なことがあっても気にする必要ない」と思っていました。次男がこの春に大学院を卒業し、めでたく就職が出来て、全ての子ども(3人)が社会人となり、親業も終了し、肩の荷が下り本当に幸せでした。
しかし私は、自覚していない強いストレスを抱えていたようです。当時の私は、ストレスから解放され、副腎皮質ホルモンのステロイドの分泌が正常になることで、免疫システムとヘルペスウイルスが戦い始めたなんて知る由もありませんでした。副院長は、「勉強しなさい」と強い口調でおっしゃいました。本当に恥ずかしい限りです。尿と血液の検査を受けました。病名は、「膠原病、リウマチ性多発筋痛症、ヘルペス」と告げられ、漢方薬、紫雲膏、入浴剤、ベルクスロンを処方されました。もぐさと薬草パックも購入しました。この日は、本当に大変な一日でした。
4.治療開始
漢方薬を作り、お灸を開始しました。ところが漢方浴に問題が発生しました。温泉地なので、お風呂は外湯(地区所有)に入りに行っており、我が家には、狭いシャワー室のようなものがかろうじてあるだけだったので、たらいを購入して入浴しなければならなかったのです。動かない足で、熱くて重い鍋をたらいまで運ぶのが大変でした。鍼灸院を探すのも苦労しました。(身体の負担を考えると近くが良かったのですが、一つめに行った施術所で松本漢方クリニックの治療法を説明しても、私の日本語が下手だったのか、なかなか伝わらなく次を探すことになりました。二つめの施術所は、余計な施術をしようとされた為、パスしました。三つめの施術所は、鍼灸師さんに松本漢方クリニックの治療法を説明すると、すぐに松本漢方クリニックのホームページを見て、「理論は分かりませんが、血流をよくし免疫力を上げる鍼を施術しましょう。」と快諾してくださいました。ただ、家から遠いのが難点でした。
免疫を上げる為には、松本漢方クリニックのメニューを忠実に実行しなければならない。薬の服用、鍼、灸、漢方浴を続けました。2ヶ月間のステロイドと抗癌剤の服用で、本来人間が勝手にいじってはいけない免疫を人為的に抑制してしまっていました。それもお金を払って自分の身体を壊してしまうなんて・・・。深く後悔して落ち込みました。身体に対して本当に申し訳ないことをしました。「これからリバウンドが始まるのだ」と覚悟しました。松本先生は、「あんたが自分で治すんやでー」とエールを送ってくださいましたが、症状はどんどんひどくなっていき、リバウンドと分っていてもため息が出ました。さと子さんにも励まされ、彼女の言葉が心にしみました。“免疫の怒り”が“痛み”、“その報い”が“リバウンド”なのだと思いました。さと子さんとメールのやり取りを始めました。症状、悩みも含め、色々なことをアドバイスしてもらいました。彼女は、私の命の恩人です。そしてかけがえのない戦友となりました。
5.症状と日常
5月末、左手首が腫れ、痛み始めました。呆然とし、「とうとう手に来たか」と思いました。手首は疼痛、腫脹はありましたが、あまり赤くはなりませんでした。ただ、力が入らず、どんどん痛くなっていきました。家事がままなりませんでした。動きがとても鈍くなってきました。何をするにも時間がかかり、痛みのレベルが高くなったように思いました。歩くのも難儀になりました。しかし、仕事場に行くと、家にいる時よりは歩けました。「とにかく来年3月末までは働いてくれ」と言われました。
6月、おできが顔、背中、尻に出来ましたが、痛くはないのでほっておきました。「身体の毒を出しているんだから」と自分勝手に解釈をしていました。仕事柄、虫刺されが多く、松本先生に中黄膏を出してもらいました。「痛いのは、戦っているからや、バンバンお灸をしなさい」と叱咤激励が飛びました。お灸の箇所もどんどん増え、時間がかかるようになりました。午前中はとても眠くて、仮眠をとらないと仕事に行けませんでした。仕事は午後からでしたが、物を落とす、こぼす、ぶつかる、つまずく、よろける、食器もかなり割るという有様でした。仕事から帰るとクタクタで、食事をして、お灸をして、片づけをして、11時ごろ就寝しました。眠い、眠いと思いながら朝5時半朝湯(温泉)に行きました。これはずっと続いている習慣です。朝湯に入ることで身体が楽になり動くようになるのです。温泉の洗い場で腰を下ろすと、立ち上がるのが大変で一苦労でした。1時間近く入浴しました。湯船の中では、そこそこ歩けるのが嬉しかったです。温泉にいつまで入浴できるのだろうかと思いました。温泉まで車で3分、運転もかなりきつくなってきました。愛車はマニュアルの軽トラだったので、左足でクラッチを切るのが苦痛でした、左手首も痛く、握力がなく、ギアチェンジがままならなくなりました。そこで、車を夫のオートマチック車に変えましたが、軽トラの時は座高が高くて乗り降りがしやすかったのに、普通車の座席は低く、降り下りが辛くなりました。しかし、ここは車なしでは生活が出来ない標高600m、北信濃の田舎なのです。
ベッドの上にエアーベットを置き65cmの高さにしました。椅子も低いものは辛かったです。椅子の上に毛布をたたんで高くしました。トイレの便座も5cm高くしました。夜のトイレが地獄でした。痛みとこわばりで、足が固まり一歩がなかなか出ませんでした。覚悟を決めて行かなければなりませんでした。便座を高くしても立ち上がるのが一苦労でした。トイレの前にベッドを置きたいと思いましたがそれは無理でした。この動かなくなった身体とどう付き合えば良いのかと頭を悩ませました。家事も辛うじて何とかぎりぎりで出来る状態でした。
7、8月と痛む箇所がまた増えました。増えた箇所は左膝、両足裏、両踵です。しかし、両足首の痛みは、5月の痛みが10とすると4から5になりました。色も肌色になってきました。こわばりはまだ残ってしました。足の指も幾分良くなりましが、日によって赤み、腫れを帯びました。お灸をする箇所は、益々増えました。鎖骨あたりに痒みが出ました。赤いぶつぶつで、「アトピーかな?」と思いました。掻いていたら血が出たので中黄膏を塗りました。鍼の先生から「こんなひどいリウマチ患者は見たことがない。よく我慢できるね。普通なら入院だよ。」と言われるほどになりました。私もこんなに長く続くレベルの高い痛みは、これまでに経験したことがありませんでした。リバウンドの激痛は想像をはるかに超えていたのです。さと子さんに、「免疫が身体を守るために、戦っていると思わなきゃやっていられない」と笑われました。左手首が痛く、こわばるため、漢方薬を薬草パックに入れる時によくこぼしてしまいました。もぐさを縒(よ)るのも大変になりました。踵、足の裏が痛いため、家の中では柔らかいスリッパを履いて歩いていました。重い物がますます持てなくなりました。買い物は夫に行ってもらうようになりました。外で人に会った時、この姿を見られ、病気のことを話すのが苦痛でした。本当のことを話すのも、ごまかすのもパスしたい気持ちでした。改めて普通に歩ける事、普通に生活できる事、普通と言う事がとても、とても幸せなのだと気づきました。家の雑用も、猫3匹の世話も、夫に大きく負担がかかるようになりました。それでも夫は涼しげな顔で手伝ってくれました。本当にありがたいと思いました。夫は時々とんでもないものを買ってくることもありましたが、買い物が上手になりました。“人に何かを頼む”ということはとても大変なことだと思いました。いかに適切な言葉で、わかりやすく丁寧に伝えるかが、とても重要になると思いました。夫は世界にも類を見ない不器用な人!私が夫に「あなた(夫)なしでは生きていけない」と言うと、夫は「薄気味悪い」と、苦笑しました。私は猫を抱き上げることも出来なくなりました。夜中、猫が私の布団の上で喧嘩をしたとき、私は悶絶しました。腫れた足の指を甘咬みしてきたときには、思わず悲鳴を上げました。
9月は体調がとても良かったです。相変わらずの痛みはありましたが、痛みに慣れたからか、痛みと身体の調子がこれまでと違っているような感覚を覚えました。痛みはありましたが体調が良かったのです。なんと、身体が若返ったような、とても不思議な気がしました。何よりありがたかったのは、身体を動かしさえしなければ痛くないので、よく眠れたということです。眠っている間は、痛みから開放されるので、ずっと寝ていたいと思いました。どんなに痛くても、布団に入ればすぐ熟睡できました。痛みからの解放は、涙が出るほど嬉しかったです。(相変わらず夜中のトイレは地獄でしたが・・・)痛みも日によって違い、特に足裏はぴりぴりしました。時々太い木綿針を刺されたような痛みも感じました。「ヘルペス恐るべし!」と思いました。左膝がかなり腫脹しました。左手首はズキンズキンと規則正しい痛みが起こりました。細かい作業が出来ず、ますます握力が低下しました。
10月下旬、たらいを使っての漢方浴が困難となりました。湯がすぐに冷めてしまい15分と持たなくなったのです。先生に相談すると、「そこらへんに住んでいる人は風呂がないんか?」と聞かれました。「5割の家はないと思う。新築する時は、お風呂を作るが、ほとんどの人は温泉を利用している。」と言うと、先生は信じられない様子でした。(因みに、さと子さん宅にはお風呂が有ります)
先生から、「いくら遠いと言っても、そろそろ来院しなさい」と言われました。一人では大阪に行けないので、夫に仕事の調整を図ってもらいました。11月にやっと2回目の来院をして、血液検査を受けました。11月1日初めて院長先生にお会いしました。(初診は副医院長でした)電話だけのやり取りだけで、院長先生とは面識がなかったため緊張しました。今回も夜行バスでくたくたの状態でしたが、「先生の問診に正確に返答しなければ」と努力しました。日々の生活に精一杯で本当に余裕がありませんでしたが、先生は「免疫を上げる努力を怠らないこと、自分で治すという強い意志を持つことが必要だ」と迫力ある声で話して下さいました。
12月、右膝も痛み出し、両膝と両足裏、両踵の痛みの為、一歩踏み出すと激痛が走る状態でした。歩くのが最高に辛くなりました。歩き方は、ブリキのロボットのようでした。遅く、不安定な歩き方になりました。12月中旬、左膝の痛みで夜中に目が覚めるようになりました。今まではどんなに痛くても朝まで眠れましたが、こんな事は初めてでした。寝られないのでお灸をしました。
朝湯に行ったとき、私の入っている温泉は、皮膚病、火傷、切り傷に効く温泉だということに気づきました。お灸の火ぶくれが早く治ったのです。左手が利かないため、包丁でよく手を切りました。調理の際の火傷も早く治りました。身体の芯から温まる、そんな温泉のありがたみをつくづく感じました。
12月末に次男が帰省しました。松本理論は生物Ⅰ、Ⅱを履修していないと理解が難しいとのことでした。次男に説明してもらう。次男は、ジックリ読んだ後、説明を始めました。隠された激しく重い心のストレスが生じると、自分を守る為、心の異物と戦えるようにアドレナリンや副腎皮質ホルモンのステロイドホルモンを分泌し、免疫を抑え続けるのです。その間に、ヘルペスウイルスが神経細胞で増殖する。ストレスから解放されるとステロイドの分泌が正常になり、免疫システムが回復し、増殖したヘルペスウイルスを見つけて神経細胞で戦いを始めると、神経に炎症が起こり痛みとなる。白血球の中のリンパ球のBリンパ球が、ヘルペスウイルスに対し抗体のIgGを作り、IgGが捕まえたヘルペスウイルスを好中球や大食細胞が食べて殺す。化学物質との戦いが残っている。化学物質を異物と認識した免疫はIgGを作るが、殺すことは出来ないので免疫を上げ、IgGをIgEに変え、抗体の交換(クラススイッチ)をして排泄しようとする。それがアトピーであり、アトピーが治ると膠原病が完治する。そして免疫を上げるには漢方薬、鍼、灸、漢方浴が不可欠。私の理解の程度を知るため時々質問をされました。答えられないと「頭が悪い」と呟きました。「松本理論は明瞭、明確、すごい理論だ」と口数の少ない次男が驚嘆していました。説明をしてくれた次男に感謝しました。さと子さんに話すと、「理論を理解すると回復も早まるよ」と言われました。今まで「どうせ自分には分からない」と逃げていた自分を恥ずかしく思いました。
1・2・3月、肉体的にも精神的にも最悪でした。あまりの切なさに、ふと「膝下から足を切断したい」と思いました。靴べらの様な義足で走る選手を羨ましいと言ったら、夫が「あんたらしい考え方だね」と笑いました。「冬眠したい」と思いました。3月末、仕事を辞めました。腹をくくって治療に専念する覚悟をしました。
4月4日の来院時、懲りずに夜行バスに乗りました。健康な人でもきついのに、私のような患者が使う交通手段ではないと、身体が教えてくれました。「今回で最後にしよう」と思いました。血液検査を受け、眼科の検査もしていただきました。眼の方は問題ありませんでした。松本先生に症状を話しましたが、なぜか、さと子さんの話で盛り上がりました。彼女がいなければ、今の私は絶対にないと思いました。「自分で治すんやでー」と言う先生の言葉が、今までとは違う響きに聞こえました。帰路は、北陸新幹線を利用し、今までより2時間近くも早く帰宅することが出来ました。これで日帰りの受診も可能となりました。仕事を辞め、生活ががらりと変わりました。家事も時間こそかかるが余裕が出てきました。全てに余裕が出来きました。昼寝もゆっくり出来きましたし、夜の8時には就寝できました。お灸もゆっくりあせらず丁寧に出来ました。今までとは違い夢のようでした。家での生活は、とても穏やかで平和でした。痛みの箇所は、その後増えませんでした。「左手首で止まっている!」「右手首は痛くはならない!」「最大の痛みからは解放された」そんな風にように思う。両足首は、多少のこわばりがあるものの、元の足首になりました。足の指もほぼ元の指になりました。痛む箇所も、レベルも、日によって微妙に変化しましたが、去年とはまったく違いました。
5月、たらいによる漢方浴を再開しました。
6月末、膝の痛みが7割ほど取れていることに気づきました。しかしこわばりは強く、硬く、重く、動かしづらかったです。
7月、夫やお風呂の仲間から「歩き方が良くなった」と言われるようになりました。薄紙を丁寧に一枚一枚剥がす様に、良くなっている気配を感じました。
8月、両踵、両足裏、左手首も膝同様痛みが軽くなっている。時々痛みのレベルが上がりましたが、すぐに軽くなりました。その事をさと子さんに話し、2人でプチリバウンドと名づけました。左手首のプチリバウンドの回数が多く、こわばりもそこそこありました。痛みのレベルもかなり低くなってきている気がしました。8月の中旬、漢方薬を煎じているガラス鍋を割ってしまいました。割れた鍋の持ち手が右足に当たり、ザックリと切れてしまいました。かなりの傷で、普通なら外科に受診し、縫って貰ったほうが良い状態でしたが、麻酔薬や投薬が心配なので様子を見ました。夜になり、やっと血が止まり、中黄膏を塗布しました。朝湯に入るとまた血が出ました。3日間そんな状態が続き、ようやく血が止まりました。夫が、「昔の武士は、刀傷で破傷風を起こさないように、お灸で治したんだ」と教えてくれました。「膿んでしまうと大変だから、傷の周りにもお灸をしてみたら」と助言をされました。お灸はお手の物なので早速やり始めました。すると、どんどん傷が治っていき、1週間ほどで完治しました。お灸の威力を目の当たりにし、夫婦で改めて驚嘆しました。
9月2日受診、今回は東京にいる長男の車で通院しました。朝2時半に出発し、7時半には松本漢方クリニックに到着しました。痛みが軽くなっていたので、血液検査の結果が楽しみでした。先生の問診を受けると、「顔つきが変わったなー」と開口一番おっしゃいました。私が「週ごとに薄紙を剥がすようにゆっくり回復していっています」と答えると、先生が「あんたが頑張ったんや」と言葉をかけてくださいました。身体も心も楽になりました。
10月、最もひどい時のレベルを10とすると、痛みは両踵3、両足裏0.5、両膝1、左手首1、こわばりは両膝4、左手首3となっていました。膝がかなり曲がるようになりました。
6. おわりに
化学物質の摂取は、現代の人工的な生活の中、避けて通れません。食事で摂取する動植物は、添加物、化学成分が混入し、農薬、化学肥料漬けで、抗生物質やホルモン剤を多量に投与されたものばかりです。実際、化学物質の入っていない食品、日用品は、ほとんどないのではないでしょうか?環境も汚染され、自然に近い食物を摂取することは至難です。米も野菜も果物も農薬漬けで虫も食べないものばかりです。私は、野菜、卵等は地元の産直マーケットや、有機農法で無農薬栽培を行っている障害者施設で購入しています。発酵食品の積極的な摂取と、シンプルな食生活を心掛けています。昔の日本の食事に近いと思います。さと子さんのご主人が、いわな、きのこ(なんと松茸も)、山菜、果物等天然の旬の食材を届けてくれて、とても感謝しています。
私は、絶対的に正しい生命活動である免疫の働きを薬で抑制しました。免疫は神の領域です。病気を自分で治すことの意味と、治療法を松本先生から学びました。自分の力で治すと言う事は、治す為に自分自身の知恵、工夫、努力、忍耐、根気、継続、勉強etcを必要とするという事です。持てる力をフルスロットルで前進することです。常識も覆されました。まさにイノベーションです。幸運にも私は、松本医学の治療を受ける事が出来ました。世の中には、沢山のリウマチ性多発筋痛症の患者がおられます。松本漢方クリニックにたどり着ける人、たどり着けない人、通院できる人、通院できない人etc(いくらインターネットが普及しても真の医療を探すのは迷路みたいなものです)。真の医療に巡り合えたことに感謝!私を支えてくれる夫、そしてさと子さん並びにそのご主人、親戚、友人、知人の存在に感謝!松本先生、感謝、感謝です。大きな、大きな喜びを感じます。
53歳2016年2月25日
体の不調を感じたのは、朝のこわばりでした。寝起きに、今までに知らない手指の痛みと張りがありました。医療相談をした所、「リウマチと思われます。」との事でした。当時の私の認識では、不治の病であり、これから先、家族にかけるであろう負担を考えると大変恐ろしい宣告でした。
最寄りの総合病院等にも行ってみましたが、治療に納得がいかず病院を探していました。元々鼻炎や花粉症のアレルギーがありましたので、根本的なアレルギーの治療をされていて「ステロイドは、一切使いません!」と大きく掲げられている松本漢方クリニックに通院してみようと思いました。
最初のうちは高槻までの往復と重い漢方薬を背負って帰るのがとても負担で、帰って一週間位は疲れて、寝たり起きたりしていました。疼きも朝だけでなく日中も、夜も痛く眠れないことも度々でした。家の階段をお尻で降りた日もありました。
松本先生の御指導と漢方薬・お灸とで、今も不自由はあるものの随分楽になりました。高槻の松本漢方クリニックから帰ったあとも、少し休んで家事も出来るようになりました。(漢方薬が重く感じる時は、最寄りの郵便局か薬局から送ってもらったりしています。)
食事や日用品の買い物も、自転車の前後のカゴに荷物を一杯積んで、こげるようにもなりました。痛みの強い時には、自転車のハンドルを持つ事も、ペダルを踏む事も出来ませんでした。日々の家事であったり、生活が滞りなく過ごせることが、本当に有難く思います。
まだ、手首と手指が痛み、鼻炎・花粉症も治療中ですが、松本先生の御指導の元、完治に向けて続けたいと思います。
匿名希望K.K.51歳2017年4月26日
私が初めて松本漢方クリニックを訪れたのは今年の1月でした。私の病気はリウマチ性多発筋痛症です。何年も前から症状はありましたがここ1年位は仕事に行くのも大変なくらいひどく鍼灸院に行ってなんとかしのいでいました。母も同じ病気を患い大学病院でステロイド薬をもらって飲んでいます。私は昔から病院が嫌いで特に新薬はなるべく飲まないようにしてきました。
薬を飲んだからといって症状を抑えることはできても病気は治っておらずなんとか病気を治す方法はないかとネットで調べていて松本漢方クリニックを知りました。そして松本先生の言われる病気は医者が治すのではなく自分の免疫力が治すのだという言葉を目にした時コレだと思いました。
さっそく大阪を訪れ診察していただきました。漢方薬を処方してもらい現在に至っています。最初の2ヵ月は何の変化も無かったのですが3ヵ月を過ぎた頃から体の痛みが減ったように思います。まだ完全ではありませんが完治の日も近いという期待をもって日々頑張っています。またご報告させていただきます。松本先生これからもよろしくお願いいたします。