「私のリウマチ闘病日記~この病気を甘く見ていた自分編~」
43歳2004年2月29日
43歳2004年2月29日
<平成13年11月>
私がその異変に気付いたのは、金沢のホテルでした。中学校の音楽教員をしている私は、前日から県外研修で、先輩の先生方と10人ほどで出張に来ていたのです。昼間、市内の中学生の研究授業を参観し、夜は、輪島塗りがちりばめられた音楽ホールで聞いた、金沢の子供達の素晴らしい研究演奏の感動に浸りながら床に付いた、その明け方の事でした。
肘から二の腕にかけて走る鈍い痛み。鈍いとはいえ、継続的に来るその痛みは、もうその後の私の睡眠を妨げるのに十分な痛みでした。出張に来る前に終えた、文化祭の合唱コンクールの指導で、ピアノを弾き詰めだったからかなあ、それとも、パソコンで根をつめて仕事をしたせいで、腱鞘炎にでもなったかなあ、といぶかしく思いながら朝食へ。
同僚にその痛みのことを話すと、「それって、もしかしてリウマチじゃないの?」何でも関節が酷く痛み、曲がらなくなる病気、という程度の知識しかなかった私ですが、明け方のあの嫌な痛みと同僚の口から出たその病名が、妙に私の中であまりにもぴったりときて、嫌な予感がしたのを覚えています。
<平成13年12月27日 人間ドックへ>
消化器系も呼吸器系も「異常なし」の私の血液検査の結果を見ると、何と
RF(リウマチ因子)48>12~15 H
と書いてあるではありませんか。しかも正常値の3倍以上。高値を示すHighの頭文字「H」が、無常のも私の心に突き刺さりました。「要検査」の診断を受け、とにかく大きな病院できちんと精密検査をしてもらおうと思い、すぐさま名古屋のH大病院へ。
誰の紹介状も予約もなく行くと、こんなに待たされるのかというくらい待たされたあげく「この数値で、しかも痛みも無いのに、リウマチだとは診断出来ない。」と言われ、「でも先生、このCRPっていうのも0.8で、ちょっと高いですよね。」と聞いたのがいけなかった。「私の診断が信用出来ないのか。これくらいの数値なら、風邪をひいてもなる。3月頃、痛みが出たら、その時来なさい。」初めて診て頂いたお医者様から、こんな風に怒鳴られた事がかつてなかった私は、「もう二度と大学病院へなんか行くもんか!」と肝に銘じました。(朝の9時前に来て、昼食も食べずに、午後まで待ったのに・・・・・)
実は、この一週間前に、39度台の熱を出していました。風邪だったと思うのですが、その時、今まで体験した事もないほどの全身の関節という関節が砕けそうな痛みと悪寒にうめきながら、やっとの思いで受話器を手に取り、母に来てもらったのでした。今思えば、この時私の体の中では、すでにリウマチ因子達が悪さを働いていたのだと確信しました。
<平成14年6月27日>
地元の整形外科に通院しながら、定期的な血液検査や腕のマッサージをしてもらっていました。とにかく左右どちらと言わず、腕が常に極度の筋肉痛状態。かんかんに張って、毎日でも揉み解してもらいたいくらいでした。
ただその整形外科の先生が、私の両肘や両手の指や頚のレントゲンを撮って下さった所、頚椎に少し歪みがあり、腕の痛みは、数値からしても、リウマチというよりは頚椎の歪みから来ているのでは、と思われたようでした。
半年ほど経った頃、前任の校長先生とお話しする機会があり、ひょんなことから、私が自分の病気への不安をもらすと「実は、僕の女房がそれと同じ病気でなあ。色々な病院へ行って、強い薬の治療もしたが、インターネットで松本漢方クリニックの事を知り、最後の賭けだと思って大阪に行くようになった。一時は、タオルも自分で絞れず、入浴の手伝いをしたり、明け方になると痛んで曲がってしまう手首に、毎晩添え木を当てて包帯を巻いてやる事もあった。」とぽつぽつ話して下さいました。ところが、その奥さんが愛猫を抱いて、お盆でお茶を運んで下さった姿を見て、私は驚きました。「たった1年で、こんなにも良くなるんだ。その松本先生って、どんな治療をされるんだろう?とにかく凄い!」「浅場さんなら、まだ強い薬を体に入れていないし、症状も軽いから、今行けば、早く治るよ。」校長先生のこの言葉で、私は、大阪行きを決意しました。
ただ奥様が、私に、「毎日めいっぱい仕事をして、帰って来てから、食事の支度や洗濯物の始末と平行して、煎じ薬やお風呂の準備をするのは、生活のペースを掴むまではちょっと大変かもしれないわね。順調な滑り出しが出来るように、夏休みから始めては・・・・・」と配慮あるアドバイスを下さいました。母子家庭で、中学3年生を担任していた私は、学期末の忙しい時期だった事も考え、インターネットのページを読みながら、その日を待ちました。
<平成14年8月4日>
漢方薬の匂いが充満する待合室で、たくさんの人の手記を読みながら、松本先生にお会いするのをわくわくして待ちました。
これまでの既往症やその際の服薬についてなど、細かく問診され、最後に、「僕が必ず治してあげますからね。」と固く握手をして下さいました。松本先生の話しっぷりは、終始情熱的で、誠意に満ち溢れていました。
織田先生には、元気が出るお話をBGMにして、全身に鍼とお灸をして頂きました。この仕事で溜まったたくさんのストレスを吐き出させて頂き、病気の治療だけでなく、先生との会話は、私にとっては、大切な心の治療にもなっています。
<平成14年10月6日>
人間ドック以来、私のRFは、最高56まで跳ね上がりましたが、この時の通院で行った血沈の結果は、RF45。でもCRPは、常に0.1前後。炎症反応が出ていないのに、指や肘の付根の痛みを自覚するようになりました。それを電話で松本先生に伝えると、「今、一生懸命に戦ってくれているんだから、このまま頑張りや。お灸もちゃんとやらなあかんで。」と、何時ものように熱く励まして下さいました。
3学期、受験の時期から卒業式にかけては、もう帰宅が連日9時、10時。土・日も仕事の為、学校へ。松本先生の所へは到底行けず、煎じ薬を煎じる時間も体力も危うい状態でした。(この頃は、朝と夜に飲むのが精一杯でした。)
でも「今年の春は、生徒達を全員希望校に入れるんだ。」と心地よい緊張状態の中での仕事に夢中なあまり、この冬はそれ程痛みが気にならず、生徒達と合格を共に喜び合う3月末には、暖かい春の陽気や木々の息吹にも助けられ、私のRFは、何と33までに下がっていました。
<平成15年4月5日>
松本先生のところへ行った時に、「アトピーは出てきたか?」と聞かれました。インターネットにも書いてあるように、この病気は、リウマチの抗体がアトピーの抗体に変わってくると、病気ももう最終戦にさしかかっているのだそうですが、残念ながら、私にはまだそういう症状は現れません。それでも、私のRFの値は順調に下がり、気候も良くなってきたのと併せて、初の学年主任という立場が、私に新学期の心地よい緊張感を一層抱かせました。
けれども、この「初の学年主任」が、この後で、とんでもないストレスを生む原因になろうとは、誰も知りませんでした。
<平成15年7月20日>
素直で元気な中学1年生との1学期は、とても充実したものでした。あるクラスを除いては・・・・・
夏休みに入ったこの時期の来院時の数値は、RF 23、血沈 4で、痛みもほとんど忘れていました。人間ドックで学習した正常値の12~15以下まで、あとわずかでした。
でも今から思うと、この時の私は、油断していたのかもしれません。毎日暑いからとシャワーばかりで、薬湯風呂をさぼり、痛みが無いからと、お灸もほとんどしていない状態でした。
<平成15年9月3日>
事件は、2学期明けてすぐにおきました。実はこの時、隣のクラスでは、1学期から「いじめられている気がする。」と言って、不登校気味に陥っていた生徒がいたのですが、この日、久しぶりに登校してきたのです。保健室に来たその生徒は、私から見て、顔色も悪くなく、額に手を当てても熱も無く、暗い表情も見受けられませんでした。久しぶりに頑張って登校してきた事を褒め、「次の6限は、浅場の音楽の授業だよね。この体調なら大丈夫。さっ、先生と一緒に頑張ろう!」と本人の話を十分に聞いてあげないまま、送り出したのがいけなかった。
「帰宅後、隣のクラスの教師から、担任でも養護教諭でもないのにいい加減な対応をされ、息子がもう学校へ行きたくないと言っている。こんな感性の低い学年主任は、もう降りろ。」と、父親の逆鱗に触れた怒りの電話。おっしゃる通り、私の配慮が足りなかった。事件は、担任や校長先生も巻き込み、大事に。数度にわたる家庭訪問や、その父親との懇談で、私の神経はもうへとへとでした。何よりも私を悩ませたのは、更に噴出す隣のクラスの生徒による、別のトラブルへの対応でした。
秋の合唱コンクールの頃には、身体が2つあっても3つあっても足りない忙しさ。毎日イライラと気持ちが高ぶっていた気がします。
11月の終わりに行った人間ドックでは、何という恐ろしい事か、RFが54にまで跳ね上がっていたのです。しかも今度は、「2個の子宮筋腫」というおまけ付です。
私は、この病気がストレスと直結している怖さを、つくづく身にしみて感じさせられました。
<平成15年12月20日>
この暮れは、年賀状を書く気にもなれず、それでも忙しさとイライラと自信喪失のトリプル状態の中、何とか松本先生の所へ。
5ヶ月ものブランクと、事件後の血液検査の結果(先生には、まだ打ち明けていない)を、私は密かに恐れていました。私にとって、辛くて長かった2学期の人間ドック以来の数値が、ここで何と出るのか。RFは37。先生からは「油断したらあかんよ。まだ残党がいるからな。」
54からは下がっていて、ほっとしましたが、はっきり言って、私の心はもう、残党に打ち砕かれそうな状態だったのです。「病気に立ち向かう気力を、無くしました。」なんて、口が裂けても言えません。どんな状況であろうと、そんな弱気でいては、この病気に勝てないんだと、頭では分かっているけれど、私の心のどこかに、「病気は、ちゃんと先生が治してくれる・・・・・」という甘えの気持ちがあったのは事実です。私は恥ずかしい事に、この時、「自分が治してみせるんだ」という主体的な自分というものを忘れてしまっていたのです。
こんな私なのに、織田先生は、鍼とマッサージの後に、素敵なXマスプレゼントを下さいました。シルクの暖かなレッグウォーマーとネックウォーマーでした。
発病以来、この冬が最も痛みました。手の指や肘はもちろん、腰まで痛みを覚える時もあるようになりました。以前から、地元でも週に1回は鍼に通っていますが、自分でもお灸をしたり、薬湯風呂でマッサージをし、入浴後は、欠かさずレッグ&ネックウォーマー、更には、手袋に足下の電気毛布といった完全装備で、すぐに床に着くよう心がけました。(それまでは、洗濯物をたたんだり、持ち帰りの仕事をしたりで、12時前に寝る事はまずありませんでした。)
<平成16年2月15日>
学年末テストと学期末の成績処理の間に少し時間が取れそうなので、予約の電話を入れた時の事でした。薬の注文を済ませ、松本先生に繋いで頂き、痛むところを聞かれ、「ひじや指、最近は、腰も痛む時があるんですけど・・・・・」もうこの一言で、先生は、これまでの私の病気への構えの甘さを、ちゃんと見抜いていらっしゃいました。「真剣味がないよ。本当に自分の病気の事を考えているのか。薬だって、前に来た時からどれだけ経っていると思っているんだ。もうこの電話を最後に、縁を切ったっていいんだから。」とまで言われました。暮れに先生とお約束したこの手記も、ずるずると延ばし延ばしにしていた自分です。返す言葉もありません。ひたすらお願いして、お薬を送って頂いたのでした。
翌日、生徒達のノートや生活記録に朱書きする時間から、わずかな時間を捻出して、手記をパソコンで打ち始めていると、若い先生が、「浅場先生、それ何の仕事ですか?」と聞かれ、これまでの事を話すと、「へぇー、今時、そんなに熱く叱って下さるお医者様がいるんですか。先生、それって有り難い事じゃないですか。頑張って下さいよ。」私は、恥ずかしくなりました。彼女にも、これまでの自分にも・・・・・
正直言って、松本先生や織田先生に言われる事を、100%実践するのは、今の私にはとても難しいことです。けれども、A4サイズたった4枚の原稿を、実際にこうして2週間かけて書いてみて、(正直、この時間を生み出すのは、結構しんどかったです。)もっともっと自分の病気の為にも、家族の為にも、生活の仕方や心構えを(ある程度、病気中心に・・・・・先生が言われた真剣味とは、そういう事なんじゃないか)変えていかないといけないと思いました。
普段、生徒達に偉そうな事を言っているのに、松本先生からの宿題もちゃんと出来ない、こんな不良生徒(患者)の私ですが、松本先生、見捨てないで、今後もご指導下さい。よろしくお願いします。