ここでは今、私が勉強中、研究中の曲やお気に入りの曲などご紹介します。
特にフランス音楽(主に声楽曲)は力を入れてご紹介しますね。
モーリス ラヴェルについて
このホームページのタイトル、「ラヴェルに恋して」のラヴェルについて説明します
まずは彼の生涯です。結構『山あり谷あり』の波乱の人生です。
ラヴェルは1875年3月7日にフランス南西部、スペインに程近いバスク地方のシブールでうまれる。母はバスク人、父はスイス出身の発明家兼実業家。その後家族はパリに移住する。音楽好きの父の影響で7歳でピアノを始め、12歳で作曲の勉強を始める。その後パリ音楽院で14年間学ぶ。その間、フォーレやペサールのもとで学んだ彼は多くの革新的な芸術家と行動を共にし影響も受ける。
1900年から5回にわたってローマ大賞に挑戦するが、入賞は何回かあったものの大賞は逃す。
1905年は年齢制限による最後の挑戦だったが予選の段階で落選する。すでに彼の代表作品である超有名なピアノ曲『水の戯れ』や『亡き王女のためのパヴァーヌ』(きっと皆さんどこかで聞いた事があるはず!)などを発表していた彼が予選落ちした事は音楽批評家の間で大きな波紋を起こし、フォーレやロマン・ロランたちも抗議を表明。この時の本選通過者6名すべてがパリ音楽院作曲家教授で審査員シャルル・ルヌヴー門下であった事が公正面からも問題視された。俗名「ラヴェル事件」といわれるこのことによってパリ音楽院院長のテオドールデュボワは辞職に追いやられ、フォーレが院長になり、パリ音楽院のカリキュラム改革に乗り出した。
1907年、歌曲集『博物誌』(そのうち紹介しますね)の初演の後、エドアール・ラロの息子ピエールラロがこの作品をドビュッシーの盗作として非難し、論争が起こったが『スペイン狂想曲』が高い評価で受け入られるとすぐに批判はおさまった。1909年、彼は国民音楽協会と決別し、シャルル・ケックマン達と現代的な音楽の創造を目指す団体『独立音楽協会』を作った。
第一次世界大戦中はトラック輸送兵として砲弾の下をかいくぐって資材を輸送するような危険な任務を背負っていた。
第一次世界大戦中の1917年1月15日、最愛の母がこの世を去る。このことで彼の創作意欲は極端に衰えた。1914年にはある程度作曲していたピアノ組曲『クープランの墓』を1917年11月に完成させたほかは3年間にわたって実質的な新曲は生み出されず、1020年以降も創作ペースは年一曲と極端に落ちてしまった。
1920年、ラヴェルはレジオンドヌール勲章叙勲者にノミネートされるもこれを拒否したため物議を醸し、結果的に公教育大臣と大統領によって叙勲は撤回された。
1920年代のフランスではもはや彼の音楽は最先端ではなくなっていた。サティを中心とする「フランス6人組」の登場や、調性を越えた音楽、ジャズの影響など新しい音楽の広まりによりラヴェルの創作活動は低調になって言った。
1928年、彼は初めてアメリカにわたり、4ヶ月に及ぶ演奏旅行をした。彼はここで黒人霊歌やジャズ、ヨーロッパとは違う町並みや人々の営みなどに大きな感銘を受けた。この演奏旅行は大成功に終わり、彼の名声は世界に鳴り響き、同年、オックスフォード大学名誉博士号を授与される。
帰国後、以下の4曲しか生涯ラヴェルは残しませんでした。1928年『ボレロ』、1930年『左手のためのピアノ協奏曲』、1931年『ピアノ協奏曲ト長調』(のだめの映画でも演奏されました。あの鞭の音から始まる曲です。)、1933年バリトンのための歌曲『ドゥルシネア姫に心を寄せるドン・キホーテ』(私のお弟子でしたが、人間的にも尊敬する今は亡き手島さんの最も得意とする曲でした。80代まで歌ってらっしゃいました。懐かしい。)
1927年ごろからラヴェルは軽度の記憶障害、言語障害に悩まされていた。1932年にパリでタクシーに乗っている時、交通事故に遭い、これを機に症状が悪化していった。
1933年11月、パリでの最後のコンサートを行い、『ボレロ』などの指揮をするが、この頃にはお手本がないと満足に自分のサインもできないほど症状が悪化していた。
1934年には周囲の勧めでスイス、モンペルランで保養していたが一向に健康が回復せず、悪化の一途をたどった。1936年には周囲との接触を避けるようになり、家の庭で一日中椅子に座りボーっとしているのみ。たまにコンサートなどに行っても無感動な反応だった。しかし突然癇癪を起すなどして、周囲を困惑させた。
そんな中にあっても彼はいくつかの曲の着想を得ていたが、それを書こうにも一文字も書き進める事が出来なかったという。彼はあるとき友人に泣きながら「私の頭の中にはたくさんの音楽が豊かに流れている。それをみんなに聴かせたいのにもう一文字も書けなくなってしまった。」と嘆いた。
1937年12月17日に脳の手術を受けた。これは神経学博士の診察を受け、この博士の勧めで手術を受けたものだったが、脳の左側の症状にもかかわらず、右側を開けてしまい、萎縮した脳を膨らまそうとして水を注入するなどほとんど無意味な手術であった。手術後、一時的に容態は改善したが、間もなく昏睡状態に陥り、意識が戻らないまま12月28日に息を引き取った。62歳であった。葬式にはミヨー、プーランク、ストラヴィンスキーらが立会い、パリ西北郊のルヴァロワ=ペレに埋葬された。
ラヴェルは一生独身で、弟も子どもをもうけなかったため、1960年に弟のエドゥワールが亡くなり、ラヴェル家の血筋は永遠に途絶えた。
晩年をすごしたラヴェル最後の家は現在ラヴェル博物館になっている。(行きました!ラヴェル好みの小物に囲まれたとても可愛らしい家です。ラヴェルはとても小柄だったので、自分を少しでも大きく見せるように、家も、家具も小さく出来ています。椅子など家具には彼自身がペイントしています。ピアノも弾いてきました。温室のガラスが割れていたけど、もう直したかなあ?)
この写真はそこの庭でのラヴェルです。
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