その10
ダーリンの勉強は、着々と進み、時々行われる模試には全国で一桁の順位を毎回取るようになっていました。
これなら一発合格も夢ではありません。
中小企業診断士になるには2通りの方法があります。
1、国家試験を通過して合格したら中小企業診断士になる(1次、2次、3次試験がある。)
2、中小企業大学校に1年間通い、修了すると中小企業診断士になる
2は1年間通えばほとんどの人が中小企業診断士になれます。
しかし、中小企業大学校はなかなか民間人への間口が狭いのです。
ほとんどが国家公務員、地方公務員、またはそれに準ずる、たとえば商工会議所職員などです。
また、民間人も99%が銀行などに勤めている人で、企業から送られてくる人です。
個人が大学校に入るのはほぼ不可能なのです。個人はほぼ排除という事なので、1の試験に通ることしか考えられませんでした。
試験日は夏の暑い最中でした。
この年の暑さは本当に以上でした。
ポンポンは時々おしっこが出ない時はありましたが、何とか無事で生活してくれています。
ダーリンとわが家の猫たちは真の親子関係を結んでくれて、イチャイチャ暮らしていました。
しかし、この暑さがポンポンの体調を崩していきました。
尿路結石から慢性膀胱炎になってしまったポンポンはついに膀胱がんになってしまったのです。
そして、私たちの願いもむなしく、7月21日に亡くなりました。
私とダーリンの腕の中で、がんの痛みと戦って、亡くなりました。
獣医の山根先生に八千代市にある霊園を紹介していただき、ポンポンを火葬してもらう事にしました。
猫との別れは初めてです。
火葬した後、この霊園に埋葬してもらうのだろうなと思っていました。
この霊園にはたくさんの愛犬、愛猫が埋葬されています。
みんな、飼い主さんに愛されて、幸せに暮らしてきた子たちばかりでしょう。
でも、私はポンポンを手放したくない。
ずっと一緒に居たい。
私があまりにも嘆き悲しんでいるので霊園の方が
「ペットの遺骨は人間と違って、家にずっと置いておいてもいいんですよ。」と言ってくれました。
もしかしたら私があまりにも嘆くので慰めるために行ってくれたのかもしれませんが、救われました。
これからもポンポンと一緒にいられると思うと、気持ちがすっと楽になりました。
その11
並オカメインコのトンちゃんは無事冬を越し、祖母の「ドバト発言」が嘘みたいに美しい鳥に育ちました。
ダーリンの事が大好きで、いつもダーリンの事を見つめています。
後ろに気配を感じると、トンちゃんがいつもダーリンを見ているのです。
トンちゃんの籠はピアノを置いてある部屋にあります。なので、彼はいつも音楽と共に過ごしていました。
音感もリズム感も素晴らしいです。
次の冬に、親友の珠美さんと3人でスキーに行くことにしました。
私はスキーをやったことがないのですが、ダーリンも珠ちゃんも「大丈夫だから、行こう!」と言うのです。
一泊二日のスキー旅行を計画しました。
大ちゃん(シャムネコの大介)とトンちゃんを実家に預け、信州にスキーに出かけました。
私はスキー板を置いたとたんに、「こりゃだめだ!」と感じました。
また、板を『ハの字』において滑り始めてしまったので「股が裂けますよ」という状態になってしまって、ひどい目に会いました。
「私は適当に時間をつぶしているので、珠ちゃんと準ちゃんは好きに滑ってきて」と言って二人を行かせました。だって、せっかく来たのに私のために滑れなかったら気の毒だから。
なんだか、寂しくなってしまい、涙が出てきました。こんなに可愛い子が泣いているのに、誰一人声をかけて来てくれません。スキー場で泣くと涙が凍って、ガジガジになり、ひどい顔になります。
ケチケチツアーだったので「アフタースキーはホテルで楽しもうぜ!!!」とはいきません。宿泊は民宿だったので、アフタースキーは、
『将棋くずし』をずーっとしていました。あの、ピチっとなったら負けという地味なゲームです。
次の日の午前中は「私は民宿で待っているから、珠ちゃんと準ちゃんは滑ってきて」と二人を行かせ、私は民宿で漫画を読んで過ごしました。
そんな、ひどいスキー体験だったので「私は一生、スキーはやりません!!!!」と言い切りました。
それ以来、私はもちろん、ダーリンもスキーに行っておりません。
1泊2日のスキーツアーから帰って来て、実家に預けていた大ちゃんとトンちゃんを連れてくると・・・
陽気な口笛が・・・・
どうやら、父がトンちゃんに口笛を教えたらしいのです。
タッカタッカ タンタン タッカ タンタン のリズムです。
これ・・・本当に・・馬鹿らしいのですが・・でも、私は父のこんなところが好きなのですが・・・
私の父が「ポンポンちゃん ポンポンちゃん」と連続して呼んでいると、いつの間にか「ポンポンちゃん」が
「んちゃポンポン」に入れ替わっちゃったらしいんです。
それが面白かったらしくて「んちゃんちゃ ポンポン んちゃ ポンポン」と歌になりそれを口笛にしてトンちゃんに教えたらしいのです。
たった、一泊二日でトンちゃんは日本一の口笛奏者になりました。
そこからは、例えばテレビでフルートの音が聞こえると、つられて、すぐに演奏が始まります。
ほとんどが『んちゃポンポン』のアレンジですが、作曲もします。
しかし、あまりアレンジをし過ぎるとオリジナルが崩れますので、時々、父にレッスンをしてもらってオリジナルに忠実に演奏が出来るように心がけました。
まあ、私たちが旅行に行くときは実家に預けていたというだけの話です。
その12
ダーリンは見事、一次試験を通過しました。
次は2次試験だ!という時に
「中小企業診断士と言う資格は役人や商工会議所、銀行員などが持っていれば有効だが、一般民間人が持っていても資格を生かしきれないという事から大学校はなかなか民間人を入学させてくれないのだが民間人が入れる可能性は0ではない」と、父がアドバイスをくれました。
どうやら、父もいろいろと調べてくれたようです。
ただ、民間人は『排除』という暗黙の了解はあったのではないでしょうか?(私だけの考えです。関係者さん、違っていたらごめんなさい。)でも、受験料を払えばいいだけの話なので、ダメもとで受けてみよう!という事になりました。
我が夫をこんなに褒めるのはどうかと思いますが、彼はやりました。
狭い間口をこじ開けて、中小企業大学校の診断士コース、鉱工業コースに入りました。
コツコツと勉強した花が咲きました。
ここで一年間、みっちり勉強することになります。
同期は彼以外はほとんどが役人、そして数人の銀行員です。この時の素晴らしい仲間、先生が彼の財産です。
合格のお祝いに長崎に旅行に行きました。
そこで『長崎バイオパーク』に行き、「こんな楽しかったことは初めて!!!」というくらい楽しみました。
ほとんどの動物が放し飼いなのです。
カピバラにも触っちゃったし、リスざるは肩に乗って来るし、ペリカンは勝手に私たちの後をついてくるしなどなど
一昨年、(2012年)母と長崎バイオパークに再び行きました。
でも、だいぶ制約が多くなって、前ほどは楽しめませんでした。
よき時代だったんだなあ。
昔の方がよかった!
そんな年よりじみた感想が出てしまいます。
私たちの新婚旅行は中国でした。
「中国の写真を見ているとなんだか懐かしい。きっと私の前世は中国人だったんだ。だから前世をたどる旅をしたい」
と言って、新婚旅行先を決めました。
1986年、この時の上海は戦前の『魔都』の雰囲気を残した、ミステリアスなところでした。
その後、20年くらいたってから行った上海は「東京と同じでつまんない!」ただの立派な大都市になってしまったのでした。
ダーリンが大学校に通うようになって、私はお弁当作りに精を出しました。
「あっ」と驚くお弁当を毎日作るのです。
たとえば恐竜の卵のようなものを作ったり
(1、かた茹で卵を作る。
2、ケチャップご飯を作っておく
3、かた茹で卵のまわりにケチャップご飯をくっつける
4、小麦粉、溶き卵、パン粉をまぶし、油で揚げる)
この気持ち悪い卵は何の卵?というものを作ったり
(1、茹で卵を作り、殻をむかないでヒビだけ入れる
2、みどり色の食紅を溶いた水の中に1のひび割れ卵を漬けて一晩おく
3、殻を取ると、ひび割れのところに緑の筋が・・これが非常に気持ち悪い)
お弁当のふたを開けるとご飯しか入っていないように見えるお弁当を作ったり
(おかずをすべて下にひいて、その上に白いご飯で覆う)
真夏は食中毒が怖いので止めていましたが、せっせとお弁当作りに精を出した妻の鏡のような生活でした。
その13
シャムネコの大ちゃんは愛情深くて、きっと、ネコの事をあまりよく知らない人は「えっ?猫って家に付くって言うけれど、こんなにも人間に懐くの?」とびっくりするでしょう。
人間と犬の関係は『主従関係』
人間とネコは『親子関係』なのです。
ちなみに、(私の意見です)人間と馬はその中間ですかね?
ポンポンも大ちゃんも、きっと「僕たちとパパやママは少し違うけれど、それは僕たちがまだ子供だからなんだ。そのうち成長して
パパやママみたいになるんだ」と本気で思っていたようです。
大ちゃんは私の事もダーリンの事も大好きでした。
ポンポンは布団の中にもぐって、ダーリンの股の間にすっぽりはまって寝ていました。
大ちゃんは私のほっぺに大ちゃんのほっぺをつけて寝ました。
時々、目が合うと、私の顔を『毛繕い』してくれます。
おでことか硬いところは我慢できるのですが、ほっぺなど柔らかいところは、あのザラザラした舌ではたまったもんではありません。
「痛いよお」と言うと、ダーリンは「愛情表現なんだから我慢しなさい」と言います。
でも、我慢にも限界があります。もうダメ!!!ごめん、大ちゃん、毛繕い、終わり!!
大ちゃんは別名『雅子のヨダレ拭き』とも呼ばれていました。
ずっと、私の顔に頬をつけているので、私のヨダレが付いちゃうのです。
そして、『わが家のお手拭』とも呼ばれていました。
食事をする、丸テーブルに大ちゃんは寝っころがります。
そこで私たちは食事をするのですが、フライドチキンなど手を使って食べる料理は、大ちゃんの体で拭きます。
現在、馬におやつをあげて、馬のヨダレでぐちゃぐちゃになった手は馬で拭くのはこの時の名残です。
お酒を飲む時、なにもつまみがないときは、それこそ、大ちゃんをつまみにします。
食べるわけじゃないのです。大ちゃんのお腹を摘みながらお酒を飲むのです。
また、ネコの肉球はおつまみの匂いがしますので、それを嗅ぎながら美味しいお酒が飲めます。
彼は演技派なのです。
ダーリンが仕事で外出の間は普通に振舞っていますが、玄関のカギを開ける音が聞こえると
私の膝にすっ飛んできて、思いっきり甘えます。
そうして、ダーリンをチラチラ見るのです。
「僕とママはパパがいない間、こんなにもイチャイチャしていたんだよ。」と見せつけるのです。
こんなベタベタ親子でした。
ある日、珠美さんが「雅子さん、ミスディオール付けてる?」と言うので「うん、ここのところずっとそうよ」と答えると
「そうか、私はずっと大ちゃんの匂いだと思っていた!雅子さんの香水が大ちゃんに付いていたのね。」
大ちゃんは12月が嫌いでした。
なぜなら、私たちが大掃除をして大ちゃんをかまわないからです。
ストレスがたまって、お尻に力が入り、必ずお尻の脇が穴が開いてしまい膿が出るのです。
毎年、必ずこんな理由で年内最後の病院通いをしました。
弟に「大ちゃん、お尻に穴が開いちゃって」というと「普通、開いているだろう」と言われました。
私たちがダイビングに行っている間、実家であずかってもらっている間「つまんない」とホットカーペットの上から動かなかったらお腹
に低温やけどをしてしまい、大変だったこともありました。
こんな風に18年間、ずっと一緒でした。
その14
大ちゃんは3か月に一回、健康診断に山根先生のところに行きます。
悪いところはどこもないのですが、念には念を入れます。
ある日、山根先生が大ちゃんを診察しながら
「橋爪さんちには大ちゃんがいるからなあ・・・・ブツブツブツブツ」
と独り言を言っています。
「なんですかあ?」」と聞くと
「実は病院の入口に段ボールの中に捨て猫があったんだよ。チンチラペルシャと、ベルシャのタビ―、それとものすごく大きな日本猫」
「ちょっと見せてください」
山根先生はチンチラペルシャをわが家の養子にと考えていたようです。しかし、私は隅でふるえているペルシャのタビ―が目から離れません。まるで「僕を救いだして」と訴えているようです。
後で知ったのですが、チンチラペルシャと巨大日本猫がペルシャのタビー(のちの三郎)をいつもいじめていたのでした。
「もしかしたら大ちゃんのお友達になってくれるかもしれないので、もらっていきます」と私は決めてしまいました。
ポンポンと大ちゃんが仲良く暮らしていたあの頃をもう一度見てみたかったのです。
大ちゃんが三郎を受け入れてくれたら、大ちゃんも私たちが留守の間、寂しくないでしょうし。
三郎は、玄関から入ったところに、つないでおきました。
そうして、私はダーリンに「この子は三郎と名前を付けました。山根先生からいただいた子です。」とメモを書いて、仕事に出かけました。
仕事は実家でピアノを教えていたのですが、そこにダーリンからものすごい勢いで電話がかかってきました。
「後で事情を説明するから」ととりあえず切りました。
ダーリンが仕事から帰ると、「ガサガサ!!」と物音がしたようです。
夕方で、家の中は真っ暗だったようで・・・・
ダーリンは「どろぼう!!」と思ったようでした。
息をひそめて様子を見ると、どうも人間では無いようです。
そこで、明かりをつけると、毛むくじゃらの猫がいたという事です。
「出会いが悪い!!!」とダーリンは結構長い間、この時の事を怒っていました。
三郎は3歳くらいの男の子です。
チンチラペルシャと巨大日本猫と3匹で飼われていたようです。
どういった事情でか飼い切れなくなって、山根動物病院の玄関に捨てられていたようです。
後に、チンチラペルシャは私の父の友人にもらわれていきました。
そして、三郎は・・・残念ながら、大ちゃんが「ポンポン以外の猫とは仲良く出来ない!!」と拒否をし、
私の実家で暮らすことになりました。
でも、私の両親や祖母たちが愛情たっぷりに育ててとても幸せな一生を送りました。
弟が結婚し、手伝いに来ていた祖母が来なくなってから、長毛種である三郎の手入れが行き届かなくなったので、わが家に引き取ることにしました。この年の1月にすでに大ちゃんは大往生をいたしました。
三郎を引き取って何日もしないうちです。
最期は心臓病で、あっけなくたった一日で亡くなりました。
その前の日にはダーリンの部屋に遊びに来て、最初の出会いのわだかまりも解け、これから仲良く家族になろうとした矢先でしたが。
大ちゃん、嫌だったのかなあ?
私たちが他の子とイチャイチャするのが。
焼きもち焼き屋さんだなあ。こんなに愛されているのに。
焼き場で「この子は、赤ちゃんの時に栄養が足りてなかったんですね。骨がボロボロです。」
可愛そうな三郎。3歳からは私の実家で悠々自適に暮らしていましたが、それまではいじめられ、辛い時間を過ごしていたのでしょうね。
山根先生のところに定期的に連れて行く時、山根動物病院に居残ったあの巨大猫の鳴き声を聞くと、一気に体温が上昇してしまいます。よほど怖い思いをしていたのでしょう。トラウマになっていたのでしょうね。
三郎の遺骨はやはりわが家にあります。
でも、魂はわが家でなく、祖母と共にいる気がします。
祖母が「さぶちゃん」と、本当に可愛がっていた子でしたから。
その15
大介は本当に愛情こまやかで、演技派で嫉妬深くて単純で複雑で・・・・・
本当に素晴らしいわが家の二男坊でした。
でも、時間は残酷なもので、お別れの時が近づいてきました。
1995年の12月も過ぎようとしていたころ、大介の食が細くなってきました。
そして、年が明けると、うつらうつらしてきて、そして食もかなり落ちてきました。
病院に連れて行くと「年だからね。老衰だね。だんだんこんな風に衰えていくんだよ。」と先生がおっしゃいました。
「純血種で男の子で18歳なんて見たことがない。素晴らしいね。」とも。
「すぐにってわけじゃないから」と慰めてもくださいました。
私は生きた気がしなかった。
毎日毎日、お別れがいつ来るのかが怖くて・・・・。
でも、決心したのです。
大介は元気で明るくて歌っている、仕事をしている私が大好きなんだから、仕事もちゃんとしよう、そして、普通に生活しよう。と。
先生はまだまだ時間があるっておっしゃって下さった。
『その日』をちゃんと迎えてあげよう。と私たちは心に決めました。
1996年1月21日は弟夫婦が結婚パーティーをした日です。
結婚式、披露宴は前の年の暮れに挙げましたが、私たちの時と同じで招待しきれなかった方々をお迎えしてパーティーを開きました。
たくさんの方々に祝福されて幸せそうな弟夫婦を見て幸せな気持ちで家に帰ってきました。
大介はうつらうつらしていますが、落ち着いています。
そうして、何と、あまり食べていないのに立派なウンチをしました。
私たちは「スゴイね、大ちゃん、こんなに立派なウンチが出たね。」と褒めました。
私たちは安心してお風呂に入り、幸せな気持ちでベッドルームに戻りました。
間もなく、大介の様子が急変します。
大介は私たちが帰って来るのを待って、息を引き取りました。
二人の腕の中で私たちの愛に包まれての最期でした。
火葬場で係りの方が大介のお骨を見て「立派ですね。何の病気もなかったでしょう。」と言ってくださいました。
本当に親孝行の息子でした。
その16
「その14」で書いたように、大介が亡くなってから数か月後に三郎も亡くなりました。
わが家にはトンちゃん一人(?)になってしまいました。
しかし、トンちゃんは元気です。
本当に陽気で、テレビでフルートや口笛の音が聞こえるものなら一緒になって歌います。
リズムカルな音楽が流れると止まり木の上でダンスをします。
なんて素晴らしいオカメインコなんでしょう。
祖母から『ドバトみたい』と悪口を言われた同じことは思えない美しい鳥になりました。
トンちゃんとの別れは突然やってきました。
トンちゃんはもう24歳になっていました。
オカメインコの年にしたら驚異的な長生きです。
「いつか、お別れする日は来るのだろう」と心構えだけは持っていました。
2010年の11月は袋田の滝がある茨城県の大子でコンサートの予定が入っていました。
そのコンサートを次の週に控えた11月6日の朝、
いつもと何も変わらなく元気にしていたトンちゃんが突然バタバタバタバタと羽を羽ばたかせ、
止まり木から底に落ちました。
びっくりしてトンちゃんを見ると、足が引きつっています。
あわてて、夫を呼び、トンちゃんを籠から出して手の中に乗せると、だんだん意識が遠のいていくようです。
私と夫は「トンちゃん」と呼びながら一生懸命彼の体をさすりました。
間もなく私たちの手の中でトンちゃんは息を引き取りました。
私と夫は、もちろんものすごく悲しいけれど、寂しいけれど「こんな幸せな事はない」とトンちゃんに感謝の言葉を何度も何度もかけました。
鳥が死ぬことを『落鳥』と言います。
犬や猫と違ってどんなに可愛がっている鳥でも死んで発見されるのが普通なんです。
それなのに、トンちゃんは私たちの手の中で息を引き取ったのです。
さすがに『お告げによってわが家に来た子』です。
小さな鳥でもお骨にしてくれるところを一生懸命探しました。
そこで、お骨にしてもらいました。
そこはすごいのです。
普通は火が強すぎて粉のようになってしまったり、真っ黒になってしまうのに、素晴らしい状態のままお骨のなりました。
「24歳だったんですよ」と係りの人に言うと「小鳥がそんなに生きるのですか!!」とびっくりしていました。
もし、一週間後になったら私たちは演奏会に行くために早く家を出なければなりません。
そうしたら、まさに『落鳥』の状態でトンちゃんを発見した事でしょう。
うちの子たちは本当に親孝行です。
素晴らしい!!!
ここからは昨年書いたブログを貼り付けます。
2000年くらいにわが家の庭にやってきたフェリーチェの事を書きます。
2013-09-28 11:59:10
テーマ:ペット
ホームページのコラムに私と動物との事を書いています。
今日も更新しました。
良かったら読んでください。
午前中に小学生のピアノの生徒さんがレッスンに来ました。
あとは4時までレッスンがないので書きながら泣いちゃっても、目の腫れはひくかな?
フェリーチェは約7年くらい前、彼女の意思でわが家で暮らすことになりました。
一つだけ問題があります。
わが家には当時、トンちゃんというオカメインコがいました。
結婚した1986年に『夢のお告げ』があってわが家に来た子です。
そのお話はおいおいホームページのコラムで。
お野良の時、フェリーチェはスズメもトカゲも食べていました。
私のところに「雅子さんは狩りが下手そうだから捕ってきてあげたわ。食べなさい」と目の前にポトンとスズメを落とされたこともあります。
私はキャーと悲鳴をあげ、2階のベランダに上って(近所中に響き渡る声で)「私はこう見えてもスズメは食べないのよ。食べられないのよ!!!!!」と叫んでいました。数分間、フェリーチェは「食べなさいよ。食べてみたらおいしいわよ。」と私とスズメを交互に見て食べるように促していましたが、私が食べないのを悟るとペロリと食べてしまいました。何一つ残りませんでした。羽一枚さえも。
トカゲも食べていました。フェリーチェの口から尻尾がスパゲッティのように一本出ていて、私が「あっ」っと言うとあわててツルリと口の中にしまいました。
そんな場面を見ているので、フェリーチェの事は信用できません。オカメインコのトンちゃんに対してです。
なので、トンちゃんのいる我々のベッドルームにフェリーチェはお出入り禁止でした。
トンちゃんがフェリーチェに食べれれてしまったら目も当てられませんから。
「ベッドルーム以外はわが家はどこでも好きな所をお使いください。自由にしてください。もうフェリーチェの家ですから。」
キッチンにフェリーチェのケージを置いて、その中にトイレを用意しました。
そこのトイレに連れて行き、フェリーチェの前足をもって砂を搔くしぐさをさせると、一回でそこがトイレとわかりました。
ご飯もキャットフードのみで満足しました。本当にまれに、たとえばお正月におせちの蒲鉾などをあげますが、一口味見をするだけで満足してくれました。きっとそれが長寿の秘訣でしょう。人間の味付けは塩分が多すぎますから。
トンちゃんは24歳で亡くなりました。びっくりするくらい長寿です。
亡くなったその日は、いきなりバタバタ羽ばたいて様子が変です。
籠から出してあげると私の手の中で私と夫に見守られながら命を全うしました。
鳥の最期を看取れるなんて奇跡のようです。
今、トンちゃんはお骨になってベッドルームにいます。
トンちゃんの肉体と魂が離れてから、フェリーチェはベッドルームに来るようになりました。
そしてずーっと入りびたりです。
トイレとご飯だけキッチンに食べに行く以外はほとんどベッドルームです。
ベッドルームには先代の猫たちやトンちゃんのお骨が置いてあります。
不思議な事に時々フェリーチェはそこをジッと見ているのです。
私はいつも感じているのです。高校1年生のころから私といつも一緒だった私の長男のポンポンちゃんが、フェリーチェがわが家の娘になることを許可したと。
なので、ポンポンがフェリーチェの事をいつも守っているし、アドヴァイスもしているって。
そして、フェリーチェはそれをいつもわかっている。
(お願いです。お骨を家に置いてあることに対して、意見は勘弁して下さい。
賛否両論あるでしょが、否と言う方の意見も分かりますけど。今は勘弁して下さい。)
今年の7月、フェリーチェの呼吸が少し荒くなりました。
病院に連れて行くと心臓の動きが良くないらしいのです。
しかも、車に乗せて病院に行くというのがかなりのストレスらしく口をあけてハアハアと今にも死んでしまいそうな様子になってしまったのです。
とりあえず、酸素吸入をし心臓の薬をもらって、週があけたら改めて検査という事になりました。
検査の結果、やはり心臓が悪いとの事。心臓が悪いので肺水腫という肺がむくんだ状態になっているので呼吸が苦しいとの事。それは心臓の薬とむくみを取るために利尿剤を飲むことでコントロールしていく。
血液検査ではとりたてて悪くないのだが、年齢によって腎臓が悪くなる可能性があるのでサプリメントで予防する事。
このような結果でした。
食欲もあるので、きっとこのままうまくコントロールしてこれから何年も一緒にいられるね。と思っていました。
しかし、次第にフェリーチェの食欲はおちていきます。
色々なフードをためしてみましたが食欲は戻りません。
フェリーチェは私に似てぽっちゃり体型です。(になりました)
体脂肪がたくさんあるから食べない日が続いても平気と思うでしょうが、実はそうじゃないのです。
太っている猫が何日も食べないと、自分の体脂肪を使うために腎臓にダメージを与えてしまうのです。なので、3,4日食べないという事は重大な結果を招いてしまうのです。
そこから私とフェリーチェの戦いが始まってしまいます。
ここだけです、後悔は。フェリーチェ、ごめんね、ママはどうしてもフェリーチェと一緒にずっと一緒にまだまだ暮らしたかったから・・・・
何としても食べさせようとする私と「もう食べたくない!」と言い張るフェリーチェ。
食べない中でも一番何とか興味を持ってくれたキャットフードをミルで粉にし、それを水で溶いてシリンジと言う針のない注射器で注意深く口の端から入れていきます。
いっぺんに入れすぎてのどに詰まらせたら大変なことになるので、すこーしずつ。
一日分のカロリーも計算して、何回も小分けにして。
次第に私とフェリーチェの関係が悪くなります。無理やり食べさせているからです。
病院の先生は「よく様子を見ていてください」とおっしゃいます。
しかし、私は普段から『よく様子を見ている』のです。
そんな私が『よく様子を見る』っていう事はどんなことかというと・・・・・
フェリーチェの身になると・・・・・
ストレスだったろうな・・・・
たえず、じっと見られて・・・・・
私は人からよく『明るくて、おおらかで』って言われます。
しかしすべての面がそうではないのです。
かなり細かい、融通の利かない面もあるのです。
『かなりおおらか』VS『かなり細かい』の両極端な人間です。
まあ、平均をとれば本当に『中庸』という素晴らしい結果が出るのでしょう。
今月に入ってから、手作りごはんのe-bookを買いました。
e-bookとはネットで配信される本の事です。
かなりの値段がしましたが、そんなことは言ってられません。
「ママは美味しいものしかフェリーチェに食べさせないよ」
骨付きの鶏肉から時間をかけてスープを取り、フェリーチェにシリンジで飲ませました。
「あら、美味しいじゃない」とまんざらでもない様子です。
しかし、お皿においても自らは食べてくれません。
上質のレバーも買ってきて裏ごしします。
これもいい感じ。
食が細くなってきているのと消化の良すぎるものばかり食べているので、5日間も便が出ていません。
エクストラ ヴァージンのオリーヴ油を大匙1弱飲ませると、1時間後にウンチが出ました。
少し硬いけれど、いいウンチです。
宝石のように美しいウンチでした。
消化吸収されています。
心を鬼にして食べさせて良かった。
しかし、これも永遠に続くことはなかったのです。
ここまで、やはり泣きながら、書いてしまっています。
あと1時間で生徒が来るので、続きはまたにします。
長々と付き合ってくださってありがとうございます。
昨日、久々に乗馬に行ってきました。
『いい奴 ルパン』と一緒でした。
その時の事も2,3日中に書きます。
2013-09-29 12:28:32
テーマ:ペット
この頃改めて、なぜテーマの設定時に『ペット』ってしてしまったのだろうと思います。
私はすべての動物を『ペット』なんて思ったことがありません。
読んで下さる皆さんがわかりやすいことが第一と考えたんでしょうね。きっと。
『ペット』と書いて『私の大切なもの』と読んでください。
一種のキラキラネームです。
今日は一気に書いちゃいます。
うんと長いのですが、良かったら最後まで読んでくださいませ。
7月、8月は何とか無理やりに食べさせて1日の摂取カロリーをクリアしていたフェリーチェです。
トイレと水飲みは1階にあるキッチンに行っていました。
そのためには階段を上り下りしなければなりません。
トイレを終えて2階のベッドルームに帰って来ると、なおさら呼吸が荒くなっているのです。
2階にトイレを移動しようかとも考えましたが、フェリーチェはわが家に来てからずっと同じ場所でトイレをしています。
トイレの場所を変えることはかなりのストレスになると考えました。
フェリーチェはわが家に来てからしばらくはキッチンにずっといました。
なので、秋になって、過ごしやすくなり状態が落ち着くまではキッチンで寝起きもしてもらう事にしました。
9月になり、ますますフェリーチェは食べることを拒否し、私の様子を戦々恐々と見ているフェリーチェの目に私は悲しみを感じました。
でも、食べてもらわなければ! 薬は絶対飲まさなければ!
手作りごはんをあきらめずに色々な食材を試しました。
それでも小康状態かな?と思われる日々でした。
私たち夫婦は「もう病院に連れて行く事はしない」と二人で決めました。
フェリーチェを苦しめることはもうできるだけしない事にしよう。病院に行くとそれだけで呼吸困難になってしまうから。車に乗せただけでもはや、今、ここで死んでしまうのでは!と言うくらいの状態になってしまうのです。
自宅での皮下点滴をやってみようか?とも考えましたが、それも時間稼ぎ。やはり、口から食べてもらうのが一番です。
関係が悪くなっても、もしかしたらフェリーチェの気が変わって自ら食べてくれる日が来るかもしれない。そのことに期待しました。食べさせることと、薬を飲ますこと以外は自然に任せようと二人で泣きながら決めました。辛かった。
元気なころのフェリーチェは可愛らしい舌をよく出していました。
気持ちよさそうにあくびした後、ついうっかり舌が[th]の発音時のように出っ放しの時があるのです。その時は「舌が出ていますよ」と教えてあげると恥ずかしそうにしまいます。
しかし、9月10日を過ぎたあたりから苦しそうに少しだけ舌を出すのです。開口呼吸まで行かなくても息苦しいのでしょう。
食べること、おしっこやウンチをすることも呼吸困難につながっていきます。
おしっこやウンチは我慢できませんが、食べることによって苦しさが増すことを経験で知ったフェリーチェはますます食べることを拒否します。
9月16日の夜、フェリーチェの呼吸がどうやったら楽になるのか、改善のツボや指圧といった方法があるのかネットで調べていました。
そうしたら『酸素室』というものを探し当てました。
費用だって私たちが払えない額じゃあありません。
夫にそのことを伝えました。
ただ、夫は「もう、そういう事をしないって決めたでしょ?」と言います。
一生懸命、説得して,やっと「じゃあ、もう、ここまでだからね。フェリーチェを苦しめることになるんだからね。」と了承してもらいました。
翌朝(17日)8時になるのを待ってすぐに酸素室をレンタルしてくれる会社に電話をしました。そして、その日の昼、1時に届きました。
すぐに入れると、フェリーチェの呼吸が整ってきます。
小さなアクリルの箱ですが、自分がここにいると楽だとわかったのか、落ち着いています。
はじめは反対だった夫も「酸素室を借りてよかった」と言ってくれました。
その小さな箱の中に私も入り、フェリーチェに食べさせます。
しかし酸素室2日目の18日、フェリーチェはとうとう「もう絶対に食べない!死んでも食べない!」と強い拒否を示しました。これ以上無理強いすると本当に死んでしまうかもしれないというくらい激しい拒否です。
私はやっと悟りました。
そして、自分の部屋に行ってノートに『フェリーチェの嫌がることはもうしません。」と泣きながら20回書きました。
お水は飲んでほしいので、ポカリスエットを薄く作り酸素室に入れました。そうしたら、自分からたくさん飲んでくれました。
19日はウンチをしました。ちゃんと消化吸収されているいいウンチです。量はいつもの半分ぐらいで固めでしたが。
ああ、きちんと胃腸は動いているんだ。食べてくれたらいいのに・・・でも、もう誓ったので無理やり食べさせることはしませんでした。
「よかったらここに置いておくから食べてみてね。」とレバーペーストを酸素室に入れました。
しばらくしてから見ると、フェリーチェの舌の形どうりにレバーが無くなっているところがあります。一口食べてくれたのです。
自分で食べてくれたのはいったい何日ぶりでしょうか。
本当にうれしかった。私と夫は抱き合って喜びました。
酸素室が来てから私はキッチンで寝ています。
時々、酸素室の中でも呼吸困難で、「今なの?」(体と魂が離れる時はフェリーチェ自身が決める事と私たちは悟りましたから)という場面がありました。
「もう頑張らなくていいよ。ママたちは幸せだよ。」と声をかけました。
20日の朝、私はシャワーを浴びに2階へ行きました。
3日間もキッチンの床で寝ているので背中ががちがちです。
シャワーの前にマッサージチェアにかかろうと思い、座りました。
マッサージチェアの正面には先代の猫たちのお骨が置いてあります。
私、感じたのです。
ポンポンが「ママ、何やってるの?フェリーチェはここに居たいんだよ。ベッドルームに居たいんだよ。キッチンなんかに居たくないよ。」って言っているのです。
あわてて、キッチンに行くとフェリーチェに付き添っていてくれる夫に今の事を話しました。
夫は「そうだね。じゃあ、ベッドルームに連れて行こう」と早速、酸素室ごと2階へ連れて行きました。
ベッドルームに着いたフェリーチェは目を細めて安心した様子です。
呼吸も落ち着いています。
いつものようにBSで7時30分からの『あまちゃん』を一緒に見ました。
フェリーチェはおばさんなので朝の連続テレビドラマが大好きなのです。
ああ連れて来てよかった。
『あまちゃん』が終わると、座り直しました。
おしっこをしたようです。
シートを取り換えてあげるとお水を飲みました。
そしてもう一度「うーん」と踏ん張って・・・・・
後で見たら、ウンチをひとかけら ダイヤモンドのように美しいウンチがお尻についていました。
その後、急に呼吸困難になって、夫と私の見守る中、体から魂が離れていきました。
ちょうど、7時50分頃でした。
ベッドルームに連れて来てわずか1時間ぐらいの出来事です。
フェリーチェはキッチンなんかで死にたくなかったのです。
トンちゃんが亡くなってからずーっと入り浸っていたベッドルームで私たちに見守られながら行きたかったのです。
私はバカだなあ、そんなことも分からなかったなんて。
その日は、私はがんばって仕事をしました。
大人の人の声楽グループレッスンです。
きっと、まぶたが泣きはらして・・・何かあったんだって皆さんお気づきでしょうが、武士の情け、聞かずにいてくださいました。
聞かれたら、大泣きしてしゃっくりあげて、せっかくフェリーチェが頑張ったのに、私が頑張れなくなるから。
その仕事が終わってから、ずっと私たち二人はフェリーチェと一緒でした。
素晴らしい最期に立ち会えたこと、何よりフェリーチェと一緒に生きてこられたことに幸せを感じて。
とっておきのシャンパンをあけました。
少しだけ、フェリーチェに飲ませてあげました。
21日も午前中からピアノのレッスンをしました。
いつもと変わらないように、頑張ったよ。
そして、4時にペットの火葬場に連れて行きました。
立派なお骨に夫は「フェリーチェ、本当に驚かしてくれるなあ!」と健康だった娘に声をかけました。あまりに立派なお骨だったので、少しも崩したくなくて大きな骨壺に入れてもらいました。
わが家で最初で最後の娘はどの子より大きな骨壺でみんなと一緒に並んでいます。
いいよね、一人娘なんだから。
火葬場から帰って来る車の中で気がつきました。
BSの『あまちゃん』の後は7時45分からイワゴウさんの『世界ネコ歩き』という番組なのです。
私たち夫婦はいつも「かわいい!!!」と言ってみています。
ちょうど、フェリーチェが苦しみだしたのはその番組が始まる時だったのです。
「きっと、私たちに他の猫の事を かわいい!! って言わせないために、あの時間を選んだんだね。」と二人で笑っちゃいました。
23日の月曜日の朝、いつものように『あまちゃん』を見て、きっと近くにいるはずのフェリーチェに「面白いね」と話しかけ、
画面に『つづく』がでた時、「他の猫の事、かわいい~って言っちゃおうかな」ってフェリーチェに意地悪言ったとたん!!!!!!!
『世界ネコ歩き』は終わっていて『心の旅』になっていたのです。
イワゴウさんもフェリーチェに負けたのです。カンペキです!!!フェリーチェ凄すぎ!!!!
金曜日に乗馬に行ったとき、私のブログを読んだコバヤシさんが「お彼岸に亡くなる子って言うのは本当にいい子なんだよ。仏様が守ってくれるんだよ。」って声をかけてくれました。
嬉しかった。本当に嬉しかったです。
24日から夫はほぼ一週間、九州と大阪で仕事でした。
私たちにとって一番恐れていたことは
朝起きてフェリーチェが死んでいたらどうしよう
仕事から帰ってきてフェリーチェが死んでいたらどうしよう
一人で不安と恐れの中、死んでいったらどうしよう
そのことでした。
でも、それもフェリーチェが決める事。
なので、夫に「もし、準ちゃんが出張中にフェリーチェが死んじゃってもそれは受け止めてあげてね。私はちゃんとやるから。」と話し合っていました。
これもバカでした。
もっと信用してあげればよかった。
私たちに見守られてその時を迎えるに決まっていたじゃない!
出会いから、何から何まで計算ずくの完璧なフェリーチェです。
『お見事!』まさに、その言葉です。
天使のような自慢の娘、今も私たちの周りに気配を感じます。
自慢の息子たちと一緒にパパとママの周りにいてくれるのですね。
長いブログに付き合ってくださってありがとうございます。
明日からは、いつものブログに戻ります。
11月には演奏会もあるし、優しいパパと元気なママがフェリーチェは大好きなんだから。
ワインでほろ酔いダーリンとフェリーチェ
2002年8月15日は私たち夫婦の初乗馬記念日です。
スリーピーとマックスに乗りました。
その数日前の新聞折り込みに『3日間で5級取得コース』という乗馬クラブクレイン千葉のチラシが入っていました。
私は小さいころから乗馬をしたくてしたくて・・・しかし、公園のポニーにさえ乗ったことがありませんでした。
友達に「乗馬をやってみたい!素晴らしいだろうな!馬のタテガミを櫛でといだり、体をブラッシングしたり、ご飯をあげたり・・」と言うと
「それは乗馬じゃないでしょ。それは馬の世話!」って怒られていました。
「それに雅子さんは高所恐怖症でしょ!馬ってアップライトピアノくらい背が高いんだよ。無理でしょ!」と重ねて怒られていました。
しかし、『好きこそものの00』と言うじゃないですか!
ダーリンをだまして、乗馬クラブに連れて行きました。
レッスンが始まる前に営業の方が
「とりあえず、入会についてお話させていただきます。」というので、すぐに「もう、入会します」と即答してしまいました。
ダーリンも営業の方もびっくり!!!
私は決めるのが早いのです。
グズグズ迷っている時はやらないほうがいい。
いいことは即決!これが私の生きる道!
でも、最初は怖かったです。
馬の高さは思ったより平気でした。
座っているからでしょう。
しかし、揺れが怖いのです。
手綱だけで支えるのは本当に恐怖でした。なので、鞍ホルダーを離すことが出来ませんでした。
10鞍ぐらい乗った時に、今もクラブにいる菊地先生から「雅子さんの将来の目標はなんですか?」と聞かれたので
「鞍ホルダーなしに手綱だけで乗ることです」と答えたら「「えっ、そんな近くの目標じゃなくて・・・ああ、でも、それでもいいです。頑張りましょうね。」と言われました。
もうそれから12年です。
ダーリンが「せっかくこんなにたくさん馬がいるんだから、専用馬なんてとらないで、コンピューターが選定してくれた馬だけで乗るんだぞ!」と言いました。
なので、私たち夫婦はどんな馬でも文句を言わずに(少ししか、言わずに)乗っています。
ビギナーのころ、たった4鞍だけ専用馬を取ったことがありますが、それでうまく行ったって事じゃなかったので、それっきり与えられた馬だけで乗っています。
乗馬は楽しいです。
こんなヘボヘボ雅子もなんとか上級馬場レッスンに混ぜてもらっています。
速歩は問題なくこなしますが駈歩は苦手です。
しかし、この頃は「駈歩は馬しだい!!」と豪語し、うまくいかなかったときは馬のせいにしています。
なので、気楽に乗っています。
お気に入りのボナパルトという馬が出来て、隙あらばイチャイチャしようとしています。
私の出ているレッスンの隣でビギナーの方をのせてよくレッスンに出ています。
ついつい、ボナパルトを見てしまうので、ボナパルトに乗っている男性が誤解してしまわないかと心配ですが、
ボナパルトも私を見ています。
私たちは「ボナ夫」「ジョセフィーヌ」と呼び合っている関係なのよ。とみんなに言いまくっています。
ダーリンも乗馬を初めてよかったと言っています。
そして、洗い場で普通に馬と話しています。
栗毛のラウルと長い時間見つめ合っていたら「勝った」とつぶやきました。
どうやらラウルの方が先に目をそらしたらしいのです。
毎週一回は乗馬に行きます。
そして、北海道や九州に馬で野原を走る『外乗』に行くことが私たちの最も楽しいことです。
この頃、ダイビングはすっかりご無沙汰です。
乗馬の方が楽しいのです。
馬と触れ合うのは素晴らしいことです。
乗馬を初めて次の夏に乗馬クラブで夏祭りがありました。
私たちから数か月遅れて甥の大樹も乗馬を始めました。
わずか5歳でした。
今は、もう高校生です。野球が忙しくて6年生の時に乗馬クラブをやめましたが、きっと大人になったら自分のお金でまた馬に乗ることでしょう。
馬のような大きな動物と向き合った事は大樹にとってとても大きな財産になっている事だと思います。
その夏祭りの時に金魚すくいをして、その金魚が今もわが家のベランダにいます。
小さな鯉くらい大きくなっています。
10匹いましたが、ある日この子だけを残して全部からすに食べられてしまいました。
今は鉢に金網をつけてカラスから守っています。
そして、その隣にメダカの鉢もあります。
トンちゃんが残した小鳥の餌を庭に来るスズメにあげています。
今では朝になるとスズメの「ご飯待ってるよ」の声で目が覚めます。
屋根に一列に並んで、こちらを見ます。
1メートルの距離まで近寄ってきます。
台所で食事をしているとスズメたちが「来たよー」と私たちに姿を見せに来ます。
スズメのように警戒心の強い小鳥も愛情をかけてやるとこんな風に返してくるのです。
実家には弟一家の飼っているクウちゃんと言う柴犬がいます。
私は「犬も猫のように育てる」が信条なので猫のようにクウちゃんに接しています。
なので、弟よりも誰よりも私の事が好きみたいです。
わが家にはもう、猫も鳥もいませんがこんな風に動物との付き合いは一生続きます。
世の中すべての動物と親しくしたいです。
爬虫類から猛獣まで、とことん愛しています。