その1
私は小さいころから動物が大好きで、ヨチヨチ歩きのころから知らない犬にも近づいていき、まわりの大人をハラハラさせたそうです。本当につい最近、祖母と旅行に行った時、かわいい犬を見つけて「あっ、かわいい!」と言ったとたん、祖母が「雅子、知らない犬に触っちゃだめよ!」と注意されました。もう、私もいい大人なのに。
コンビニの前で飼い主さんを待っている犬に「かわいいねえ」って撫ぜたら、夫が「雅子、わが身に置き換えて考えてみなさい。雅子がコンビニの前に立っていたら、知らない人から かわいいねえ って言われて頭を撫ぜられたらどう思う?いやでしょ?」 そうね、ごもっともです。
道を歩いている猫に話しかけます。犬は飼い主さんと一緒なのでなかなか話しかけられませんが、飼い主さんに「可愛いですね。」とか「かっこいいですね」って言います。
ごみ収集場で餌をあさっているカラスに「きれいに食べなさいよ」と注意したり、わが家にやってくるスズメとも話します。
もちろん、馬とも話します。
庭に来るトカゲのチョロ吉とも仲良しです。
家に居るクモの事は最初は怖かったのですが、飼ってることにしたら可愛いものです。大きなクモには『タイソン』って名前を付けています。小さな飛びグモは『トビー』です。
私の実家は千葉の中心街で文房具店を営んでおります。今は『きぼーる』という市の施設になってしまい、店売りはなくなりました。今もそこに商社として会社があります。『きぼーる』になる前はそこに住んでおりました。
お店もあるのでなかなか動物を飼ってもらえなかったのですが、お隣さんが飼っていたぺスという犬と仲良しでした。
ぺスは私が幼稚園の時、海水浴場に連れて行ってそこで迷子になり、物凄く探したのですが居なくなってしまいました。とても悲しかった思い出があります。
父がゴルフに行ったとき、靴の中に小さな蛇を入れて帰ってきました。飼おうと思ったのですが祖母に怒られて、父はその日のうちにまたゴルフ場まで返しに行った思い出があります。
初めてきちんと動物を飼ったのは小学校3年生の時です。
白いウサギを飼いました。みみこちゃんです。
夏休みの自由研究として観察日記をつけました。小学校1年生の弟は朝顔の観察日記をつけることにしました。
ウサギの檻と朝顔の鉢を並べて置いたら、みみこちゃんが朝顔の葉っぱをみんな食べてしまい弟の夏休みの自由研究はあっという間に終わりました。
弟の大切な朝顔を食べられて、『泣いている洋一』の写真が観察日記の最後のページです。
みみこちゃんは母がもらって来た『ぴょんぴょん』というウサギとの間にかわいい赤ちゃんを産みました。
私が6年生の時に家をビルにするため飼えなくなり、「絶対に食べないでくださいね。かわいがってくださいね。」とお願いして知り合いのところに里子に行きました。
その2
千葉大学教育学部附属中学校に進学しました。
そこで、音楽の武田和子先生と出会い、そのお美しいお姿と美声に憧れ、「私も声楽家のなりたい」と思いました。
そして、高校は国立(くにたち)音楽大学附属音楽高等学校に入りました。
くにたちの受験を許してもらえた条件は『寮に入ること』でした。
自宅から2時間半かかることもありましたが、新宿のような繁華街を通って行くのが父にとっての一番の心配の種だったようです。
寮生活は毎日が『修学旅行』みたいなものだと思い、かるーく考えて、逆に楽しみにしておりました。
さてさて、いよいよ寮生活が始まります。
くにたちの音高は本当に自由なところです。
制服がないのも『芸術家は自分にとって何が似合うか考えなければならない』という事からです。
千葉大附属中も制服がありませんでした。
それは「あなたたちは選ばれてきた人たちです。中学生らしい服装とはどんなものかおのずとわかるでしょう。なので制服がないのです。」とはえらい違いです。
高校の入学式に黄色いイブニングドレスでオストリッチのストールをまいている人を見てぶっ飛びました。
その人は音楽中学からの人です。
そんな自由な高校なのに、寮は勝手が違います。
「大事なお嬢さん方を預かっているのだから」と寮母さんが厳しく私たちを縛ります。
学校に行けば「これが高校かい!!!」と言うくらい自由なのに、寮では「良妻賢母を養成します」のようなギャップです。
寮生は全国中から集まってきています。
千葉は2時間半で帰れますが、九州や北海道はそうはいきません。
なので、めったな事では家に帰らせてもらえないのです。
週休2日制(土日は家でたくさん練習しなさいって事です)なのに、金曜日の授業が終わっても家に帰れません。
演奏会を聴きに上野に行った帰りも、千葉の方が近いのに国立に帰らなければならないのです。
私は「お家に帰りたいよう」と父に毎日手紙を書きました。
毎日毎日なので、郵便事情で2通いっぺんに届くこともあったようです。
根負けした父は「家から通ってもいい」と言ってくれました。
ようは、1年生の夏休みが始まるまでしか、寮生活してないって事です。
私だけじゃありません。
千葉県習志野市に住んでいる同じ部屋だったアーコもやはり、寮生活に耐え切れずに夏休みまでで寮を出ました。
アーコは結婚して『加戸あさ子』になってピアノソロや伴奏などピアニストとして活躍しています。
私とも何度も共演しております。
千葉県八千代市に住んでいるルミちゃんは偉かった。
冬休みまでがんばった。
結婚して今は宇喜多留実になってピアノの先生をしています。
今でも二人とも大の仲良しです。寮の2階に部屋の窓から焼きそばUFOのお湯を一緒に捨てました。下に人がいなくて良かったね。
寮の先生からは「千葉の人はもう入れません!!!」と言われちゃったようですが、千葉も広いですから。
高校生の私は競馬に凝っていました。
金曜日の学校帰りに国立駅のキヨスクで競馬新聞を買って土曜の競馬の予想をしながら電車で帰ります。
ただ、車内で新聞を広げていたら、隣のオッサンに「ネエチャン、どの馬が来るかね?」と言われ怖い思いをしました。
国立は府中が近いので競馬に興味のあるオッサンがけっこう電車に乗っているのです。
その年のダービーは荒れました。
しかし、私が父に助言をした馬が勝ったもので、父は大儲けをしました。
0000000-が勝ったあのダービーです。
歳がばれるので。
父が「雅子がこの馬にしなさいっていって勝ったのだから、雅子の好きなもの、何でも買ってあげる」と言うので「猫が欲しい!」と言いました。
「外国出張から帰ってきたら買ってあげるね。」と約束してくれました。
父が出張から帰ってきたので「パパ、ネコ買ってくれるんでしょう?」と言ったら「もう買ってきたよ」と言います。
「え!!!!!どこ?どこ?」
「ほら ここ!」
父は私に黒檀で出来た猫の人形を見せました。
私は父に騙されたので悔しくて大泣きをしました。
父は私に弱いので「ママが、良いって言ったら買ってあげるよ。」と言いました。
私は「約束だよ」と念押しし
自分の部屋に行くと、白い紙を持って母のところに行きました。
「ママ、ママってどんなサイン書いたっけ?ここに書いてみて?」
と白紙を差し出しました。母は「こうよ」と自分の名前を書きました。
もう一度自分の部屋に戻ると。母の名前の前に
『猫を飼ってもいいです』の文章を付け足しました。
それを父に見せました。
そこには
『猫を飼ってもいいです
関根博子』
の文が書いてありました。
その3
次の日に早速父と『そごうデパート』のペットショップに行きました。
絶対にシャムネコが欲しいと決めていたのです。
アクリルで出来たショーケースの中には何頭かのシャムネコがいました。
その中でひときわ美しいシールポイントの子がいたのです。
シールとはアザラシです。アザラシのように濃い茶色のポイントをもった子です。
シャムネコはご存じのように体の先っぽの色が濃いのです。
その色によって、シールポイント、ブルーポイント、チョコレートポイント、レッドポイントなどがいます。
シールポイントは一番オーソドックスな、それでいて一番美しいポイントです。
黒い長手袋をしてローブデコルテを着ている貴婦人のイメージです。
そのひときわ美しいその子はアーモンド形のブルーの瞳を持っていて、被毛もベルベットのように美しく輝き、触れた感覚もピタッと手に張り着くような素晴らしさです。
私は一目ぼれをして、この子に決めました。
名前ははじめから『ポンポン』と決めていました。
わが家に連れて帰ると、母がびっくりし「なんで、ネコを買って来たの!!!!!」と怒ります。
父は「え!!博子が飼っていいっていったんでしょ?」母は「雅子に甘いんだから!!!すぐ騙されるんだから!!!!」
私と母はいつも父を取りあっていました。
母がバッグを買ってもらったら「パパ、私にも買って」と張り合います。
父はいつも苦笑いでした。
でも、今では父は母のものです。母だけのものです。子供は引き下がりましょう。
母に「見て!」とポンポンを見せるとあまりの美しさに「仕方ないわね。買ってきちゃったんだから。」と受け入れました。
トイレのしつけもたった一回で覚えました。
前足を持って、トイレの中の砂を搔くしぐさをさせるとここがトイレとわかり、一回も失敗せずにすぐに覚えました。
わが家に来た翌朝、私のベッドルームに「ご飯下さい」と言って入って来たのにびっくりしました。
ウサギとネコは同じくらいの大きさですが、やはり知能が違います。ウサギは(放し飼いじゃなかったからかなあ?それだけじゃないよね)そんなことはしません。
シャムネコは社交的で飼い主にまるで犬のようになつきます。
ただ、顔に似合わないだみ声です。またそれがものすごく大きいのです。
ほんのお愛嬌です。
ポンポンが風邪をひいたときに連れて行った獣医さんがとてもハンサムで、私は胸キュンでした。
しかし、ポンポンに対してなぜか及び腰です。
「いやあ、僕はシャムネコが苦手なんだ。昔、シャムネコにものすごい勢いで引っ掻かれたんだ。シャムネコは気が強すぎる。」と言います。ポンポンはそんなことしないのに・・・・
ハンサムには後ろ髪をひかれますが、ポンポンの事をビクビク診察するのはやはり問題なので、一回きりの診察になりました。
それからはポンポンちゃんは都内からもその先生に見てもらうために俳優の池辺 亮や有名人が通う、たくさんの猫についての専門書も執筆しているという獣医さんに診てもらっていました。(のちにそれが良くない結果になるのですが)
その有名なお偉い先生は、犬や猫にも身分があると考えているようです。
ある人が病気の猫を拾ってその先生の病院に連れて行ったところ「そんな汚い猫なんか診られない!すぐ出ていけ!」と言ったそうです。命に貴賤はないはずなのに。伝染病の疑いがある子だとしても治療の方法はあるはずなのに。
ポンポンはますます美しく、利発な子に育ちました。
ポンポンは私の弟の洋一が苦手です。
可愛いあまり,
ついからかって、ポンポンの嫌がることをたくさんするのです。
ポンポンは嫌な事をひとつひとつ指を折って数えています。
そしてもう我慢できなくなったら反撃するのです。
その方法は・・・・・
弟は野球部に入っていました。
練習から帰って来ると、部屋の真ん中に野球の道具を置きっぱなしにするのです。
野球の道具の入った、電車の中に野球部員が乗っていると邪魔でしょうがないあの『迷惑バッグ』も部屋の真ん中にボンと置いてあります。
ポンポンは最もされちゃ困ること、そう、その迷惑バッグの中におしっこをしちゃうのです。
おもらしやそそうではありません。
実力行使です。
ただ、その後の仕返しが怖いので、変にビクビクするのです。ビクビクして洋一の部屋から出てくるので、すぐ分かります。
私はポンポンがまた洋一にいじめられちゃかわいそうなので、ぬれぞうきんで拭いて母の香水を迷惑バッグの中に振りかけました。
結果:猫のおしっことエルメスの香水、キャレーシュの混ざった匂いは物凄いものです。
後日、フランスに行ったとき、メスプレ先生がエルメスのキャレーシュをつけていて、「ママの匂いと同じだ」と共に「ポンポンのおしっこの匂いと同じだ」と大変なつかしく思いました。
その4
ポンポンが来て1年たったころ、ポンポンにお嫁さんを迎えてあげようという事になりました。
またまた、父と私はそごうデパートのペット売り場に行きました。
毛色はブルーポイントがいいと決めていました。
ブルーポイントとは白っぽい全身に体の先っぽが明るいグレーの毛色です。
猫のショーケースに行くと居ます。他の猫より一回り大きなブルーポイントが。
そして、私を見つけると近寄ってきて手を差し伸べるのです。
あらーこんなに人懐っこい子初めて!!!
と言っても、私以外の人にはそうでもないようなのです。
何だろうこの子!!顔を見るとちょっと目が寄っていて面白い顔です。
お世辞にも美しいって顔じゃありません。
毛足も少し長いようで、ポンポンの『ベルベットのような』とはほど遠い感じです。
でも、うんとかわいい!
「パパ、この子にする。」
店員さんは「この子は男の子です。しかも、只今円形脱毛症でお売りできません」と言うのです。
「ブルーポイントの女の子は取り寄せますので少々お待ちください。」
という事で2,3日待つことになりました。
美しい、きゃしゃなブルーポイントの子が来ました。
一回り大きな寄り目のブルーポイントは「えっ、僕じゃないの?」と寂しそうです。
私と父はきゃしゃなブルーポイントを買って帰りました。
家に着くと・・・・・・・
なんか違うのです・・・・・
この子はすごーくきれいな子だけど・・・・・・
あの大きな、毛足の長い、バサバサした、お世辞にもきれいって言えない子の事が頭から離れないのです。
2日後に誰にも相談しないで取り換えに行ってしまいました。
「まあ、円形脱毛症ももうすぐ治りますし、お客様がご承知ならいいです。」と私の必死な様子に店員さんも了解してくれました。
体が大きいってことは、簡単に言えば『売れ残り』です。店員さんも心なしかホッとした様でした。
家に着いて箱から出した途端「絶好調!!!」です。
高い棚の上に登りました。そこから下を眺めています。
父が部屋に入って来たとたん、父の背中に飛び降りました。父はびっくり!あのおとなしいブルーポイントが急変してお転婆になったのです。しかし、顔を見ると『ファニーフェイス』。
「雅子、取り換えに行ったのか!」「そうです」「パパもこの子が気になっていたんだよ。でも、よく取り換えてくれたな。」
この子が大介です。
ポンポンは私が選びました。
大介は、大介が私を選んだのです。ショーケースの中で手を伸ばしたのです。
ポンポンと大介(大ちゃん)は本当の兄弟のように仲の良い関係になりました。
その5
ポンポンは頭のいい子です。大ちゃんを使って色々な悪さをします。
たとえば、
ある年の元旦、母は母の兄弟と正月ゴルフを楽しむことになりました。
母は4人兄弟の長女、下に弟が3人います。その4人で早朝、ゴルフに出かけました。
そのために母は物凄く早く起きておせちを詰めたりお雑煮を作ったりしていたようです。
父と私たち姉弟は9時ごろ起きてきました。
そうしたら、目も当てられない状況になっているではありませんか!!!!
おせちのお重がひっくり返されて、蒲鉾は(全部食べずに)すべてが少しずつ味見されていて!!!!
ポンポンは自分では手を汚さずに大ちゃんにお重をひっくり返させるのです。そして、悠々といただくのです。
ああ、そういえば(夢うつつの中)ポンポンと大ちゃんが「ごはーーーーん」って鳴いていた気がしました。
母は可哀そうでした。
ゴルフを終えて、ルンルン気分で帰ってきた中、私たちに「正月からゴルフなんかに行くからこんな事になっちゃうんだ」とさんざん文句を言われました。
私が結婚してからも、ちょくちょくこんなことはありました。
静岡の親戚から畳鰯をもらって戸棚に入れておきましたが、ポンポンが大ちゃんに指令を出し、戸棚から畳鰯の袋を出すと、またまた食い散らかしておりました。全部食べるのでなく、すべてを少しずつもれなく味見する方法です。
大介はポンポンの事が本当に大事で、私たちが誤ってポンポンのしっぽを踏んでポンポンが「ギャー」と叫ぶと大介は私たちの足首めがけて噛みつきに来ます。
私が大学生の時、どこを探しても大介の姿が見えません。
わが家は4階建てのビルです。屋上の手すりをペンキ屋さんが塗っている事に気がつきました。
ペンキ屋さんがドアを開けたすきに脱走したのではと思いました。近所中を探しましたが見つけられません。
翌日になっても大介は見つかりません。
わが家のビルは1階が店舗、2階に社長室があります。その社長室に父がいます。
翌日の昼に父に「大ちゃんどうしたのかしら」と言いに行くと父の背中越しに見慣れたモコモコが何かを訴えています。
防音のガラスなので、なにも聞こえませんが口元が「にゃーーーーーー」って必死に訴えています。
どうやら大介は屋上からアーケードに飛び降りたらしいのです。そこで一夜を過ごし、父の背中越しに「助けてー」って訴えていたようでした。私はすぐに大介を窓から入れて「心配したんだよ」と抱きかかえました。
私が大学4年生のある日、ポンポンがトイレで苦しそうにしています。
急いで獣医さんに連れて行きました。
東京からも有名な俳優さんが通ってきている権威ある獣医さんです。
「尿路結石です。カテーテルをおちんちんに入れて、利尿剤でじゃーじゃーおしっこを流して石を出すから、このカテーテルをこの子が取っちゃわないように見張っていなさい。」と言われました。
そこからは、ほぼつきっきりの看病です。
しかし、ほんのひと時目を離して、ウトウトっとしたすきにポンポンはカテーテルを引きちぎってしまったのです。
おちんちんの穴が引き攣れてしまい、尿路も狭くなってここから病気との戦いになってしまいました。
ポンポンの尿路が狭くなってしまって、おしっこを出そうといきむと圧がかかりもっともっと尿路が狭くなります。そして逆にふっと力を抜くと自分がおしっこをしたくないのにポタポタと尿もれするのです。今ではペット用のおむつが出回っていますが、当時はなかったので、私が手作りでおむつを作りました。
美しいポンポンはここからずっとおむつを何年もつけることになってしまいました。
やっと、この頃、夢で見るポンポンのおむつが外れました。
きっと、うっとおしかったはずです。
その6
私とダーリンとの出会いは私が大学2年生、20歳の時です。
同級生のPちゃんが「雅子ちゃん、ヨーロッパ旅行に行かない?」と私を誘いました。
「感受性豊かなこの時期にヨーロッパを見てくるってことは芸術を志す者にとってとても大切な事よ」と言います。
「雅子ちゃんのお友達に東大に行っている人結構いるでしょ?くにたちは学生協がないから、雅子ちゃんの東大のお友達に学生協のツアーに申し込んでもらって頂戴」と頼まれました。
私も是非、ヨーロッパへ行ってみたい!しかもツアーなら安心だし、ましてや学生協が推奨するツアーならなお安心。しかもPちゃんはとてもまじめなお嬢様だし、二人で一緒にいたら、なおなお安心!!!!
早速、父に相談しました。
結構説得に時間がかかりましたが、「いつもPちゃんrと一緒だから。一人で行動しないから。」と約束してやっとOKが出ました。
ツアーは東大の友人に頼んでパンフレットを取り寄せてもらいました。
3週間、7か国ぐらい周るツアーでした。
メンバーはもちろん日本中の超有名大学の学生ばかりのはずが、農協さんのツアーも一緒だったので、1/3が学生、2/3が農協さんのツアーでほぼ年配の方でした。
一組だけ新婚旅行の方もいて、学生や年配の方に交じって居心地悪そうでした。
色々な国に行きました。
どう思います?
楽しかったと思いますか?
この時、ああ、私ってつくづく団体行動が苦手なんだなって感じました。
窮屈でした。
たまにある自由時間は琉球大学の社会学の教授と周辺の小さな町に出かけたりして、結構よかったのですが、団体で動くのは苦痛でした。
イタリアの小さな町に列車で出かけた帰りは間違った列車に乗ってしまい、私の語学力のおかげで何とか帰ってこられたとか、色々なハプニングは楽しかったです。
あれ?Pちゃんと一緒に行動するんじゃなかったの?と思われる方がたくさんいらっしゃるでしょうが・・・・・
Pは、たくさんツアーに参加してくるであろう超有名大学男子学生が目当てだったのです。
はじめの国に到着した途端「雅子ちゃん、いつも一緒じゃつまらないから別行動しようね」だったんです。
飛行機の中で超有名国立医学系大学生に目を付けたのです。
それからその二人はいつも一緒。
「パパにいつもPちゃんと一緒だって約束したのに!!!」私は取り残されてしまいました。
でも、日本中から来ている大学生たちとも仲良くなれました。
特に関西からの人たちは本当に漫才みたい。
ミラノの町をみんなで見物していて、「ドゥオーモってどこだろう?」っていうことになって「オレ、聞いてくる」と言うのです。
あれ、彼はイタリア語が話せるのかなあ?と思っていたら、ある紳士にたぶんあれがドゥオーモかなあって思える建物を指さして
「ドゥオーモ?」って聞いたのです。なあるほど!!!!
紳士は「SI」と答えました。
彼は「どーも」ってお礼を言ったら
「NO!Duomo(ドゥオーモ)!」と発音をなおされました。
ある日、レストランで私の後ろに座ったお姉さんが準一さん(ダーリンよ)を指して「私、彼みたいな人、好みなの」と言っていました。
Pちゃんが超有名国立医学系大学生と二人で仲良くしているのを見てちょっとイライラしていた私は、「世の中では彼のような人がモテるんだ」と思いました。
けっこう、うといのです。そういったことには。
そのうち、私とダーリンも二人で行動するようになりました。
この旅行で2組の夫婦が誕生しました。
一組目は私たち。結婚するには5年以上かかりましたが。
もう一組はPちゃん。しかし、お相手は彼ではありません。スペインまで一緒のヒコーキで行き、のちの3週間バックパッカーとしてヨーロッパを巡り、最後の都市、ギリシャのアテネで合流して一緒のヒコーキで日本に帰ってきた某私立医学生です。
3週間、勝手な行動をしていたピーちゃんはみんなから総スカンをくらって一人ぼっちでした。一緒に回っていた彼にはすでに婚約者がいて可哀そうなPちゃんはずっと彼女ののろけ話を聞かされていたそうです。
「雅子ちゃん、なんで私と一緒にいてくれなかったの?」と今更、言ってくるのです。
Pちゃんと私を見たら初対面の人は私がPちゃんをいじめて一人ぼっちにさせたと思うのでしょう。
そんな同情からピーちゃんは卒業と同時にその方と結婚しました。
スゴイよね、Pちゃんは。
はじめから結婚相手選びのツアーだったのです。見事、お医者さんをゲットしました。
その7
私と準一さんはヨーロッパ旅行の後、手紙だけのお付き合いでした。
そして、準一さん(ダーリン)が卒業して某大手メーカーのエンジニアとして就職した時から本格的にお付き合いをしました。
何?本格的って?
居酒屋に飲みに行ったり、レストランで豪華ディナーをいただいたり、ディズニ―ランドに行ったりってことです。
でも、その間、彼は富山、浜松と転勤になり遠距離恋愛で大変だったようです。
ちょうど、シンデレラエクスプレスがはやりで、「雅子がフライデーに載っていた!」と話題になったくらいでした。
その写真は私に似ていたようですが、最終の大阪行きで、浜松には停車しないので、私ではありません。
ドラマチックな恋愛を経て私たちは結婚いたしました。
結婚生活は静岡県藤枝市です。
結婚前にある程度、準備をしようと早めに運べるものは運びました。
その一つがイモリです。
イモリはご存じのように別名『赤腹』と呼ばれる両生類です。
千葉神社近くのペットショップで一匹200円で売られていたのを2匹買って育てていました。そして早や、10年。
お嫁入りのときにタッパーに入れて新幹線で藤枝に持っていきました。
ダーリンにはご飯のあげかたは教えました。うちのイモリンは甘えん坊なので、人の手からしか食べません。カメの餌の乾燥糸ミミズを一口サイズにちぎり「はいどうぞ」とお口のところに持っていきます。そうすると、あんぐり、食べます。
ダーリンは指ごと、イモリンに噛まれて、「きゃああああああああ」とその手を振り払ったのでイモリンはビューンと飛んで行きました。
「何するの!!!」と私はダーリンを叱りました。
私のイモリンは手塩にかけて大事に育てている子です。
水を変える時は父のご飯茶碗にイモリンを移します。
父は「やめろよお」と言いますがまんざらじゃないようです・
一つだけ、問題が起こりました。
結婚式の前に運べるだけ運ぼうと思ってイモリンを藤枝の社宅に運びましたが、新婚旅行の事を考えていなかったのです。
その間、誰がご飯をあげるかです。
ダーリンの上司の東大の博士課程を取った方に頼みました。そうしたら「オレ、嫌だよ」と及び腰に。
私は「弱虫め!!!!」と言い放ち、結局、ダーリンの部下に頼むことになりました。
東京の銀行倶楽部で結婚式、披露宴をあげ、中国の上海、杭州に新婚旅行に行き、千葉の京成ホテルでもう一度披露宴をあげ、
いよいよ、静岡の藤枝で新婚生活を送ることになりました。
新婚生活は、某大手メーカーの社宅で始まりました。
私がお腹を痛めて産んだぐらい愛しいシャムネコのポンポンと大介、そして2匹のイモリと一緒です。
社宅生活は大変でした。
噂ってすごいです。
私の小さなイモリがオオトカゲになっちゃうのです。
「出世したねえ」と褒めてあげました。
ここでも素敵な出会いがありました。
一つは、アマガエルです。
お庭に2層式の洗濯機を置いておりました。
排水の時にいつも、毎回、1匹のアマガエルが飛び込むのです。
「ダメじゃない!!!洗剤が入っているんだから体に悪いよ!!!」と言ってそのアマガエルをすくいあげ、近くの葉っぱに乗せるのです。
毎回です。
きっと、そのアマガエルは楽しみにしていたのでしょうね。
今でも演奏会の時に司会進行をお願いしている澤辺敏江さんとの出会いです。
結婚して社宅に引っ越して、社宅中にご挨拶に行ったとき、初めてお会いしました。
ダーリンの会社は今でこそ『軟派過ぎ!!』なコマーシャルを流しておりますが、実際はとても堅実で地味な会社なんです。
なので、「この会社の職員の妻たる者はご主人を陰で支えるべきだ」という風潮です。
ご挨拶に伺ったどの奥様も地味でおとなしい感じの方でした。
ただ、澤辺さんだけは違っていました。
『同じ匂い』がしたんです。
後日、改めて訪ねていきました。
「澤辺さん、あなたは普通の主婦じゃないね」
「あーら、わかっちゃった?司会のプロよ。」
今、時々アデランスのコマーシャルに出たり、コミュニケーション学を教えたりと大活躍の彼女です。
そして、もう一つは獣医さんとの出会いです。
ポンポンは爆弾を抱えていました。
膀胱炎になって血栓が尿道に引っ掛かっておしっこが出なくなったら、それを見過ごしていたら膀胱破裂になって死んでしまうかもしれないのです。
というわけで、藤枝に移ってすぐに獣医さんを探しました。
何より近いところがいいと思い、電話帳で探しました。
ポンポンを連れて事情を話すと
「まず、餌のアドバイスはなかったの?」
「カテーテルが取れないように気を付けなさいって、エリザベスを付けなかったの?」
(エリザベスとはエリザベス1世が付けているような首につけるカラーです。これを付ければポンポンはカテーテルを引き抜いたりしませんでした)
「私がついウトウトしてしまい、ポンポンがその隙にカテーテルを引きちぎってしまいこんな事になってしまったんです。私がうかつでした」
その言葉に対する先生の回答でした。
「何日も徹夜なんてできるはずないじゃない。その先生が勉強不足だったんだ。あなたは十分に愛情を注いでいる。できるだけ以上の事をしている」とおっしゃってくれました。
そして「同じような事例を治した先生が埼玉にいるから、紹介する」とも言ってくださいました。
埼玉の先生にお預けしました。結果は治りませんでしたが、この方たちこそ、獣医さん!という素晴らしい先生方でした。
社宅生活になじめなかった私を気使ってダーリンは会社を辞めることを決心してくれました。
中小企業診断士という国家資格を取って自立を目指すことにしました。
千葉の実家に父が持っている貸家に移ることが決りました。
ここが、今も住んでいる都町です。
藤枝の獣医さんに「千葉市に引っ越すのですが、どなたか先生をご紹介ください。」と頼みました。
どんなに有名な先生でも、以前の先生にお世話になる気はもうありませんでした。
「山根先生という方が私の先輩です。埼玉の先生の同級生です。都町というところで開業いたしております。」
「えっ!!!都町ですか!!!私たちは都町に引っ越すのです」
ものすごい偶然です。
私は山根先生と出会うために藤枝に行った気がします。
藤枝にはたった、3か月しかおりませんでしたから。
その8
社宅生活は私にとって『ダメ』な事でした。
つくづく『普通の生活』を送っていなかったんだと思い知らされました。
澤辺さんだけでなくとても素敵な方々ともお会いできましたが、社宅生活になじめずにストレスを抱えてしまいました。
ダーリンは決心し、会社を辞めることにしました。
ダーリンは実は同期の中でも出世頭でした。
会社も彼に期待し、彼も会社に貢献していました。その彼が辞めるというので車内は大騒ぎです。
色々な方に呼び出され、退社の理由を聞かれます。
本当に申し訳ないことをしました。
しかし、彼は一大決心をしたのです。
コンサルタントの唯一の国家資格である『中小企業診断士』をとることです。
私も彼も『勉強大好き人間』です。
こんな事を書くと嫌味ですが、本当に知識やスキルが増えることが楽しくてしょうがないのです。
そして、その知識やスキルを使って私だったら自分の音楽や指導に活かし、彼も仕事に活かせることが楽しくて仕方ないのです。
彼にとって、中小企業診断士という仕事は天職に違いありません。
この資格はかなりの難関です。会社勤めをしながらではいつになっても取得できないでしょう。とくに、彼が当時置かれていた立場は二つのわらじを履くなんていう余裕はありませんでした。
会社側も渋々ながら承諾して下さり、彼は退社いたしました。
というわけで、ダーリンと一緒に千葉に帰ってまいりました。
友達が「まあ、お早いお帰りで」と迎えてくれます。
たった、4か月の社宅生活、今から思うと不思議な体験でした。
そしてその間に島田というところでド派手に演奏会まで開いちゃったのです。
澤辺さんのお知り合いが私の事を知り、ぜひ演奏会をしてほしいと依頼されて。
新居は父が持っている家です。
ここは、父方の祖母が『静かな独り暮らし』を夢見て父に買ってもらった家です。庭いじりも楽しいようにと庭はけっこう広いのですが、
家は小さな2階建てです。
いよいよ、この家が完成して「おふくろ、本当に一人で暮らすの?」となった時「嫌!」となり、そのあと、ずっと人に貸していた家です。
私たちが千葉に帰ると決めた時、たまたま入っていた方が自分の家を建てて出た直後だったのです。
今も私たちは(家は建て替えましたが)そこに住んでおります。
その9
千葉での新生活が始まりました。
ダーリンは通信教育で中小企業診断士の資格を取ろうと猛勉強中です。
私はピアノや声楽を教えていましたが、それだけでは生活を支えきれません。
ダーリンは私の実家を手伝ったり、塾の先生のバイトをやったりもしていました。
しかし、大部分の時間を勉強に費やしていました。
つくづく思うのです。ダーリンは凄いです。
通信教育は自宅で一人でやるのでなかなか成果が上がりません。
送ってくる教材も、普通の人だったら徐々に手を付けなくなってしまい、山になってしまうでしょう。
しかし、彼は違うのです。
コツコツと勉強を続けられるのです。
千葉に帰ってきた年の11月のある日、
夢を見ました。
『八百屋さんにカナリアを買いに行く』という頓珍漢な夢です。
八百屋さんにカナリアを買いに行ったところ、カナリアがいたのですが、私は・・・
「この子じゃない!!!!私が欲しいのは髪の毛が逆立っていて、ほっぺが赤くて・・・・
私が欲しいのはそんな子だ!!!この子じゃない!!!!」
と、うなされて起きたのです。
ダーリンに、「これは、お告げだ!!夢の中で欲しかった鳥はオカメインコに違いない。今から買に行くよ!!!」
と言って、ペットショップに買いに行きました。
「オカメインコ下さい」といって入っていくと、店員さんが白っぽいオカメを見せてくれます。
「この子は性格も良さそうだし、綺麗でしょ?」と言いますが、私は籠の中にいる灰色のオカメインコから目が離せません。
何度も、店員さんがその美しい子を勧めますが、私の心は決まっています。
「こちらのインコをください」と、その灰色の子を指さしました。
店員さんは「ああ、並オカメインコの方ですね」
先ほどの美しい子は高級オカメインコだったそうです。
ここから、私たちとこの、並オカメインコ、トンちゃんの生活が始まります。
並オカメインコを連れて私の祖母に見せに行きました。
「お祖母ちゃん、今、オカメインコ買ってきたんだよ」と言って見せると
「あらあ、何!!この汚い鳥!ドバトみたい」って言うのです。
「よりにもよって、こんなに汚い鳥買ってこなくてもいいでしょ!!」って言うのです。
「いいの!!!目が合っちゃったんだから!!!」
トンちゃんたち、オカメインコは最初の年の冬が大切です。
最初の年の冬だけ温かくしてあげれば本当に丈夫なのです。
ダーリンが学生時代に使っていた小さなこたつにトンちゃんを入れて保温しました。もちろん、熱過ぎないように注意して。
トンちゃんたちインコは赤ちゃんの時も十姉妹や文鳥と違って自分でご飯を食べるのです。
十姉妹や文鳥はスポイトみたいなもので口の中に餌を突っ込んであげなければなりませんが、柔らかく粟をお湯で浸してあげれば自分で食べるはずなのですが・・・・
トンちゃんは食べてくれません。
お店では一人で食べていたはずなのに。
お店に相談に行くと「不思議ですね。では文鳥にするように、餌を口に突っ込んであげて下さい」と言います。
こうして、赤ちゃん時代のトンちゃんは本当に手のかかる赤ちゃんでした。
トンちゃんと24年間も一緒にいられるなんて思ってもいなかったです。
病気ひとつしない、素晴らしい我が家の息子でした。