その6
私とダーリンとの出会いは私が大学2年生、20歳の時です。
同級生のPちゃんが「雅子ちゃん、ヨーロッパ旅行に行かない?」と私を誘いました。
「感受性豊かなこの時期にヨーロッパを見てくるってことは芸術を志す者にとってとても大切な事よ」と言います。
「雅子ちゃんのお友達に東大に行っている人結構いるでしょ?くにたちは学生協がないから、雅子ちゃんの東大のお友達に学生協のツアーに申し込んでもらって頂戴」と頼まれました。
私も是非、ヨーロッパへ行ってみたい!しかもツアーなら安心だし、ましてや学生協が推奨するツアーならなお安心。しかもPちゃんはとてもまじめなお嬢様だし、二人で一緒にいたら、なおなお安心!!!!
早速、父に相談しました。
結構説得に時間がかかりましたが、「いつもPちゃんrと一緒だから。一人で行動しないから。」と約束してやっとOKが出ました。
ツアーは東大の友人に頼んでパンフレットを取り寄せてもらいました。
3週間、7か国ぐらい周るツアーでした。
メンバーはもちろん日本中の超有名大学の学生ばかりのはずが、農協さんのツアーも一緒だったので、1/3が学生、2/3が農協さんのツアーでほぼ年配の方でした。
一組だけ新婚旅行の方もいて、学生や年配の方に交じって居心地悪そうでした。
色々な国に行きました。
どう思います?
楽しかったと思いますか?
この時、ああ、私ってつくづく団体行動が苦手なんだなって感じました。
窮屈でした。
たまにある自由時間は琉球大学の社会学の教授と周辺の小さな町に出かけたりして、結構よかったのですが、団体で動くのは苦痛でした。
イタリアの小さな町に列車で出かけた帰りは間違った列車に乗ってしまい、私の語学力のおかげで何とか帰ってこられたとか、色々なハプニングは楽しかったです。
あれ?Pちゃんと一緒に行動するんじゃなかったの?と思われる方がたくさんいらっしゃるでしょうが・・・・・
Pは、たくさんツアーに参加してくるであろう超有名大学男子学生が目当てだったのです。
はじめの国に到着した途端「雅子ちゃん、いつも一緒じゃつまらないから別行動しようね」だったんです。
飛行機の中で超有名国立医学系大学生に目を付けたのです。
それからその二人はいつも一緒。
「パパにいつもPちゃんと一緒だって約束したのに!!!」私は取り残されてしまいました。
でも、日本中から来ている大学生たちとも仲良くなれました。
特に関西からの人たちは本当に漫才みたい。
ミラノの町をみんなで見物していて、「ドゥオーモってどこだろう?」っていうことになって「オレ、聞いてくる」と言うのです。
あれ、彼はイタリア語が話せるのかなあ?と思っていたら、ある紳士にたぶんあれがドゥオーモかなあって思える建物を指さして
「ドゥオーモ?」って聞いたのです。なあるほど!!!!
紳士は「SI」と答えました。
彼は「どーも」ってお礼を言ったら
「NO!Duomo(ドゥオーモ)!」と発音をなおされました。
ある日、レストランで私の後ろに座ったお姉さんが準一さん(ダーリンよ)を指して「私、彼みたいな人、好みなの」と言っていました。
Pちゃんが超有名国立医学系大学生と二人で仲良くしているのを見てちょっとイライラしていた私は、「世の中では彼のような人がモテるんだ」と思いました。
けっこう、うといのです。そういったことには。
そのうち、私とダーリンも二人で行動するようになりました。
この旅行で2組の夫婦が誕生しました。
一組目は私たち。結婚するには5年以上かかりましたが。
もう一組はPちゃん。しかし、お相手は彼ではありません。スペインまで一緒のヒコーキで行き、のちの3週間バックパッカーとしてヨーロッパを巡り、最後の都市、ギリシャのアテネで合流して一緒のヒコーキで日本に帰ってきた某私立医学生です。
3週間、勝手な行動をしていたピーちゃんはみんなから総スカンをくらって一人ぼっちでした。一緒に回っていた彼にはすでに婚約者がいて可哀そうなPちゃんはずっと彼女ののろけ話を聞かされていたそうです。
「雅子ちゃん、なんで私と一緒にいてくれなかったの?」と今更、言ってくるのです。
Pちゃんと私を見たら初対面の人は私がPちゃんをいじめて一人ぼっちにさせたと思うのでしょう。
そんな同情からピーちゃんは卒業と同時にその方と結婚しました。
スゴイよね、Pちゃんは。
はじめから結婚相手選びのツアーだったのです。見事、お医者さんをゲットしました。