黒田官兵衛編

1546年~1604年(享年58歳)

黒田孝高/如水(よしたか/じょすい)。安土桃山時代、江戸時代前期の武将・大名。豊前国中津城主。孝高は諱(いみな)で通称・官兵衛、隠居後・如水。水のごとき清らかさや柔軟さ、孫氏の一文なども引用したとされる。豊臣秀吉の側近として調略や交渉、築城などに活躍した。キリシタン大名としても有名。筑前国福岡の地名は黒田氏の発祥である備前国福岡(瀬戸内市)の地名にちなむという。

戦国の三英傑がその才能を手放しで誉めたひとりの男。豊臣秀吉を支え、戦国最強のナンバー2と言われた黒田官兵衛です。戦国武将のなかでは玄人好みで、その魅力はリーダーを支える“先見性・洞察力”“知略・創造性”“忠義・潔癖”でしょう。

先見性・洞察力。1575年、長篠の戦を分析し、広く商人などから情報を集め、織田信長の将来性や力量を早くから見抜き、敵対関係を連携関係に転換します。小寺政職の家臣であった官兵衛は単身信長のもとに向かい、播磨の豪族の戦力の大小、毛利への忠誠心の強弱を正確に分析して見せます。信長は敵方からきた彼の意外な言動に驚き、その洞察力に感嘆しています。

知略・創造性。知略に長け、秀吉の快進撃を支えました。「敵をすぐさま追い崩し、あまたを討ち取った旨、神妙である」と信長も舌を巻く戦上手。意表を突く戦略と大胆な行動力で、生涯一度も戦に負けなかったといいます。戦い方は、定石にこだわらず臨機応変。1582年、本能寺の変の際、秀吉軍は素早く毛利側と和睦を結び、名高い中国大返しを敢行します。このとき、官兵衛は毛利と宇喜多から借り受けた軍旗を掲げ、両家が秀吉軍についた噂を広めようとしました。秀吉曰く「官兵衛の謀、凡人のおよぶところにあらず」。ただし血を流すことを避け、降伏を引き出す戦術を大切にしていました。

反面、優秀すぎたため、次第に主君・秀吉に疎まれたとされます。廉潔な人柄で、知恵も勇気もあり、武将としての能力もずば抜けていましたが、知恵が先走るところがありました。本能寺の変の際「殿が天下をとられる千載一遇の好機が到来しました」と冷徹に忠言したため、秀吉は底深い恐ろしさを感じたといいます。以後、生涯警戒されることになります。秀吉が「官兵衛がその気になれば、わしが生きているあいだにも天下をとるだろう」と言ったという逸話もあります。

忠義、潔癖。「信義を守り、家臣からも信頼を集める」。恩賞を求めずに仕え、「いまの世に、古の道をゆくは、官兵衛ただひとり」とは徳川家康。名誉にも権力にも執着せず自らの生き方を貫いた男とたたえました。生涯、秀吉に忠誠を尽くし、言うべきことを恐れずに言い、その危機には身を挺して戦った官兵衛。「人に媚びず、富貴を望まず」。人からどう思われようとよい。自分がいかに生きたかが重要であるということです。

1578年、毛利輝元との戦いの際、播磨の豪族の8割方を説得し、信長方につくことを約束させますが、毛利方が五万八千の大軍勢を差し向けると、もろくも寝返ります。秀吉の面目を潰し、窮地に追いやったことに責任を感じ、殺されるのを覚悟で単身寝返った城に乗り込みます。しかし捕えられ、牢に幽閉され、毛利方は衰弱した官兵衛に秀吉を裏切るよう執拗に迫りますが、きっぱりとこれを拒みました。投獄後、1年を経て助け出され、歩くこともままならぬ官兵衛と再会した秀吉は「命を捨てて城に乗り込むこと、忠義の至り。我この恩に如何にして報ずべき」とその忠義に感動しています。『黒田家文書』起請文の記述をみると、部下から「本丸に無二に馳走申し上ぐべく候」、つまり主君・官兵衛には二心なく忠節を誓います、というほどに慕われ、敵からも一目置かれました。1590年、秀吉の小田原攻めの際、官兵衛が北条氏直との和睦の労をとり、最後は、氏直の顔を立て城の明けわたしをやりとげ、感謝の意の刀が贈られます。

劉備を支えた諸葛亮孔明、本田技研工業を創業し成長させた本田宗一郎と藤沢武夫コンビ、ソニーの盛田昭夫と井深大コンビのように、官兵衛は知略、信義で秀吉を支えますが、恐怖させるほどの知略はもろ刃の刃でした。その意味は深く、知と心のバランスの重要さを示唆しているのではないでしょうか。

ワールドジョイントクラブ誌・Vol68 2011年9月20日号執筆分