ジョン万次郎

1827~1898年(享年71歳)


14歳の時に乗った漁船が遭難し、米捕鯨船に助けられる。ホイットフィールド船長に気に入られ、アメリカの学校で英語、数学、測量、航海術、造船技術などを習得。24歳で帰国して名を中濱万次郎信志とし、通訳・米国事情を知るものとして活躍する。彼の体験などを蘭学者・河田小龍がまとめた『漂巽記略』に、坂本龍馬も大きな影響を受けた。


遭難していたところを助けられ、その後アメリカ・フェアヘーブンに着いたジョン万次郎は、学校、地域、教会をとおしてアメリカの生活や友人との関係に適応し、鯨漁師として自立し、成長していきます。その好奇心の強さ、一生懸命さが周囲の人たちの心を惹きつけ、彼の周りには支援者が次第に増えていきました。

なかでも、万次郎たちを助けたホイットフィールド船長は万次郎を実の子どものようにかわいがり、学校にも行かせました。自ら捕鯨船に乗り込んで航海術を実践で学んだ万次郎は、ホイットフィールド船長への報恩の気持ちから、日本国を開くことで、「アメリカの船乗りたちが遭難したときや食料不足のときなどに保護されるように」と、母への思いと合わせて、帰国の計画を立てます。寛大で包容力のある船長に心から感謝していた万次郎は、報恩の気持ちをさらに旺盛な行動力につなげたのです。

逆境に対してどう対処するかで個人の強さをはかる、「逆境指数」というものがあります。「逃避、生存、対応、解決、成長」の5つのレベルで、万次郎はまさに“逆境をバネにして成長”するタイプ。これは、母国に帰るために生き抜くという思い、強い好奇心、愛情深いホイットフィールド船長への感謝の気持ちなどから生まれた強さだと推察します。

帰国後の万次郎は、薩摩藩主島津斉彬など開明的指導者たちの聴取を受け、米国事情を伝えました。坂本龍馬や岩崎弥太郎は、万次郎の体験を書にまとめた河田小龍をとおして共和政治、海運や造船、保険の知識を学ぶなど、深く広く明治維新に影響を与えました。

さらに、日米交渉の場に自身が通訳として立つ機会(※)に遭遇し、開国後には、遣米使節に勝海舟や福沢諭吉とともに随行し、操船でも活躍しています。万次郎の死後、日米開戦間近に、フランクリン・ルーズベルト米大統領(当時)から、万次郎の子孫あてに一通の手紙が送られました。それは、緊迫した日米関係を憂慮し、戦争だけは回避したいという願いで書かれたものでした。「......私がまだ幼かったころ、祖父は、日本の少年がフェアヘーブンの学校に通ったことや、私の家族といっしょに教会に行ったことをよく話していました。中濱の名前は、私ども家族にいつまでも記憶されることでしょう。アメリカを訪問されることがあれば、お目にかかれる日を楽しみにしています。フランクリン・D・ルーズベルト」。世代をまたいで記憶に残る万次郎には、心をつかむ人懐っこさ、素直さ、好奇心、何事にも真摯に取り組む姿勢があったと推察されます。万次郎は死してなお、子孫同士の関係や友情をとおし、日米の懸橋として、平和を維持する意思を残したのでした。

人を率いるだけがリーダーシップではありません。リーダーシップには、「ビジョンを示す」「チームと協働を引き出す」「個人を成長させる」の三要素があります。万次郎はアメリカでの実体験から、「人間に身分の上下はない」という思想を持ち帰りました。新しい国のビジョンのヒントとして「武士や平民の身分に関わらず、選ばれた人がリーダーとして率いる」と伝え、国づくりのビジョンを示すリーダーシップで日本に貢献したのです。

万次郎は、島津斉彬、勝海舟、坂本竜馬、岩崎弥太郎などリーダーの思想に、口伝やロールモデルとして強く影響を与えました。万次郎の軌跡から、逆境で強く生き抜き周りを支援者にする人間力、変革期に異文化体験をもとに国づくりのビジョンを伝えた「100年の計を作るリーダーシップ」を学び取ることができるのではないでしょうか。

※水戸藩主徳川斉彬が、万次郎は恩義からアメリカに肩入れするのではと懸念し反対。日米交渉の通訳は実現していない。

※※ワールドジョイントクラブ誌、Vol.62、2011年4月25日版寄稿分