高田屋嘉兵衛

1769~1827年(享年59歳)


淡路島生まれ。江戸時代後期の海運業者。1792年(寛政4年)以来、兵庫で廻船業を営み巨利を得る。幕命により択捉島航路を開き、漁場を開拓。函館を拠点に蝦夷地の商権を独占する。1818年に隠居し59歳で死去。


「ウラータイショウ、ウラータイショウ」(バンザイ大将)。ロシア軍艦ディアナ号、甲板に立つ副艦長リコルドと水兵たちの連呼。ロシアと決死の交渉でゴローニン事件を解決し、ロシア軍の尊敬と信頼を一身に集めた商人・高田屋嘉兵衛への賛辞でした。司馬遼太郎が「世界のどんな舞台でも通用できる人」と、理想としこよなく愛した人物です。

1807年、ロシア使節レザノフが日本との通商を求め長崎に来航し、港内に半年滞留させられた挙句の拒否。怒った部下フォボストフは択捉島などで略奪と乱暴を働き、幕府は奥羽諸藩に派兵を求め厳戒態勢を固めます。それを知らずディアナ号艦長ゴローニンは測量のために訪日し、国後島で幕府に捕縛され、箱館(函館)で幽閉されます。それがゴローニン事件です。副艦長リコルドは一旦引き返し、翌年、国後に来航します。

ときに嘉兵衛は44歳。偶然、国後に居合わせゴローニン事件の報復としてディアナ号に捉えられ、カムチャツカに連行されます。寛大で平等な嘉兵衛を慕っていた水夫たちは「一緒に連れていってくれ」と頼み込み、後にリコルドは「あやうく方針を変更しようと思ったほど」「世にも感激的な場面」と手記に記しています。水夫のあらゆることに関心を持ち、生活まで気遣う人情味と底抜けに明るい性格がその信頼を生みました。

抑留は過酷で、食べ物はわずかな米のみ。マイナス20°Cにもなるカムチャツカの厳しい冬で5人中3人が脚気で倒れ、このままでは生きて帰れないと思った嘉兵衛は策を講じます。まずは状況把握のため少年からロシア語を学びます。「これは何と言うのか」「ウォッカ」、「船頭は何と」「カピタン」と。

そしてリコルドと積極的に話し、次第に信頼を勝ち得ると、あるときロシア政府の手紙を盗み見て、ゴローニン艦長が理由なく捕縛されたと誤解していたことを知ります。嘉兵衛は「捕縛の理由はフォボストフの暴行への報復であり、謝罪し誤解を解く必要がある」と説き、「謝罪すればゴローニンは釈放されるのではないか。私が仲介役となる」と提案。リコルドはロシア政府と折衝し謝罪を決定します。

リコルドとともにディアナ号で出港し、国後島沖に停泊すると、嘉兵衛は約束の証にリコルドに髷を切り渡し、ロシア側の謝罪文を懐に単身国後に乗り込みます。幕府側から要求文書を受け取ると、案の定「海賊行為についてロシアは謝罪文を提出すべし。さすればロシア人捕虜を全員返す」とありました。しかし、幕府側は嘉兵衛が持参した謝罪文を突き返します。捕虜開放の条件はロシア長官の謝罪文と先年略奪した兵器の返却でした。リコルドもそれを了承し「新たな謝罪文を手に必ず帰ってくる。あなたは友だちだ」と言い残して去ります。嘉兵衛は箱館の寺に軟禁状態になりますが、約4ヵ月後、約束どおりディアナ号は戻ってきました。ゴローニン艦長以下8人は釈放され、嘉兵衛は無罪放免とされます。

後日、一通の手紙が届きます。「親愛なるタイショウ。いまも私の友情に変わりはありません。あなたから学んだ隣国への思いやり。私は、日本とロシアが友好を深めることを願っています」。しかし、その手紙を嘉兵衛は目にすることがありませんでした。すでにこの世を去っていたのです。

窮地でも豪胆沈着、卑屈にならず、媚びず、堂々たる態度、そして信念強くかつ自由な精神を持って外国人と渡り合った嘉兵衛。鎖国時代の日本では希に見る国際人でした。そんな嘉兵衛に幕府の侍は「商人というより仁者」「戦国時代の武将」と評し、ロシア人は「人間という崇高な名で呼ぶにふさわしい高潔な日本人」「快活で聡明、気品と教養と優しさ。ロシアでもまれな器の大きい人物」という賛辞を贈ったのです。

※ワールドジョイントクラブ誌、Vol.72、2012年4月20日号寄稿分