上杉鷹山

1751年~1822年(享年71歳)

米沢藩第9代藩主。現役藩主時代の名を治憲、隠居後を鷹山。上杉家の養子となり、17歳で家督を継ぐ。君主論と折衷学を細井平洲から学び、極度の財政難によって崩壊寸前の危機にあった米沢藩を甦らせた 

上杉鷹山公はメッセージの達人であり、多くの名言を残しています。J・F・ケネディーも尊敬していた公のリーダーシップは、失われた10年と言われた1995~2004年ごろの厳しい不況の下、その時代背景や状況に合致するものとして再認識されました。「してみせて言って聞かせてさせてみる」。この名言の特長は「してみせる」ところです。言葉で伝えるよりも背中で見せたほうが、「イメージの力」でよりリアリティをもって伝わります。

モチベーションで大切なのは、「自己決定」と「覚悟」です。チャレンジ精神の名言「なせばなるなさねばならぬ何事もならぬは人のなさぬなりけり」にもあるとおり、失敗を恐れて踏み出さず、取り組まなければ、何事も成就しません。論語の「過って改めざる、これを過ちという」ように、失敗しても改善すればいいのです。「覚悟」を決めてやってみようと踏み出すことが大切です。松下幸之助翁の言葉にも「やり続ければいつか成功する。あきらめた時が失敗」があります。チャレンジし、徹底してやり遂げればいい。それが公の遺した教えだと思います。

公は、藩の財政建て直しのために倹約を掲げ、自ら絹の衣服を綿に変えて、これを生涯続けました。封建社会にありながら「主権在民思想」を持ち、前号で紹介した、公正無私で厳格だが情もある諸葛亮孔明と、人を思いやる心を持つ劉備玄徳を合わせたような人物です。第16代米国大統領エイブラハム・リンカーンの「人民の人民による人民のための政治」という演説よりも数十年早く書かれた「伝国の辞」で、「国家人民の為に立たる君にて君の為に立たる国家人民にはこれ無く候」つまり、「民のために君主がいるのである」と記しています。公は一国のリーダーとして「民の父母」であるという考えに立ち、民のために事業を創意工夫して戦略を立て、下級武士を中心に改革を行ないました。

改革プロセスには「場作り」「引き出し」が必須です。公は「衆知を集める」ことを大切にしました。民の生活の実情や要望を正しく把握するために民の意見を聞き、もっとも民の近くにいた下級武士からも、一切の先入観を持たずに意見を取り入れました。これは、公が他家からの養子であり、白地に絵を描かざるを得なかった状況からきています。下級武士や民は、自分の意見を述べる機会を与えられ、受け取ってもらえたことで心に火がつきます。対して、松平定信の寛政の改革では、聞き入れるのは、改革方針に都合のいいものに限られました。

公は「場作り」「引き出し」で下級武士と民の心のパワーを引き出しました。それらが欠けると「ぎすぎす感」「やらされ感」が生まれ、組織はスムーズに動きません。同じ内容でも、言われたことは「やらされ感」ですが、「引き出され」て自分で決めれば「やる気」になります。

公は、不労所得者であった侍に開墾や新事業の担い手になってもらうことで、実質的に士農工商を壊しました。封建時代にあっては画期的なことです。倹約だけでなく、人や風土、資源の良いところを探し出し、「米沢織物」「かてもの(※①)」「笹野一刀彫」「養殖鯉」「米沢牛(※②)」など数多くの事業を興して収入源としています。また、藩の発展には人材育成が不可欠だと考え、藩校・興譲館を作り、武士だけでなく農民も受け入れました。人や地域の良い点を「引き出し」、その創意工夫を認める「成長承認」が、下級武士や民の心にさらに火をつけました。公は、藩の改革を「場作り」と「存在承認」によりスムーズにスタートさせ、「引き出し」から民の生活を豊かにする「ビジョン」を示して成功させたのです。

※①雑草を含め草木などを食用にするレシピ。

※②明治になって興譲館に招聘された英国人が牛を導入したことから始まった。

※ワールドジョイントクラブ誌、Vol.59、2011年1月12日号寄稿分