孫文

1866~1925年(享年58歳)


中国の政治家・革命家。1894年に興中会を組織。1905年、東京で中国同盟会を結成し、三民主義を主唱。臨時大総統に就任したが、間もなく袁世凱に譲る。のちに中国国民党を創設し革命の完成を目指したが志半ばで病死した。


中国の辛亥革命(※)から100年。その立役者である孫文は、中国で“革命の父”“国父”として広く尊敬を集めています。南シナ海に面した広東省出身で、12歳のときにハワイに渡り、国際的な視野をはぐくみ医学の道に進みます。生涯において日本との関わりが深く、明治維新を中国革命のモデルにしました。「ヨーロッパ文化を柔軟に取り入れながら国家を発展させた、欧米列強も一目置く重要な模範である」と。

幼少時から正義感が強く、民衆が貧困に苦しんでいる状況を憂慮し行動に移した孫文。滅満興漢を目指した太平天国の乱に学び、平等な社会をつくるためには皇帝の支配を打破して新しい国をつくるしかないと確信します。革命結社興中会を組織し、1895年、広州で武装蜂起を企てますが、事前に情報が漏れ失敗。のちに日本へと亡命し多くの支援者を得ました。

そのひとりは革命家であり浪曲家の宮崎滔天(とうてん)。作家、司馬遼太郎曰く「おそらく滔天はいちばん孫文を知り、孫文はいちばん滔天を知っていたでしょう」と評します。滔天も著書『三十三年の夢』で「その思想の高尚さ、識見の卓抜さ、抱負の偉大さ。わが国にこれほどの人物が何人いることだろう。まさにアジアの宝である」と賞賛。孫文は滔天の紹介によって犬養毅とも意気投合し後ろ盾を得ました。また日活の創始者のひとり、梅屋庄吉は映画で築いた莫大な富をもとに孫文を支えます。「君は兵をあげよ、我は財をあげて支援す」。革命による旧体制の破壊と国家建設のビジョンに感銘し、一夜にして虜になったそうです。

山田良政・純三郎兄弟の革命運動家も同じく孫文に魅了されました。兄の良政は海軍として中国を巡回し民衆の貧しさをつぶさに知ると、孫文の情熱に打たれ、当時の台湾総督・児玉源太郎、民生局長・後藤新平に引き合わせます。孫文は武装蜂起を援護してもらう約束を交わし、1900年、恵州にて再度蜂起します。しかし時の首相になった伊藤博文は国際世論を懸念して支援を中止。良政は戦闘の中止を伝えるため戦地に赴きましたが、あえなく戦死してしまいます。享年31歳。青森県弘前市の良政の慰霊碑には「決死の覚悟で前線に赴き、革命のために命を捧げた尊き人」と孫文自筆の碑文が残されています。

亡命後、滔天に匿われた孫文は1905年、300名を集め中国同盟会を結成。「人民の人民による人民のための政治。国家は人民の共有財」という“三民主義”を唱え革命家らの心をひとつにします。世界中から義援金を集め10年で9回も蜂起しますが、ことごとく失敗。しかし孫文が東京で勢力を拡大すると、日本に派遣されていた清朝の軍人たちも参加。軍内部で革命工作を進め、1911年には清軍が武装蜂起をし、辛亥革命が始まります。すると17の省が次々に清朝から独立。孫文が南京で中華民国成立を宣言したのは、翌年のことでした。

その後、日本は次第に中国支配へ。孫文は決別を覚悟し、1924年11月に神戸で“大アジア主義”の講演を行います。「日本は我々と一緒に行こうじゃないか。ほかの道を行くと滅ぶ」と予言。癌に侵されていた孫文は、それから4ヵ月後に亡くなります。遺言は「革命いまだならず」。病床での言葉でした。

リーダーシップには3つの要素があります。夢・ビジョンづくり、場づくり、人づくりです。孫文は私心なく、夢・ビジョンを語り、心に火をつけ、情熱を灯すビジョニングリーダーでした。飾りのない人柄と情熱が国境を越え、多くの支援者を惹きつけ、身命を賭してまで同じ志を貫く友を生み出したのです。※辛亥革命:清朝を倒し中華民国を樹立した民主主義革命。

※ワールドジョイントクラブ誌、Vol.75、2012年10月20日号寄稿分