歴史人物のリーダーシップ・モチベーション論

過去連載記事『歴史的偉人に学ぶ経営学』を、年代別に再整理してみました。

出典1『歴史的偉人に学ぶ経営学』ワールドジョイントクラブ誌、研究開発リーダー誌

出典2『歴史的偉人に学ぶ経営学2020年版』研究開発リーダー誌


中国三国時代

注:生年~没年(享年)

155年~220年(65歳) 曹操孟徳  出典1 p3

161年~223年(62歳) 劉備玄徳  出典1 p4

181年~234年(53歳) 諸葛亮孔明 出典1 p5

雑誌編集者から提案され三国志を扱いましたが、三国志は壮大な歴史ドラマで魅力的な登場人物も多く、全容を描くことは不可能とあきらめ、3人に絞り触れてみました。

『三国志演義』では善悪対比、善は劉備と諸葛孔明、悪は曹操として描かれました。

記事では、劉備は情と思いの成長型リーダー、諸葛孔明は戦略家であり、かつ、自分にも他人にも厳しく律する理と情、戦略と人心洞察のバランス型リーダー、曹操は信賞必罰、褒美や罰で律する理と利の成果型リーダーと名付けました。

劉備は上杉鷹山、曹操は織田信長に似ていると思います。諸葛孔明は竹中半兵衛と黒田官兵衛を合わせた像でしょうか。

戦国に生き、戦いにあけくれ、知略を尽くし、合従連衡しながら生き抜く知恵や生き方の一端に触れました。


室町時代~安土桃山時代(戦国時代)

注:享年※は暗殺、自害など病死、自然死以外

1415年~1499年(84歳) 蓮如      出典1 p8

1432年~1519年(87歳) 北条早雲    出典1 p21

1528年~1582 年(54歳※)明智光秀   出典2 p23-

1546年~1604年(58歳) 黒田官兵衛   出典1 p15

1563年~1600 年(37歳※)細川ガラシャ 出典2 p31-

1567年~1636年(69歳) 伊達政宗    出典1 p16

応仁の乱を機に、戦国大名の始まり言われる北条早雲からの戦国時代は、騒乱前の蓮如を加え6人を描きました。

浄土真宗の中興の祖・蓮如は親鸞がなしえなかった布教拡大を実現します。拡大に「ベストプラクティスレポート」である「御文(おふみ)」を用い、「講(こう)」という話し合いの場で日常の悩みを共有し、相互にアイデアを出し解決する「場づくり」を行ったことが寄与しました。「宗教布教の3要素」と筆者が名付けたものは「教祖」「教義」「物語」です。蓮如は「物語」に「御文」を用い、日常と教えが結びついている様子をわかりやすく示し、「講」において日常の悩みと教えを結び付けていきます。「御文」のような「ベストプラクティスレポート」、「講」のような「安全で共感できる話し合いの場」が大事なのです。

北条早雲は北条五代の祖、守護でも地頭でもない、縁も所縁もない人物が知略により所領を獲得し、領民・領国を大事にし、小田原を中心に検地と年貢の引き下げと善政を敷き「民衆の父」と慕われ以後北条氏は五代栄えました。目的のためには奇襲や謀略も厭わず、領民や兵には真摯に愛情を注いだからこそ、徳川家康も統治に手を焼くほど領民に慕われることになったのでしょう。北条氏は秀吉に滅ぼされていなければ小田原が首都の幕府が生まれる可能性はあったではとの妄想が浮かびます。

今も謎の明智光秀の謀反の理由。謀反に至る過程で織田信長との関係を修復できなかったのか。秀吉など子飼いの家臣と異なり転職組の光秀は交渉力や幕府とのパイプで取り立てられます。本能寺の変に至る直前に、近江と丹波の所領が召し上げられ、まだ係争中の出雲・岩見を与える(奪ってこい)という命を受けたこと、四国攻略を任され、長曾我部との交渉で長曾我部元親四国切り取り放題とするが、信長が変心し領地返還を命じ、光秀はかばうが信長は変えず窮地に追い込まれます。ここから「四国説」が生まれました。

信長は本能寺の変以前にも謀反が数々ありました。直情型行為は怨恨や不信を生みやすく、トップとしてはアンガーマネジメントが必要であることを学ばせてくれます。

また、転職組の光秀は信長と知略でつながるが心でつながっておらず、距離をとりながらアサーティブコミュニケーションに留意すべきことがあると思われました。

その娘、細川ガラシャは父の謀反による運命に翻弄されますが、逆境の中で信仰や侍女の支援により成長する姿が多くの人に感銘を与え、自死により運命に決着をつけ、以後の徳川と豊臣の天下取りに影響を与え、オペラになり政略結構で領地を広げたハプスブルグ家の人たちにも感銘を与えました。

伊達政宗からはそのしたたかさ、リスクマネジメントを学べます。天下取りの野望を持ちながら、伊達と言われる派手さを見せる時とそれを封印し、深く潜航する時を判断し、徳川家の信認を得て副将軍と称されます。


江戸時代中・後期

1745年~1818年(73歳) 伊能忠敬   出典1 p22

1751年~1822年(71歳) 上杉鷹山   出典1 p6

1751年~1826年(75歳) 大黒屋光太夫 出典1 p7

1760年~1849年(89歳) 葛飾北斎   出典2 p7-

1769年~1827年(58歳) 高田屋嘉兵衛 出典1 p20

江戸時代中期から後期5人を扱いました。

伊能忠敬は言わずと知れた精巧な日本地図『伊能図』(大日本沿海輿地全図)を自らの足で作った人物。17年、4千万歩、4万3千キロを踏破しました。その好奇心、探求心から筆者はパワーをもらいました。婿として支えた家業を全うし、嫁から許しを得て、老後に夢であった天文学を学び始め、若い師に師事し、幕命で地図を作りやり遂げます。その精緻さ故、シーボルトが持ち出そうとしたことが発覚し国外追放となる程でした。心理学の「フロー状態」、何かに打ち込み食事も忘れるほど忘我で集中した状態です。それが行動力と長寿に繋がったと推察されます。

並べてみて興味深いのは大黒屋光太夫上杉鷹山が同じ年の生まれという点です。

鷹山は財政破綻で瀕死の米沢藩政改革を、人の心に火をつけ、モチベーション向上と創意工夫により農業振興、農民の手工業開発、米沢織など産業振興、を引き出しました。死に体の藩を、心の改革で生き返らせ、「民の父」として民を慈愛するリーダーでした。

光太夫は難破し漂流して助けられ、ロシアで生き抜きエカテリーナに直談判し日本に帰国しました。ロシア語を習得し、極寒の中、生き抜くリスクマネジメント、帰国のための交渉術が秀逸です。自分の身は自分で守れ、という自助の精神は、鷹山の教えと共通です。

光太夫が米沢藩改革に参加したらどうなっていたでしょうか。極寒のシベリアで部下を激励し命を守り、生き抜いた知恵は雪深い米沢の地で人材育成や殖産興業に資したかもしれません。

江戸時代の長期の平和は文化の華を開かせ、葛飾北斎は江戸の文化繚乱のエポックメーカーです。30回以上の改名とともに画風を変える柔軟な変身術を持っていました。絵に取り組む姿は「フロー」そのもの。その執念やまた「110歳で点や線が生きているごとく描けるだろう」というビジョンを持ち成長し続ける姿は学びになります。

江戸後期になるとロシアなどが蝦夷地などに進出し、高田屋嘉兵衛が商人ではあるものの外交問題に巻き込まれ交渉で力を発揮します。歴史小説の文豪・司馬遼太郎は、一番好きな人物は誰かと尋ねられた時、「高田屋嘉兵衛」と答えたとされています。一介の商人が肝っ玉と独学で学んだロシア語で二国間の問題を解決に導きます。余談として、東京・お茶の水の「ニコライ堂」。ロシアで高田屋嘉兵衛を知ったニコライが、本人に会いたいと来日し、すでに亡くなっていたが、日本に残り宣教したと伝えられています。


幕末

1801年~1855年(54歳) 江川太郎左衛門

1805年~1877年(72歳) 山田方谷

1811年~1864年(53歳暗殺死) 佐久間象山

1823年~1899年(76歳) 勝海舟

1826年~1877年(51歳自害) 西郷隆盛

1827年~1896年(69歳) ジョン万次郎

1828年~1910年(82歳) レフ・トルストイ

1830年~1859年(29歳獄死) 吉田松陰

1836年~1867年(31歳暗殺死) 坂本龍馬

1840年~1931年(91歳) 渋沢栄一

幕末は外圧が極まり、ペリー艦隊による力の外交、ガンボート・ディプロマシーに屈し開国、沿岸防備と攘夷運動で内政が混乱の極みとなります。

江川太郎左衛門は台場を整備し沿岸防備を進め、その塾に佐久間象山が入塾しますが、考えの相違から退塾し自ら塾を立ち上げ、吉田松陰は大いにその影響を受けます。ペリー艦隊に密航を依願しましたが断られ、自ら下田奉行所に出頭し、連座を問われた師・佐久間象山も蟄居となります。また、勝海舟の妹は佐久間象山にほれ込み嫁入りし、義兄弟となります。江川、佐久間、勝、吉田は国防の重要性を強く認識し、軍事力増強を謳います。それぞれのリーダーシップを背中で見せて、それを学び自らのリーダーシップを作り上げていくドラマがありました。

山田方谷(備中松山藩の家老)は、藩政立て直しに取り組み、上杉鷹山の倹約と殖産興業の取り組みに学び立て直しに成功し、かつ、防衛面では日本初の農兵隊を組織します。基本思想は「武士も農民も慈しみ愛情をもって育て、国民全体を富裕にする」「領民を富ませることが国を富ませ活力を生む」という“士民撫育。鷹山の「民のための君主」思想に学びます。

ジョン万次郎は、少年時漁船が難破し、アメリカの捕鯨船に助けられホイットニー船長にかわいがられ子供のように育てられ、航海術などを学びます。帰国後取り調べや大名や知識人からアメリカ事情を聞かれ、ペリー来航の際の通訳として抜擢されますが、幕府内からアメリカ寄りと疑われ外されます。万次郎の生涯から、逆境で強く生き抜き周りを支援者にする人間力、変革期に異文化体験をもとに国づくりのビジョンを伝えた「100年の計を作るリーダーシップ」を学び取ることができるのではないでしょうか。

トルストイは『戦争と平和』で戦争の無益さを伝え、キリスト教国であるロシアと仏教国である日本が日露戦争で戦うことに反対し続けます。また、自らが富裕な階層であることに自責の念を持ち、自らの財産を農民に開放しようとし、妻と鋭く対立し、家出をしある駅でなくなります。

渋沢栄一は「日本資本主義の父」と呼ばれ、生涯に約470の企業、約600の教育機関・社会公共事業に関わりました。その説くところは著書『論語と算盤』にあり、「道徳経済合一説」です。コンプライアンス経営を一歩進め、道徳があるからこそパフォーマンスの高い経営ができるというものです。


明治時代~昭和時代

1866年~1925年(59歳) 孫文

1884年~1973年(89歳) 石橋湛山

1894年~1989年(95歳) 松下幸之助

1902年~1985年(83歳) 白洲次郎

1905年~1997年(92歳) ビクトール・フランクル

1908年~1970年(62歳) アブラハム・マズロー

1913年~1960年(57歳) 川原俊夫

孫文、石橋湛山、白洲次郎は革命家・政治家・官僚、松下幸之助、川原俊夫は実業家、フランクル、マズローは心理学者と統一感はありませんが、その行動や思想には一貫して社会や人を幸せにしようという共通項がありました。

孫文は中国革命の父、国父として、その思想やビジョンの高尚さ・大きさ、見識から、宮崎滔天など多くの篤志家の支援を日本からも得ます。リーダーシップの3要素の一つ、ビジョニング(夢を語る)・リーダーシップにたけ清王朝を倒し共和政権を樹立しました。

石橋湛山白洲次郎は、戦後の吉田内閣の閣僚と参謀として、GHQの理不尽な要求にも毅然として反駁し、筋を通します。

石橋湛山は「理屈は我と彼とを疎隔し、同情は我と彼とを融合する大切な要件である。相手の立場に立って物事を考えてみる、ということである。これは、国と国とのつきあいでも例外ではない」という言葉を残し、戦前は『東洋経済』誌で反戦の活動を行い、戦後は首相を歴任し、その後は在野で日中国交正常化推進や東西冷戦に風穴を開けました。

ジャーナリストから政治家に転身し、吉田茂内閣では大蔵大臣に抜擢され聖域にメスを入れます。GHQの占領下、進駐軍の諸経費は賠償(戦後処理費)とみなされ日本政府が負担。豪華な住宅をはじめ、将校は金魚や花束でさえ経費で届けさせることができました。その年間総額は国家予算の3分の1に上り、貧困に悩む国民の生活を圧迫。湛山は怯むことなく真っ向から削減を要求し、GHQ側は占領政策を内外から批判されるのを危惧し、経費の2割削減に同意します。アメリカの言いなりにならない湛山は“剛毅な心臓大臣”と呼ばれるほど、その信念を貫きとおしました。

白洲次郎は英国留学で学んだ信条「ノブレスオブリッジ(高貴なる者の義務)」にもとづき筋を通し続け「唯一の従順ならざる日本人」とGHQから恐れられました。強いアサーティブ(主張型)・コミュニケーションともいえます。高貴なる地位や責任ある地位の者は、自ずからの利益より公共の利益を優先し、その後ろ姿で率いる、という姿勢を見せます。

1945年のクリスマスのエピソードとして、昭和天皇からのプレゼントをダグラス・マッカーサーに届けたときのことが語り草となっています。「そのへんにでも置いてくれ」とプレゼントがぞんざいに扱われると白洲は激怒。「仮にも日本を統治していた天皇陛下からの贈り物をそのへんに置けとは何ごとか。我々は戦争に負けたが、奴隷になったのではない」と烈火のごとく言い放ち、プレゼントを持ち帰ろうとしてマッカーサーを慌てさせたと言います。官僚や実業家として戦中戦後に活躍した白洲次郎の真骨頂は、その颯爽かつ潔い骨太なダンディズムにありました。

アブラハム・マズローは「人間性心理学」を唱えました。それまでのフロイトの「精神分析学」、スキナーの「行動主義心理学」と決別し、人間には意志と心があり、それが人を動かすとし、かの「欲求の5段階説」の発案しました。人間の欲求を整理し、最上位に「自己実現」欲求を提示し、現代に強い影響を残しています。彼は人の成長のために「承認」し「受け入れる」という行為が非常に大事だと説いています。取り組みを「承認」された人は、それでいいんだ、と取り組んでいたことに打ち込み「自己実現」していくのです。

ビクトール・フランクルマズローの同時代人で、「意味実現」の心理学「ロゴセラピー」を唱えます。そのメッセージは、「自己実現」に加え、「意味実現」の重要性を説いています。「自己実現」は自分なのに対し、「意味実現」は与えらえた使命に意味を見出し実現すること、他者への貢献や幸せの実現です。「人は、人生から生きる意味を問われ続け、人の役に立てる喜びを見出すようにプログラムされている」と言うのです。

松下幸之助は商売の神様とも呼ばれ、奥さんとともに二人三脚で会社を家族として育てます。その経営哲学は『商売心得帖』に代表される数多くの執筆により広く浸透してきました。私が最も影響を受けたのは「長所をみる力7、短所を見る力3」、つまり、相手の良いところを引き出し伸ばそうという育成思想です。

その他に「頼もしく思って人を使う」「下意上達」「好奇心」「話しやすい場づくり」の取り組みを紹介しました。

川原俊夫は辛子明太子の開発者で、戦争で亡くなった戦友たちのためにも生き抜く、社会に貢献することを誓い、戦後食糧難の中、食べ物で貢献しようと長年をかけて辛子明太子を開発します。戦争を経て戦うことを避け、独自の食品にこだわり、上市後は要請に応じにレシピを公開する寛容さが氏の素晴らしさであると思います。それに応え、他の参入者は異なった味のものを提供したと言われています。氏の創業社では、リーダーシップ育成のために、就業中でも地域活動などに「肩書抜き」で参加することが奨励されるという独自の育成策が秀逸です。