レフ・トルストイ

1828~1910年(享年82歳)


帝政ロシア時代の小説家・思想家。ドストエフスキーやツルゲーネフと並び、19世紀のロシア文学を代表する巨匠。著作に『アンナ・カレーニア』『戦争と平和』などがある。文学のみならず、政治、社会にも大きな影響を与えた非暴力主義者としても知られる。


モスクワから約200km南に位置する街、トゥーラの郊外にロシアの小説家、トルストイの邸宅が残っています。世界から年間約30万人の観光客が訪れるなど、彼の作品や思想への根強い人気の一端を垣間見せます。また作家としてだけではなく、大貴族、大地主としての顔も持っていたトルストイ。本稿では氏の生き方からその魅力を紐解いていきたいと思います。

代表作『アンナ・カレーニナ』『戦争と平和』など90作を超える著作を遺し壮大な物語と深い思索で世界中から読者を獲得した一方、日露戦争には真っ向から反対する非戦思想の持ち主として、ヒューマニズムのシンボルとなり畏敬の念を集めました。そんな彼も家庭には恵まれなかったようで、妻のソフィアはソクラテス、モーツァルトの妻と並ぶ世界3大悪妻と言われました。

トルストイが生きた時代のロシアは、ひと握りの貴族らが大多数の農民を治める帝政国家。国民の大多数を占める農民は農奴と呼ばれ、貧しい生活に打ちひしがれていました。トルストイは大地主として農民の声に耳を傾け、土地の再分配を政府に訴えます。さらに農民の子どもたちのために学校を設立し自ら教科書を執筆。ペンの力で貧しい人々を圧迫する国家を鋭く批判していきました。それに対し、時の皇帝ニコライ2世は列強諸国の植民地拡大政策に乗り遅れまいと、軍備拡大を推し進めます。抵抗したトルストイは危険視され、著書の一部に発売禁止処分を受けますが、秘密警察の監視をものともせず筆を折ることはしません。往時、彼はニコライ2世と並び、“ふたりの皇帝”と称され政府の批判を続けますが、皇帝側はトルストイの影響力を考えうかつに手出しをしません。刑務所に投獄する案もあったようですが、直接制裁を加えることは不可能だったそうです。そこで、彼に同調する友人たちを逮捕、流刑に処し、発言を防ぐくらいが関の山でした。

しかし、1904年、日露戦争が勃発。日本は100万人以上の兵を動員し、203高地の戦いでは1万5,000人の兵が5日間で5分の1になるほど、その戦闘は熾烈を極めました。トルストイは落胆し『汝悔い改めよ』を発表。殺生を禁じた仏教徒と博愛主義のキリスト教徒が争い合うことを悲観し、戦争を非難します。ロシア国内では発売禁止となりますが、世界中で翻訳され反響を呼びました。

他方、日本でも『国民新聞』を創刊した徳富蘇峰(そほう)が理想の思想としてトルストイを取り上げます。弟の蘆花(ろか)は著書『トルストイ研究書』で次のように評しました。「人が人をくう19世紀の今日に、ひとり平和を主張する勇気のあるものがなかったら世界の友好が達成できるのはいつの日であろう」と。蘆花は戦後トルストイ邸を訪れ彼の思想に触れ、社会評論で軍国化に反対を続けます。またインド独立の父、ガンジーも非戦・非暴力の思想を受け継いだひとり。トルストイが晩年、ガンジーにしたためた手紙にはこうあります。「暴力は決して愛とは共存せず、暴力が許されるやいなや愛は否定されます」。その教えは1960年代のマーチン・ルーサー・キングの公民権運動にも受け継がれました。

トルストイは自らのヒューマニズムと相対する大貴族という立場、妻との不和に終世苦しみながらも、著作やその生きざまで多くの支援者を得て、実体のある反戦・反帝国主義に取り組みました。その思想は蘆花を通じ日本へ、またガンジーへと引き継がれたのです。「ペンは剣よりも強し」。石橋湛山にも通じたリーダーシップだと言えるでしょう。

※ワールドジョイントクラブ誌、Vol76、2012年12月20日号寄稿分