蓮如

1415~1499年(享年85歳)


親鸞の子孫として法灯を継ぎ、精力的な伝道で大教団を築き上げた。浄土真宗の中興の祖。人生50年と言われていた当時としては驚くべき長寿を全うした。5人の妻とのあいだに、27人の子を持つ。


わずか10年の間に約10万人に布教したと言われる蓮如上人(れんにょしょうにん)。布教の原動力は、その人間臭さゆえに誰からも愛された人間的魅力と、「難しい教義を物語でやさしく、深く、おもしろく」心に染み入らせた「御文(おふみ)」によるものと推察されます。

蓮如は布教の方法として「御文」を使いました。これは、教義を消息(手紙)のかたちで分かりやすく、かな混じりの文章で説いたものです。「御文」は門徒たちによって書き写され、口伝も手伝って人から人、村から村へと広まりました。仏法をわかりやすく物語風にして残し、浄土真宗布教のカギとなりました。

「人はみな、仏の前で平等である」と説く蓮如は、リーダーとしてもその目線で取り組みました。教えを施す人、施される人が同じ目線にあり、互いの話や境遇に共感したのです。人を率いるだけがリーダーではありません。蓮如の魅力は、門徒の中で同じ目線でわかりやすく語り、一緒に歩くというリードの仕方にありました。

「宗教の3要素」という言葉があります。布教の進む宗教は「教祖」「教義」「物語」の3つが揃っているというものです。浄土真宗には「親鸞と蓮如」という「教祖」、「教行信証」という「教義」、そして「御文」という「物語」が揃っていました。企業の例で言うと、パナソニックには、創業者・松下幸之助翁の「お客さまの欲しがるものを作ってはいけない。お客さまの喜ぶものを作りなさい」などの言葉が「教義」として引き継がれています。この平易な言葉は、ななめドラム洗濯機という、使って喜ばれるものを開発する「物語」を生み出しました。

3要素、とくに「物語」をとおして、たとえ教祖が不在となっても「教義である理念」と「物語」が受け継がれ、行動としてつながり、組織が成長します。ほかにもリッツカールトンホテルでは「クレド(信条)」と「ミスティーク(神秘の泉)」がその役割を果たしています。

「4、5人いたら必ず話し合いをせよ。そうすれば、必ず互いの話をうまく聞き、良い結果が得られるものなのだ」(蓮如上人御一代記聞書)と、蓮如は「講」という地域での寄合いを提唱しました。みんなで飲み食いしながら、「御文」を使って日頃の悩みなどについて話し合う場であった「講」。守護大名の領土を越えた人々の交流も始まり、まさに「ファシリテーション(促進)の場」です。

「講」は、ディベートではなくファシリテーションであり、否定しないことがカギです。「御文」を使いながら、僧侶がファシリテーターとなって意見を引き出します。否定しない、何を発言してもいいと「存在承認」されることで、参加した人々は、悩みや意見を引き出され、一緒に解決しモチベートされたのだと推察します。

「講」などで集結した力は、蓮如の意図に反して加賀の一向一揆を起こし、100年近く続く独立国を作りました。皮肉にも「御文」や「講」をとおして人々が身につけた力や団結が国を支えたのでしょう。

その後、「我が宗派は、仏の国を作るべきである」と、山科本願寺作りを始めた蓮如は「敵の城を攻めることはあってはならない。自分を守ることはやむを得ないとしても、つとめて人を攻めたててはならないのだ」と提言しました。

門徒たちのボランティアに頼り、5年の歳月を費やして甲子園球場20個分の広さの寺院都市が完成。水の流れる庭園は、門徒たちの憩いの場です。職人や商人も住まい、街の自治を門徒に任せ、蓮如亡き後も平和な暮らしが約50年保たれたそうです。

真のリーダーの役割は、同じ目線で共感を引き出し、「御文」と「講」などの共創の仕掛けを遺産として、自己成長の礎を残すことなのかもしれません。

※ワールドジョイントクラブ誌、Vol.61、2011年3月12日寄稿分