三国志

中国の後漢末期~三国時代を舞台にした興亡史『三国志』。とくに人気の曹操、劉備、諸葛亮から、現代の経営におけるリーダーシップの大きな対比軸、「仕事の成果」と「人の成長」について読み解きました。 

「曹操孟徳」タイプ

 三国志のなかで描かれる魏のリーダー、曹操孟徳の活躍を見ると、「版図の拡大=仕事の成果」としていた「理と利」のリーダーだったことがわかります。筆者は彼を「成果型リーダー」と呼んでいます。

 曹操の論功行賞の与え方について「魏書」武帝紀では「勲労、賞すべきには千金を惜しまず、功なくして施しを望むには、分毫も与えず」と示されています。賞を与えるときは千金も惜しまないが、功績もないのに賞与を欲しがる者には一銭たりとも与えなかった、という曹操の「理と利」の功利主義がうかがえます。

 出陣したときに兵糧が足りなくなり、兵糧係の「小ぶりの枡で支給すれば、なんとかしのげます」という提案を聞いた曹操は、それを実行させます。ところが、食事に敏感だった将兵たちから、曹操が皆をだましているという噂が流れると、「将兵たちを納得させるには、おまえに死んでもらわねばならん。ほかに解決の道がないのでな」と言って兵糧係の首を切り、「軍の穀物を盗んだかどで斬罪に処する」と告示しました。曹操の、目的のためには手段を選ばない計算高さがよく表されています。

 曹操は「ハーズバーグの二要因説」(※)の一つ、「衛生要因」を駆使したリーダーシップを発揮していました。褒美や昇格などの「衛生要因」インセンティブによって人を率いる、戦術力があったと言えます。「衛生要因」とは「ないと不満だが、必要以上あってもモチベーションにつながらないもの」。具体的には生理要因の食事、安全要因の金銭、領土、地位といった物質的で有限なものです。食事は食べると元気になりますが一食で十分で、逆に多過ぎれば「過ぎたるは及ばざるがごとし」。モチベーションは下がってしまいます。企業でいえば、昇給や昇格などのインセンティブが「衛生要因」です。ある程度までいけば満足し、持続的なモチベーション向上にはつながらないのです。

 ただし、曹操には「理と利」だけではない何かがあったからこそ、人がついてきたのだと推測します。蜀のリーダー、劉備の腹心の部下だった関羽に惚れ込んでいた曹操は、彼を捕えて非常に手厚く扱い、関羽も恩義を感じ返礼し、劉備のもとにもどるところを殺さずに通した史実があります。惚れ込んだ人間には厚いところがあったのでしょう。また計算高いがゆえに優秀なリスクマネージャーだった曹操は、自分の身や組織を守るためのリスクマネジメントに力を発揮したと推測します。

 曹操は非常に主張が明確で、何をしたいのかが周りにも伝わりやすかったのだと思います。また、彼は目的のためには手段を選ばなかったため、革新的な手段を持ってくる新規さがあったのではないかと推測できます。この点で曹操は、変動の激しい、厳しい環境下でサバイバルする企業の経営者タイプだったと言えるでしょう。

※「衛生要因」と、もう一つの要因は「あればあるほどモチベーションを上げるもの」である「動機付け要因」の「承認」。存在や努力、成果を認めること。

「劉備玄徳」タイプ

 蜀のリーダーだった劉備玄徳は、情と思いの強さから、「人を大切にする」ことを意図していました。「大事を成すには必ず人を持って本と成す」(「蜀書」先主伝)と言い表される劉備のリーダーシップを、筆者は「成長型/EQ(※)リーダーシップ」と呼んでいます。

 曹操の大軍に迫られた劉備は撤退する決断をしますが、劉備を慕って何万もの人民がついてきました。その様子に部下の一人が「一刻も早く行かねばなりません。ここには無数の人間がいますが、武装した兵はわずか一握り、もし曹操の軍に追いつかれたらひとたまりもありません」と言ったところ、劉備は「大業をなすには、何よりも人民が第一。いま、これだけの人々がわしを慕ってきてくれているのだ。それをむざむざと見捨てて行けるか」と一喝しました。人を大切にした劉備らしいエピソードです。

 「弘毅寛厚、人を知り士を待するは、けだし高祖の風、英雄の器あり」。つまり劉備は、広い見識と強い意志、それに加えて豊かな包容力をもっており、これぞという人物には甘んじてへりくだったのです。まさしく高祖の風格に恵まれ、英雄の器でした。

 その包容力と強い意志に関羽と張飛が惚れ込んで義兄弟の「桃園の契り」を交わし、生涯、劉備を守り通したことからもわかるとおり、劉備は人を信じ、一心に託し、支援することができた「信託援リーダー」でもありました。

 「メラビアンの法則」によると、コミュニケーションは言葉が7%、言い方や振る舞いが93%です。振る舞いは背中から伝播し、遠くでも感じられます。その人の雰囲気は、振る舞いを通して醸し出されます。部下は上司の背中を見て育つのです。

 曹操が「二要因」のうち「衛生要因」を駆使していたのに対して、劉備は「動機付け」の達人でした。物質的なものである「衛生要因」と異なり、精神的かつ無限の資源である「動機付け要因」、とくに「承認」は、あればあるほど人を動機付け、元気にします。

 劉備も、前号の吉田松陰と同様に「承認」の人でした。「承認」には「成果、成長、存在」の三つがあります。「存在承認」は、「いてくれるだけでいい。何でも受け取ってあげる」「良いところを見出して、そこを伝える」という、温かく見守る大きな心です。劉備は、この「存在承認」がとくに厚かったと推測します。企業内でも「見守り、じっと待つ」ことは、部下の成長の孵化器です。「どのようなチャレンジをしても大丈夫」と感じられる「安全地帯」を作り「チャレンジと成長」を促します。

 「成長承認」はがんばっている姿を認め、自分の水準ではなく、相手の努力・成長を認めてあげること。自分の水準でほめることが「成果承認」です。

 国力が魏や呉と比較し格段に劣るなか、劉備の、人への思いやりと「動機付け」により独自のポジションを築く取り組みは、時空を超えて学べるものだと思います。

※自分を客観的に見て感情をコントロールし、モチベーションを高めて他者に共感する「大人度」を示す。

「諸葛亮孔明」タイプ

 諸葛亮孔明は、三顧の礼で迎えられ、劉備に仕えました。劉備は「動機付け」の達人、曹操は「衛生要因」を駆使したリーダーでしたが、そのどちらも兼ね備えていたのが諸葛亮です。戦略・戦術にたけ、ルールに厳格でしたが、志の高さ、温かさがあり、心を察することを心得ていました。

 「邦域の内、みな畏れてこれを愛す。刑政、俊なりといえども、怨むものなし」(「蜀書」諸葛亮伝)。諸葛亮は、善行はどんな些細なことでも必ず評価し、悪事はどんな些細なことでも必ず罰した人物でした。その上、すべてに細かく気を配り、何事につけても根本をゆるがさなかったことから、人々は諸葛亮を恐れながらも厚く信頼し、敬愛の情をいだいていたのです。

 泣いて馬謖を斬ったときの決断が苦渋の選択であったことは、皆が知っていました。厳格にルールを守るため、腹心の部下を殺さなければならなかった無念さや苦しみを胸の内にしまっておく、男の美学です。諸葛亮の志の高さ、真っ直ぐさ、思いの深さが伝わります。

 「七たび放ち、七たび捉う」(「蜀書」諸葛亮伝)とあるとおり、諸葛亮は反乱軍の首領孟獲を捕らえるたびに笑って釈放しました。七度目には孟獲も反乱をやめることを誓い、諸葛亮は南方をことごとく平定。その統治は地元の指導者に委任しました。このやり方に反乱の再発を懸念する者もいましたが、「もし中央から余所者の役人を派遣すれば、警護の兵もつけなければならぬ。それでは、決して心を許すまい。秩序を回復し、蛮族も漢族も安寧に暮らせるようにすればよいのだ」と言い、一兵もとどめることなく引き揚げました。人の心、被支配者の心をよく理解した統治です。

 劉備は死の床で「我が子・劉禅が補佐するのに値しないのであれば、君が取って代わってくれ」と遺言しますが、諸葛亮は「自分は死ぬまで手足となって働きます」と答え、実践します。劉禅には北伐にあたり、「出師(すいし)の表」において「皇帝は臣下の言論をふさぎとめてはならない」「皇帝たるもの常に公平であれ」といったメッセージを残しました。

 その忠誠心と自分の運命に身を任せる潔さ、財産もほとんど持たなかった誠実な人柄、そしてその策士としての振る舞いを評して「誠実さをもったマキアベリスト(権謀術数主義者)」とも言われています。私利私欲に走らず、人に要求することは自分にも課し、その厳しさがあまりにも公明正大なので、この人であれば絶対に裏切らないと、民にも敬愛されたのです。その厳しいなかに見る温かさが、諸葛亮の人気に繋がっていると推測します。

 現実的な策士である半面、心の奥に熱さを持ち、理と情のバランスが極めて取れていたリーダー、諸葛亮孔明。ルールを厳格に運用し、「衛生要因」における不満を持たせず、劉備と民への思いによる「動機付け」でモチベーションを高めるバランス感覚。そして自分にも厳しくあり続けた彼の姿勢は、現代の経営においても普遍的に学ぶことのできるものと言えるでしょう。