伊達政宗編

1567年~1636年(享年68歳)

仙台藩の初代藩主。米沢城で生まれた。幼少時に天然痘にかかり一命を取り留めたが、その毒によって右目を失明。独眼竜正宗とも呼ばれた。関ヶ原の戦いでは徳川方につき、仙台62万石の基礎を築く。派手なふるまいをすることを伊達というが、その語源にもなっている。ほかに”東北王”や”奥州の龍”との呼称もある。

東北の雄、伊達政宗。戦闘時の装束は金色に輝く上弦の月の兜、漆黒の五枚胴具足の騎馬像で有名です。その派手さに目がいきがちですが、豊臣秀吉や徳川家康との駆け引きではいつも崖っぷち。あらゆる手段で国と民を守り抜くことが政宗の戦いでした。派手なパフォーマンスや巧みな外交交渉で、秀吉、家康ら天下人と駆け引きを繰り広げていく一方、新田開発や河川改修で仙台藩の経済力を発展させる、実のあるリーダーシップで、地元からだけでなく多くの人に愛されてきました。

幼少時、右目を失明し自信をなくしていた政宗に、教育係の虎哉宗乙(こさいそういつ)は歴史や故事を紐解き、唐末に独眼竜と呼ばれ中国全土に名をはせた黒甲冑の武将、李克用(りこくよう)を伝え「強く生きること」と心に火をつけます。政宗は18歳で家督を継ぎ、奥州制覇をビジョンとして精強な黒い軍団を率い東北南部に覇を唱えました。

伊達男の起源になるほどの派手さが目立った政宗ですが、その姿からは“したたかさ”“リスクマネジメント”が垣間見えます。1590年、秀吉は小田原城攻めに政宗を参加させ忠誠を示すよう促しました。なかなか参戦しない態度に業を煮やした秀吉は懲罰を考えましたが、政宗は死を覚悟した白装束を身にまとい現れます。事前に秀吉側近からリサーチをし、派手で人を驚かすのが好みと知るや、存在感を示すチャンスとばかりに打って出ると、命懸けで利用価値のある男として認められたのです。

1592年には朝鮮出兵の際、京で行われた“馬ぞろえ”という軍事パレードに参加。わざわざ京で物品を調達し、陣笠は1mで金色、馬は豹皮、虎皮、孔雀の尾などで派手に飾ります。人々は伊達軍のきらびやかさに大喜び、歓声が大きく話が聞きとれないほどだったといいます。このことから“伊達”は派手で“しゃれている”“人目に立つ”などのかけ言葉となります。

一方、家康の時世では派手な振る舞いを控えます。天下取りの野望を隠し、国宝・瑞巌寺は政宗自らの設計で対幕府を想定し、武者隠し、天井裏の隠し部屋、見張り台を持つ隠し砦として作られました。鶯張りの廊下が、不審者の侵入を知らせるセキュリティ対策になっています。また大名取りつぶしの時代でもあり、幕府に睨まれないよう対策を施します。例えば、天守閣のない新しい城。「この時代に堅固な城はいらない」と家康の家臣、今井宗薫に手紙を送り警戒心を解こうとします。さらに遊び、女、歌舞伎や狩りに興じ、反抗心のなさを示す。こうして伊達心とは、遊興を愛する心となっていったのです。

家康の死に際し灯篭を贈るタイミングでは、ほかの大名に大きく遅れをとり窮地に陥りますが、領内で生産できる鉄の灯篭を贈り危機を脱します。ほかにも名産の塩引、オットセイのたたきといった珍味などオリジナル品を献上。徳川家に気に入られ、政宗が亡くなった際は、時の将軍家光が江戸で7日、京で3日、狩猟や音曲を禁じ喪に服したそうです。

また生前は領地発展に取り組み、仙台を日本一豊かな地域へと開発していきます。「入そめて、国ゆたかなる、みぎりとや、千代とかぎらじ、せんだいのまつ」。北上川の改修工事、氾濫対策、米作り。7㎞の大堤防を作り、仙台米の実高は100万石を数えました。仙台味噌は仙台城で兵糧用に味噌を作ったのがはじまりとなり、笹かまぼこの笹の葉のかたちは竹にスズメ(仙台笹)の伊達家の家紋がモチーフともいわれます。

※ワールドジョイントクラブ誌、Vol.69、2011年10月20日号寄稿分