西郷隆盛

1828~1877年(享年49歳)


幕末・維新の政治家。明治維新の成立に貢献した。維新後、信奉者の暴走により西南戦争が勃発。政府軍に敗れ自刃した。映画『ラストサムライ』は、西郷隆盛がモデルともいわれている。著書はないが庄内藩士により遺訓『西郷南洲遺訓』が残されている。



“愛嬌のある豪傑”で、「大きさ、寛大な心」「天を敬い人を愛し、命も名声も官位も金もいらぬ、無私、謙虚な人」「覚悟の人」として万人から好かれた西郷隆盛。私生活を親しく見た人曰く、「一度も彼が下男を叱ったのを見たことがない。寝床のあげおろし、雨戸の開け閉て、身の回りのたいがいのことは自分で済ませた。人がしてくれる時は、少しも口を出さなかった。......無頓着とまったくの無邪気とは、子どものようであった」と。

大きさ。勝海舟の談話集『氷川清話』で、坂本竜馬曰く「われ、はじめて西郷を見る。その人物、茫漠としてとらえどころなし。ちょうど大鐘のごとし。小さく叩けば小さく鳴り。大きく叩けば大きく鳴る」。とらえどころなく大きな人物と評しています。

寛大な心。遺訓『西郷南洲遺訓』は戊辰戦争の敵方、庄内藩の手で書かれています。学び取った彼の教えを編纂し後世に残したのです。戦争で全面降伏した庄内藩は武装解除されるのが普通ですが、西郷は逆に新政府軍から刀を召し上げ、丸腰で城に入って行かせます。敗者への配慮、敬意からです。のちに彼が郷里に戻ると、庄内藩の若い武士だけでなく藩主・酒井忠篤までもが鹿児島へ教えを請いにきました。それほど惹かれたのです。

遺訓4条「万民の上に位する者、己を慎み、品行を正しくし、驕奢(きょうしゃ)を戒め、節倹を勉め、職事に勤労して人民の標準となり、下民その勤労を気の毒に思う様ならでは、政令は行われ難し」。上に立つ者はつねに自分を謹み、贅沢を戒め、仕事に励み、部下が気の毒に思うくらいでなければ、行動させることは難しい。いつも部下は背中を見ていると。

啓天愛人。西郷は、天を敬い、人を愛することを説きます。「天を相手にし、己れを尽くして人をとがめず、我が誠の足らざるを尋ぬべし」という一節に、時代の混乱に埋もれず、志を見つけ、ビジョンを描き続けることができた秘密が隠されています。

無私、利他、謙虚。遺訓1条「廟堂に立ちて大政を為すは天道を行うものなれば、些(ち)とも私を挟みては済まぬものなり」。政治や経営を行うものは、天の道理に従うものであり、少しでも私心を差し挟んではならない、と教えています。

遺訓21条「総じて人は己に克つを以て成り、自ら愛するを以て敗るるぞ」「事業を創起する人、大抵十に七、八まではよくなし得れども、残りを終わるまでなし得る人の稀なるは、......功立ち名をなすにしたがい、いつしか自ら愛する心起こり、恐れ慎むの意弛み、驕り高ぶり、......いやしくも我が事を仕遂げんとて、まずき仕事に陥り、終に敗るる」。立志のころは誰もが己を謹み、謙虚に慎重に努力を重ね、事を進めます。しかし、成功を重ねると気づかぬうちに慢心し、傲慢になります。先見性のある経営者でも、謙虚さを忘れ没落した例は枚挙にいとまがありません。

覚悟。「命もいらず、名もいらず、官位も金もいらぬ人は、仕末に困るものなり。この仕末に困る人ならでは、困難をともにして国家の大業は成し得られぬなり」。命も名声も役職も金もいらぬ人は始末に困る。だが、始末に困る人でなければ困難をともにして国の偉業は成し遂げられない。その思想的背景は“陽明学”でした。遠島の際、西郷は王陽明著『伝収録』を丹念に読み込み、知行合一(知っているだけではなく行い役立つことが重要)であることを学び、その後の指針とします。廃藩置県の際「決断あるのみ。暴動が各地で起ころうと、あとのことは私が引き受けもうす」と覚悟と実行を見せました。私学校の生徒が暴走し西南戦争をはじめた際も「おいどんの命、おはんらにあげもうそう」と受け取ったといいます。

その無邪気、無頓着ながら「敬天」「利他」「覚悟」の振る舞いが、人心をつかみ、その教えが遺訓として時空を超え、自らの足元や背中を振り返る教訓となって伝わっているのです。

※ワールドジョイントクラブ誌、Vol.67,2011年8月20日号寄稿分