1432~1519年(享年88歳)
室町後期の武将。後北条氏の祖。駿河の今川氏を頼り次第に頭角を現した。その後、足利茶々丸を倒して伊豆韮山に進出、小田原を本拠地として南関東制覇の基礎を築いた。
時は室町時代“人生50年”。北条早雲、またの名を伊勢新九郎は56歳にして弓矢を取り、87歳にして一国を治めます。高齢にして戦国大名の魁。悪辣な手段を講じ相手を倒す武将というイメージから、善政を施す施政者として見直されています。
備中荏原荘(岡山県井原市)生まれ。30代で将軍・足利義政の弟・義視に仕えます。1467年の応仁の乱では兵が寺社や民家に押し入り略奪や放火が繰り返され、京都は焼け野原。民衆に犠牲を強いる戦いとなります。若き早雲は民衆の苦しみを知りながらも放置する足利の治世に耐え切れず、幕府を去ります。駿河に下り、守護大名今川義忠に嫁ぐ妹・北川殿に身を寄せました。40代になると京都で出家、禅宗に深く帰依します。記録にも早雲の名が残っており、その後、再度幕府で働いていたことがわかっています。地方の守護からの陳情を取り次ぐ“申次衆”役。地方の情報や惨状が伝わる立場で治世への思いを募らせると、再度幕府の職を辞します。
1487年、駿河国今川家のお家騒動の際には、幼少の竜王丸を後見する小鹿範満に人望がないことを知ると、早雲は不満をもつ者たちを率い周到な情報収集と電光石火の奇襲で今川家を攻め落としました。竜王丸は今川氏親となり、その恩賞として沼津の興国寺城を与えられました。伊豆半島の喉元、深さ10数m、長さ100m超の空堀、土塁、沼地の要害でした。
民衆の暮らしに背を向ける政権抗争には、苛烈極まりない態度で処した早雲。民が戦で苦しむのを避けるため、敵が降伏を願い出た場合には領地を保障、一切の略奪行為を禁止します。伊豆で疫病が蔓延し1,000人以上の死者を出したときには、兵に村人の看病を命じ疫病が収まってから戦いを始めたほど。「生かすべきものを生かし、殺すべきものを殺す、それが政治」との考えでした。
そんな早雲でも小田原城を攻めあぐねましたが、敵が珍品などで気を許したところ「鹿狩りをしていたら鹿が小田原城の裏山に逃げてしまった。鹿を追い返すため勢子(せこ※)を入れさせてほしい」という手紙を届けます。じつは勢子は早雲の兵が扮したもので、裏山から一気に城を攻め落としました。
※勢子(せこ)とは、狩猟を行う際に、野生動物を追い出したり、射手の方向に追い込んだりする役割の人。
ここが悪辣とされる所以で、旧勢力の打倒には策を尽くし残酷そのもの。一方、領民には父と慕われました。検地を実施し年貢の負担を引き下げ、とりすぎた場合には農民自ら訴えることができるようにしました。また城下町を整備し商工業の発展を促進、自由な商売で現金収入を支援します。「他国の百姓これを聞き、われらの国も新九郎殿の国とならばや、と願う」。他国に知れ渡るほどの善政でした。早雲が敗れれば古い政治に逆戻りと、戦になると農民も一念発起し足軽兵となります。戦場でわずかな食事を分け合い、一樽の酒があれば皆で薄めて飲む。早雲は兵の心をつかむ人間的魅力をもっていました。
以後十年もの時を相模平定に費し、一時は上杉軍に大敗するも状況を読む力に長けその滅亡を予測します。「一代ごと家の良い作法を5ヵ条、10ヵ条と失っている。大家なので10年はもつかもしれないが、一度傾きかけたものは戻せぬ」。1516年に平定を成したとき、早雲は85歳でした。2年後には室町幕府に独立を宣言。領国に朱印状を発給しました。押印は“禄寿応穏”。民衆が平和で豊かに暮らせる国を、とのメッセージです。最後は伊豆の韮山城で余生を送り、88歳で没しました。
早雲が書き残した『早雲寺殿廿一箇条』に「上下万民に誠実に接すること」とあります。目的のためには奇襲や謀略も厭わず、領民や兵には真摯に愛情を注いだからこそ、徳川家康も統治に手を焼くほど領民に慕われることになったのでしょう。
※ワールドジョイントクラブ誌、Vol.74、2012年6月20日号寄稿分