川原俊夫

913~1980年(享年67歳)


「辛子明太子」の生みの親。辛子明太子ふくや創業者。韓国の釜山で生まれ育ち、戦争中は沖縄に出征。戦後、博多へ引き揚げ、中州に「ふくや」を創業する。試行錯誤の末に作り上げた明太子の製造技法を惜しげもなく教え、博多の名物として辛子明太子を全国に知らしめた。


博多の定番の名品、辛子明太子の生みの親、川原俊夫氏。氏が辛子明太子の開発を選んだのには訳がありました。沖縄戦で生き残り、「無念にも死んでいった戦友のためにも、人のために生きる」と決めた氏は、戦後で食糧事情が悪いことから、博多・中洲で乾物屋を営みます。そしてそこから、だれでもおいしく食べられる「人のためになるもの」を作ることを目指しました。みんなを喜ばせるためには、だれかを犠牲にしてはいけない。競合しだれかが損をしてしまうのを避けるためオリジナルの商品にこだわり、朝鮮で昔食べた「キムチの中に入ったタラコ」からヒントを得て試作をはじめます。

氏は地域活動やPTAを通して明太子の試作品を振る舞いました。そのコメントを参考に改善を続け、ついに商品化にこぎつけます。明太子のおいしさは、新幹線の開業をバネに口コミで広がりました。こうして辛子明太子は大ヒットしますが、氏は商標登録せず、乞う人にはその製法を教えています。辛子明太子は惣菜であり、「みんな」の食卓に手軽に届くようにという思想からです。製法を学んだ多くのメーカーや販社は氏の創業したふくやに恩を感じ、異なる味付けにしました。それによって味の幅が広がり、博多の明太子の名は全国に知れわたることとなったのです。

開発時は失敗の連続でしたが、氏はあきらめずにチャレンジを続け、辛子明太子を商品化しました。かのエジソンは「私は失敗したことがない。一万通り、ほかの方法があると教えられただけだ」と言っています。失敗とは途中であきらめること。思いをかたちにするために、失敗を改善の示唆と捉えれば、改善しあきらめずに続ければいいのです。上杉鷹山公の「なせばなる」にも通じます。

「受けた恩は石に刻め。施した恩は水に流せ」というように、氏は「運がいい人は、人のために生きている人だ。人のために生きている人と付き合い、運もついてきた」と言ったそうです。つまりミラーイメージの法則です。人のために生きれば、受けた恩は図らずもミラーで返り、増殖して戻ってきます。人のために生きるということの無限の連鎖を体現した人だと言えるでしょう。

氏の創業したふくやでは「人のために」という経営が行われています。「ふくやがなくなっても、どこの会社でもやっていける」人間を育てるという理念です。その思想が色濃く出ているのは「地域活動」です。博多山笠支援だけでなく、社員のPTAなどへの参加も奨励し、就業時間内での活動を許し、実費まで持つという支援のありようです。

これは、「肩書き」ではなく「人のありよう」で人を動かす地域活動が、重要なリーダーシップ育成、成長の場であり、何をやれば人がついてくるかを学べる重要な道場である、ということです。

教育とは「教える=与える」と、「育てる=引き出す」が対になっている言葉です。それが示唆するのは、教えすぎを戒めること、相手をよく見て、教えるのがいいのか育てるのがいいのかを見極めることです。そのためには、リーダーが見る力を養うこと。つまり、バランスと見極めが必要なのです。

筆者が氏の物語を知ったのは、もっぱら「自分のために」という人生を送ってきた自分が子どもを授かり、両親を亡くし、そろそろ「人のため」に生きるときでは、と思っていたころでした。

氏の生きざまとその後の辛子明太子普及は、「人のため」に生き、育て、あきらめないことの意義を我々に教え続けているように感じます。

※ワールドジョイントクラブ誌、Vol.64、2011年6月9日号寄稿分