石橋湛山

1884~1973年(享年89歳)


ジャーナリスト、政治家。東洋経済新報社で自由主義経済を主張する。戦後、政治家となり大蔵大臣、通商産業大臣、内閣総理大臣、郵政大臣などを歴任した。冷戦と戦った反骨のリーダー、気骨のある一言居士。


戦前はジャーナリストとしてペンで帝国主義と闘い、戦後は総理大臣を経て、病をおして冷戦に風穴を開けた石橋湛山(たんざん)。その晩年の言葉。「理屈は我と彼とを疎隔し、同情は我と彼とを融合する大切な要件である。相手の立場に立って物事を考えてみる、ということである。これは、国と国とのつきあいでも例外ではない」。氏は人も国も相手の立場に立つことで上手くいくという強い志を、行動をもって示してきました。

1945年の終戦直後、民衆のあいだには深い喪失感が広がっていましたが、湛山は違いました。戦後すぐに『東洋経済新報』の特集記事で「日本の門出、前途はじつに洋々たり」と記しています。「これから日本は貿易立国として羽ばたける」と信じていたのです。その後、ジャーナリストから政治家に転身し、吉田茂内閣では大蔵大臣に抜擢され聖域にメスを入れます。GHQの占領下、進駐軍の諸経費は賠償(戦後処理費)とみなされ日本政府が負担。豪華な住宅をはじめ、将校は金魚や花束でさえ経費で届けさせることができました。その年間総額は国家予算の3分の1に上り、貧困に悩む国民の生活を圧迫。湛山は怯むことなく真っ向から削減を要求し、GHQ側は占領政策を内外から批判されるのを危惧し、経費の2割削減に同意します。アメリカの言いなりにならない湛山は“剛毅な心臓大臣”と呼ばれるほど、その信念を貫きとおしました。

1956年には第3次鳩山一郎内閣の退陣に伴い、アメリカとの関係を重視する岸信介と、共産圏との関係も改善すべきとした湛山(当時72歳)らで総裁選が行われました。この選挙にわずか7票差で勝利した湛山は、すぐさまイデオロギーを超えた外交方針を打ち出し、冷戦構造を突き崩す大事業に挑みます。しかし翌年1月の全国遊説の際、独自の外交方針を訴えた直後に脳梗塞で倒れます。在任65日。志半ばでしたが自身の政治的良心に従い首相を辞任します。かつて暴漢に狙撃され帝国議会に出席できない濱口雄幸首相に対し、退陣を勧告するという論陣を張っていたためです。潔い振る舞いでした。

そうして一旦身を引いた湛山でしたが、時代は氏を放ってはいませんでした。辞任から2年後、台湾を巡り米中の対立が勃発し、中国軍が金門島に対し武力行使をし、台湾を支援するアメリカは艦隊を派遣します。「心配で夜も眠れない。病の体を犠牲にしても平和を維持する努力をしたい」と湛山は麻痺が残る体にムチ打ち訪中を決意します。

しかし中国側のアメリカや岸内閣への憎悪は激しく、周恩来首相は会談に応じてくれません。湛山は前首相といえども政府とは無関係の立場であることを主張し、粘り強く交渉して会談に漕ぎつけました。そこで氏は長年温めてきた、日本が友好のかけ橋となる“日中米ソ平和同盟”の枠組みを提言します。それは周恩来にとっても、また当時国連の代表権を持たない共産党政権にとっても、国際社会への足がかりとして魅力的でした。そしてこの提案は合意に達します。イデオロギーを超え平和的関係を築いたのでした。その後、1972年には日中国交が回復し、湛山悲願の第一歩を踏み出しました。

1973年4月、享年88歳。氏の葬儀にては、党派、イデオロギー、国を問わずさまざまな立場の人々が弔問しました。その後1989年にはベルリンの壁が崩壊し、湛山の願った冷戦の終結が実現します。肝っ玉の座った一言居士として貫いた隣国への礼節と合理的精神、ペンと行動力で帝国主義や冷戦構造と闘い風穴を開けた湛山には、現代人に乏しくなった反骨精神、志を遂げる攻めの行動力を学ぶことができるのではないでしょうか。

※ワールドジョイントクラブ誌、Vol.72,2012年2月20日号寄稿分