白洲次郎

1902~1985年(享年83歳)


近衛文麿や吉田茂の側近として活躍。終戦連絡中央事務局や経済安定本部で連合国軍最高司令部(GHQ)と渡り合い「従順ならざる唯一の日本人」と言わしめた。妻は正子。実業家として東北電力などの役員を歴任し辣腕を振るった。


官僚や実業家として戦中戦後に活躍した白洲次郎の真骨頂は、その颯爽かつ潔い骨太なダンディズムにあります。近衛文麿や吉田茂ら首相の側近となり政治の中枢で鍵を握った人物で、『白洲次郎占領を背負った男』の著者、北康利氏は対談(※)で「銀座のママたちもすっかりのぼせ上がる美丈夫。外見だけではなく、内面もまた筋を通すことにこだわる格好いい方だったと思います。アメリカの占領下にあった日本で、英国仕込みの英語力と先見性、さらに強靭な精神力でGHQとの交渉にあたりました」と評しています。

※『日本史はこんなに面白い』(半藤一利著)

1945年のクリスマスのエピソードとして、昭和天皇からのプレゼントをダグラス・マッカーサーに届けたときのことが語り草となっています。「そのへんにでも置いてくれ」とプレゼントがぞんざいに扱われると白洲は激怒。「仮にも日本を統治していた天皇陛下からの贈り物をそのへんに置けとは何ごとか。我々は戦争に負けたが、奴隷になったのではない」と烈火のごとく言い放ち、プレゼントを持ち帰ろうとしてマッカーサーを慌てさせたと言います。

その行動の背景には“ノブレス・オブリッジ”というプリンシプル(信条)がありました。これは高貴な者が為すべき”義務”を意味します。白洲の生家は神戸の豪商・白洲商店。氏は日本の教育では納まりきらず、イギリスのケンブリッジ大学に留学させられ、この考えを身につけます。戦後には「我々の時代に、戦争をして元も子もなくした責任をもっと痛烈に感じようではないか。日本の経済は根本的な建て直しを要求している」と日本再建を果たそうと奔走します。終戦直後の日本は米軍の管理下に置かれ、理不尽なことに対しても「イエス」と言わざるを得ない状況にありましたが、氏は自らの信条を貫き、米軍より“ミスター・ノー”“ミスター・ホワイ”と称され「従順ならざる唯一の日本人」として恐れられました。

1951年には、吉田首相に随行したサンフランシスコ講和条約の調印式に際して、英語のスピーチを日本語に替え日本の将来を唱えさせます。「講和会議は戦勝国の代表と同等の資格で出席できるはず。その晴れの日の演説原稿を、相手方と相談したうえで相手側の言葉で書くとは何ごとか」と一蹴したのです。調印を終え6年8ヵ月の占領から独立を果たすと「百姓に戻らせてください」と己の役目に幕を引きました。吉田首相にも辞職を進言しましたが聞き入れられず、その後には政権に固執し独裁と評され、結果的には失言から“バカヤロー解散”に発展してしまいました。最高の辞職タイミングは白洲が進言した講和条約締結後だったとも言われ、氏は“引き際”を見抜いていたのではないでしょうか。また有名な話として、軽井沢ゴルフクラブにおける田中角栄首相とのやりとりがよく挙げられます。田中首相がプレーを望み、秘書を通じて頼んだところ「首相であっても会員でなければプレーできない」と毅然と拒否するなど、颯爽とした姿勢をうかがうことができます。

白洲は自らの信条とした“ノブレス・オブリッジ”に従い、戦中戦後を駆け抜けていきました。その背中からは戦後に自分の責任を果たすという気骨、骨太さを学ぶことができます。近年、トップの暴走を止められない役員や監査役など、取り巻きの茶坊主化などによる経営悪化・破綻が目につきます。そうした場に白洲がいれば、どのように振る舞ったのでしょうか。

※※ワールドジョイントクラブ誌、Vol.77号寄稿分