江川太郎左衛門

1801~1855年(享年55歳)

名は英龍(ひでたつ)。号は坦庵(たんあん)。多呂座衛門は世襲名。江戸時代後期の幕臣、領国・駿河、伊豆、相模、武蔵、甲斐の5国の行政を行う伊豆韮山代官。日本に西洋砲術を普及させ、台場を築く。勘定吟味役まで異例の昇進を重ね、幕閣入りを果たし勘定奉行任命を目前に病死した。

東京・お台場。いまや東京を代表する観光地、オフィス街として有名ですが、幕末は海防の拠点、大砲台場だったことをご存知でしょうか。その礎を作ったのが、江戸時代後期を生きた幕臣であり洋学者でもあった江川太郎左衛門です。

時は1837年、鎖国の世に一隻の外国船が江戸湾に進入します。浦賀奉行が慌てて砲撃し打ち返したその船は、日本人漂流民を送り届けようとし、また通商を目的とした米国船モリソン号でした。幕府は敵意を持たなかった商船への砲撃ではなく、江戸湾に異国船が容易に入ってきたことを重く捉え、翌年、湾一帯を調査する巡検隊を組織します。そのリーダーとして江川と目付・鳥居耀蔵(ようぞう)を任命し、2チームで競わせたのです。江川は自身が懇意にしていた蘭学グループ・尚歯会の渡辺崋山の推薦で医師、蘭学者であった高野長英の弟子2名を採用。そのかいもあって、江川らが作った精緻な測量図は評価を受けました。測量図に添えて提出された海防計画も先見的なもので、日本海防の礎を築いたと言われます。

ところが1839年、崋山は突如逮捕され、江川の部下として巡検隊に参加した小関三英は自害、高野も自首後に脱獄を企図し顔を焼いて逃亡するも最後は自害に追い込まれます。これが洋学者弾圧事件“蛮社の獄”です。首謀者は江川と同じく巡検隊のリーダーを務めた鳥居でした。鳥居は儒家の子息で洋学を毛嫌いし、かつ先の調査の際、稚拙な測量図を提出し恥をかかされたと江川らを逆恨みしていたとも言われ、洋学者の弾圧に乗り出しました。幸い江川の手腕を評価していた老中、水野忠邦の庇護もあり弾圧の手は江川まで届くことはありませんでした。

一方、江川は領国・駿河、伊豆、相模、武蔵、甲斐の5国の代官として海からの侵略を防ぐ立場にありました。アヘン戦争に敗れた中国が植民地化されていく姿に危機感を覚えると、その見識の高さから勘定吟味役格(幕府財政の収支、年貢徴収、長崎貿易、貨幣改鋳など財政に関する事務一切を監査する職)に取り立てられ、江戸湾全体の海防も担当。洋式砲術を取り入れ砲台(台場)を作り農兵を組織しました。国防上の観点から海外で採用されていた携帯性や保存性の高いパンの効用を説き、日本で初の堅パンを焼き“パンの祖”としてもその名を残すなど、江川の先見の明がうかがえます。

後に福沢諭吉は『福翁自伝』で江川に対する“近世の英雄”との世の評判にふれ、また領民たちも“世直し江川大明神”とたたえました。1830年代の全国大飢饉、加茂一揆などに続き、江川の領内でも郡内騒動という大蜂起が勃発。江川は変装して現地に赴くと役人の悪政にメスを入れ平定。市井には“世直し江川大明神”ののぼりがはためいたそうです。また大局を見る力にも優れ、幕臣でありながら国を憂い共和制についても言及し「米国のように急に共和制に変わるのは難しいが、このまま放っておくと(新興勢力の台頭などによる)応仁の乱のようになる。政治を改革し、米国のように差別なく、上下のない社会となるべきである」と説いています。

そんな江川から学ぶべきは、時代の先を読み、鎖国という閉鎖的な境遇にありながらも他国を視野に入れた先見性、旧体制をリフォームしようという斬新型の改革に取り組む実践力。そして何より領民をつぶさに観察し施政するという、民意・民生尊重を貫くリーダーの姿でしょう。

※ワールドジョイントクラブ誌、Vol.79号寄稿分