野根山街道 歴史の旅

高知県 

装束峠1,082m(街道最高地点)、電波塔峰1,087m、装束山1,083m、M2(宿屋杉の峰)950m、M7(岩佐関所跡の峰)935m  2018年8月14日

野根山984m、一の門927m、地蔵峠910m、花折峠750m、M13・716m 2018年8月17日

四国百名山

323

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雨の日、野根山街道の西の起点、奈半利を散策。狭い路地を進んだ先の十字路に高札場があった。路地は民家の間を進むが、いろんな花が咲いていて、さながら花壇の中を歩いているよう。青いヒルガオ。

縦走一日目、荒れていると思った車道末端のすぐ先に米ヶ岡・登山口があった。池と花の咲く公園のようになっていて、駐車場になっている。橙色のカンナがたくさん。

やっと宿屋杉に着く。巨大な杉の朽ちた切り株にはいろんな植物が生えている。支柱で支えてある宿屋杉の切り株に入ってみる。当時は百メートルを越え、洞の中に4人泊まれたという巨大さは宮之浦のウィルソン株を連想させる。

行く手に装束峠が見える。それは東西に続く高い稜線。ピークが二つほど見え、右の高い方が装束山1,083mだろう。(街道の最高点1,082mはその右奥)

電波塔のあるピークの最高点は1,087mというのは後から知ったが、これは装束山1,083mよりも高い。電波塔に登る途中から北に野根山らしき山を見ることができた。それは街道の尾根から少し北に外れ、美しい鋭角ピークの姿をしていた。

装束山へは分岐標示から階段を数十メートル登る。そこには頂上標識と一等三角点と展望台がある。日差しに我慢して展望台に登る。南に見えていたのは室戸岬のあたり、東に続く稜線はまさしく歩いてきた野根山街道に違いない。

装束山から先に稜線を進んだところに「装束峠」の標識が立っている。「街道の最高点1,082m」というのはおそらく装束山の東100mくらいの地点だと思う。

古びた小さな門をくぐり、野根山街道の中間点、岩佐関所跡に着く。休憩所や案内標識がたくさん立っている。一段下には川島家屋敷跡や岩佐の清水というのもあったから、ここに住みついていた人たちもいたのだろう。

縦走二日目、野根山への登山道入口には小さな「登山道」という標識。それは微かな踏み跡にすぎなかったが、概ねGPSトレースに一致していた。天高く並び立つ杉林の急坂を登り、やっかいな倒木をいくつか越え、林の中の野根山頂上に着く。三等三角点に小さな頂上標識。

花折峠(M12・750m)というのは、急な坂道のため、お殿様が駕籠に乗ったまま道端の花を手折ることができたことに由来。かってはここから南東に道があったが、ナギにより道を付け替えたらしい。

四郎ヶ野峠に着き、ゆっくり着替え、R493の両側のスペースにある大きな標識や東屋まで歩いてみる。長大な野根山街道を歩き切り、心地よい疲労感。

車でR493を下り、二本松に寄ってみる。古い切株に新しい松が二本、立っていた。野根の集落の中を走ってみる。東端にあったのは野根八幡宮で、歴史を感じる古くて広いたたずまい。狭い道を駆け抜ける。

 行く手に装束峠が見える。それは東西に続く高い稜線。ピークが二つほど見え、右の高い方が装束山1,083mだろう。(街道の最高点1,082mはその右奥)
 電波塔に登る途中から北に野根山らしき山を見ることができた。それは野根山街道の尾根から少し北に外れ、美しい鋭角ピークの姿をしていた。
 やっと宿屋杉に着く。巨大な洞の中に4人泊まれたという
 地蔵峠付近: 強烈な日差しに輝く杉林
 米ヶ岡登山口のカンナ
カクレミノの葉
 奈半利の狭い路地で見たヒルガオ
 四郎ヶ野峠に着き、R493の両側のスペースにある大きな標識や東屋まで歩いてみる。
 車でR493を下り、二本松に寄ってみる。古い切株に新しい松が二本

西の起点: 奈半利の町の散策(D2)

(D2)10:45 ローソン奈半利発10:55 高札場11:03 送り番所11:08 高札場11:16 ローソン奈半利・・・・・・往復31分
(D1)  5:39 生活体験学校PA発  5:51 米ヶ岡登山口  8:15 笑い栂 (M1・三角点峰877m付近)  9:51 宿屋杉 (M2・950m付近)10:52 電波塔 (M3・1,087m)・・・全行程最高点11:28 装束山 (M5・1,083m)11:41  装束峠標識 (1,082m=街道中の最高点)標示12:38 岩佐の関所跡(M7・935m付近)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・登り6時間59分13:07 岩佐の関所跡発14:16 装束山トラバース14:32 電波塔トラバース15:02 宿屋杉16:17 笑い栂17:38 米ヶ岡登山口17:54 生活体験学校PA・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・往復12時間15分(D2)10:45 ローソン奈半利発10:55 高札場11:03 送り番所11:08 高札場11:16 ローソン奈半利・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・往復31分(D3)  4:42 四郎ヶ野峠発  6:07 花折峠 (M12・750m)  7:16 一の門 (M11・927m付近)  8:52 地蔵峠 (M10・910m付近)10:19 野根山 (M8・984m)10:45 岩佐の関所跡(M7・935m付近)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・登り6時間25分11:15 岩佐の関所跡(川島屋敷跡)発12:37 地蔵峠14:13 一の門15:23 花折峠16:15 四郎ヶ野峠・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・往復11時間33分

岩佐の関所跡 


東の終点: 野根の集落(D3)

NNNNNNNNNNNNNNNNNNNNNNNNNN

(D1 西の街道を歩く: 米ヶ岡から岩佐関所跡)

縦走一日目、3時半頃に起き、たぶんソバかうどんを食べ、道の駅田野駅屋出発。昨夜見つけておいた米ヶ岡への車道入口へ左折。米ヶ岡の終点付近に生活体験学校というのがあり、その先で車道は細くなり、白石神社の前を通り、その先は荒れてそうな感じだったので引返し、生活体験学校の駐車場に停める。準備している間に明るくなり、ヘッドランプはなし。生活体験学校や車道沿いの民家には花がたくさん。白いササユリに青いヒルガオ。だが、花があったのは結局ここだけ。つづら折りのところにある白石神社は雨戸の閉じた社が一つあるだけでそっけない。荒れていると思った車道末端のすぐ先に登山口があった。池と花の咲く公園のようになっていて、駐車場になっている。橙色のカンナがたくさん。ここに駐車するんだった。まあ、それほどの差ではない。ここに433mの三角点があったはずだが、往路、復路とも気づかず。復路では花を撮るのに夢中だった。

暗い林の中の道はいかにも古道らしい雰囲気。杉の枝がたくさん落ちているのも古道の雰囲気だが、倒木や石も混じっているのは今年の大雨や台風のせいだろう。登山口から1㎞強で林道を横断。石畳の道という標識があり、確かに石畳の形をとどめているところも残ってはいるが、杉の枝が積み重なり、石も浮き上がって荒れているところが多い。二里塚というのは、奈半利から8㎞ということらしい。小さな塚の上に朽ちた切り株。六部様というのはおそらく、「全国66か所の霊場に1部ずつ納経するために写経された66部の「法華経」の略を六部と言いましたが、後に、その経を納めて諸国霊場を巡礼の旅を行う僧のことを呼ぶようになりました。」(ネット情報、chikusa-kegono.com)のことではなかろうか。ここには小さな祠と仏像が置いてあった。お茶屋場というのは殿様の籠を下ろして休憩したところらしい。

つづら折りの途中の「笑い栂」というのは朽ちた木のことだろうか。木こりを化かした栂の木の話。東から北への方向転換点にあるM1・三角点峰877mは北側をトラバース。知っていれば三角点を探したと思うが、知らなかったので通り過ぎる。「御留山」というのは街道の保全と日陰を確保するため、街道の両側十五軒の木材伐採を禁じたというもの。確かに杉に混じっていろんな木々が生え、日陰を作っている。唐突に中岡慎太郎の案内があるが、彼の出身地、安芸郡北川村柏木というのは米ヶ岡のすぐ北に当たる。よって、このあたりでは(高知市内出身の坂本竜馬よりも)郷土の英雄ということなのだろう。室戸岬には中岡慎太郎の巨大な像が立っていた。分岐標示があったが、分岐の先の道は不明瞭。

やっと宿屋杉に着く。トイレがあり、巨大な杉の朽ちた切り株にはいろんな植物が生えている。東屋に入って最初の休憩。パンを食べる。支柱で支えてある宿屋杉の切り株に入ってみる。当時は百メートルを越え、洞の中に4人泊まれたという巨大さは宮之浦のウィルソン株を連想させる。宿屋杉を出て、北のすぐ近くに林道が見えており、そっちに下る分岐標示がある。その先でM2・950mに登り、頂上の北をトラバースするところで、行く手に装束峠が見える。それは東西に続く高い稜線で、左から大きく回って装束峠の稜線の左端に取付き、右(東)に稜線をたどる道。ピークが二つほど見え、右の高い方が装束山だろう。山が見えたのは珍しいので、何度も写す。さっきの林道にもつながっているらしい林道を横断。ここからは装束山とその下のナギを見る。

「電波塔」というのは、さっき見えた装束峠の二つのピークの更に左(西)にあるピークにあるらしい。距離600mもさることながら、手ごわそうな急な階段が気力をくじくが、そこから装束峠がよく見えるかも、と思い、登る。電波塔のあるピークの最高点は1,087mというのは後から知ったが、これは装束山1,083mよりも高い(因みに、地理院地図のこの地点には電波塔マークはない)。ところが周囲は林で視界は全くなし。がっかりして下るが、途中から北に野根山らしき山を見ることができた。それは街道の尾根から少し北に外れ、美しい鋭角ピークの姿をしていた。延々と続く山の上の道。各ピークは左から野根山984m、M7・935m(岩佐関所付近)、M6・978mではなかろうか。電波塔に登る道はその地点のみ開けていて、道の上の土手に上がる踏み跡らしきものもあったので、展望所なのかもしれない。

装束山の左(西)にあるM4・1,060mは南側をトラバース。不意に林を抜け、日差の中のベンチに出る。熊笹峠とある。南の景観が広がり、奈半利と田野の町並の向こうに太平洋が見えていたが、夏の日差が強烈。景色を写して早々に先に進み、林の日陰に逃げ込む。土佐に流された土御門上皇の歌碑。その近くに分岐表示があり、装束山へは分岐標示から階段を数十メートル登る。そこには頂上標識と一等三角点と展望台がある。日差しに我慢して展望台に登るが、ここも周囲の樹木が育っていて視界を遮っている。南に見えていたのは室戸岬のあたり(津呂山?)、東に続く稜線はまさしく歩いてきた野根山街道に違いない。見えているピークはM1・三角点877mやM2・950m(宿屋杉付近)あたりだろうか。

装束山から先に稜線を進んだところに「装束峠」の標識が立っている。「街道の最高点1,082m」というのはおそらく装束山の東100mくらいの地点だと思う。因みに、標識が立っていた場所の標高は1,060mくらいのはず。装束山1,083mは街道を外れているから、街道の最高点は装束峠の最高点1,082mということなのだろう。装束峠稜線の東端にある「お産杉跡」というのは、狼の群れに襲われた武士の妻が、通りかかった飛脚が狼を追い払っている間に、杉の樹上で出産したという逸話。M6・978mとのコルから南に分岐標示があり、少し下ったところにベンチと柵がある。柵の下が加奈木の崩えというナギらしいが、今はもう樹木が生えてナギらしくは見えない。ずいぶん苦労した話が案内に書いてあったので、治山工事の賜物だろう。

蛇谷分岐、四里塚を経て、古びた小さな門をくぐり、岩佐関所跡に着く。M7・935mの南にある平地に休憩所や案内標識がたくさん立っている。幕末の志士たちの活躍と悲しい結末。一段下には川島家屋敷跡や岩佐の清水というのもあったから、ここに住みついていた人たちもいたのだろう。今はキャンプ場ということらしいが、それもいいかもしれない。東屋の休憩所に入ってザックを下ろしバナナを食べ、ベンチの上に横になって少し休憩。この日はここまでで引き返す。M7に向かって少し登ったところに木下家の墓というのがあり、三日後、2度目に来たときに寄った。帰りで辛いのは装束峠までの登り返し。じっくりゆっくり登る。宿屋杉の手前で小雨がパラつき、前日のことがあるので念のためにタフに持ち替えるが、レインウェアには着替えず。結局、雨は降らなかった。

林道を横断してあと1㎞強だが、これが長かった。暗い林の中を歩き、左に流れの早い用水路が現われ、ついに登山口が行く手に現われる。暗がりから日向に出ると花の咲く池があり、そこに行って花を撮る。橙色のカンナの花。尾根の西側にあった用水路はいつの間にか東側を流れている。上流を見ると、どうやら尾根を通すトンネルが掘られているようだ。登山口のすぐ近くに、標識はないが、神社の鳥居と石段が見えたので行ってみると、鳥居には白石神社とあり、急な石段の上に神社が建っている。途中には狛犬。ここも社は閉じていたのでご神体は見えず。車道の南西にある白石神社とこの白石神社とはどういう関係なのだろう。北東にあるこの神社の方が立派だが、石段を登るのがたいへんということなのだろうか。駐車地点に戻ってゆっくり着替え。この日も干しておいた山着はカラカラに乾いていた。

(D2 西の起点: 奈半利の町の散策)

雨の日、野根山街道の西の起点、奈半利を散策。グーグルマップにあったのは違う店だったが、現地にはローソンがあり、そこに駐車。店に入って買物し、車に戻ってレインウェアを着込んで出かけるが、雨は降らなかった。高札場を探すが、目星をつけていたローソンの東隣にはなし。R55を北に渡るとR493が分岐していて、その道角に野根山街道の道標とトイレがある。雨に濡れた白いムクゲ。ここが起点なのだろうか。R493を北に歩くと歩道上に道標があり、次の脇道に右折とある。それは前々日夜に車で通ったかもしれない狭い路地で、路地を30mほど進んだ先の十字路に高札場があった。

「高札場(こうさつば)とは、幕府や領主が決めた法度(はっと)や掟書(おきてがき)などを木の板札に書き、人目のひくように高く掲げておく場所のこと」(ktr.mlit.go.jp)とのことで、現地の案内には、「野根山街道はここの高札場を起点として野根山連山を尾根伝いに東洋町野根を結ぶ延々五十キロ余・・・」とある。奈半利の高札場の位置はR55から少し北、R493から少し東に入った狭い路地で、「バス停のところ」という説明を見たが、この狭い路地にバス停は無理で、「バス停0.2㎞」という標識がある。その路地も野根山街道の一部で、道沿いに道標がある。

路地は民家の間を進むが、いろんな花が咲いていて、さながら花壇の中を歩いているよう。青いヒルガオ、ピンクのフジの花、黄色とピンクはランタナというらしい。やがて「送り番所」の案内が立っている。ここには笹飛脚というのが詰めていて、急用の書状を野根まで届けていたらしい。花で彩られている人家の町はずれから、田んぼを隔てた北東の方角に、木々が空高く繁る野根山街道の尾根を見る。いったんローソンに戻り、車に乗って登山口を探しに行く。野根山街道の案内にある「登山口」は、先ほど見た尾根、高札場から東に1㎞ほどのところにあり、大きな石板と縦長板に「野根山街道」としるされている。細いまっすぐな道が広い駐車スペースからやや角度をつけて伸びているが、舗装されていて車でも走れそう。周囲は開けていて、東は山、西には田園と奈半利の町。

(D3 東の街道を歩く: 四郎ヶ野峠から岩佐関所跡)

道の駅を出て、R493から四郎ヶ野峠に向かうが、カーナビが室戸岬経由に変わっている。カーナビを無視してR493に入ると、なんと災害のため通行止めとある。カーナビに従い、室戸岬経由で行く。大雨の影響だ。室戸岬をショートカットする道を通り、岬の東海岸を北上すると雨がパラつく。今日も雨だろうか。やがて野根大橋に着く。野根大橋を渡って左折するとR493。その600mほど先に二本松の案内が立っていた。ヘッドランプで確認

四郎ヶ野峠には広いスペースに大きな案内や東屋があり、準備して出発。雨は降っていないが一応、タフにし、レインウェアは着ずに出かける。ザックの中身は100円ショップ・ナップサックに入れ替え、防水サックに入れてある。米ヶ岡のときとは違い、きつい登り。最初はつづら折りで尾根に上がり、尾根も急坂が続く。ようやく達したピークはM13・716m峰で、300m弱登ったが、いったん下ってまた登り。最初に案内のある花折峠(M12・750m)というのは、急な坂道のため、お殿様が駕籠に乗ったまま道端の花を手折ることができたことに由来、というが、たぶん上から吊り下げた駕籠だったのだろう。かってはここから南東に道があったが、ナギにより道を付け替えたらしい。今でもここから四郎ヶ野峠までは地理院の破線がない。道は尾根分岐点の北側をトラバースしているので、今そこに南東に通じる道があるのかは不明。

清助というのは野根にいた百姓で、弘法大師の夢のお告げで木彫りの地蔵を作り、難所の鐙(あぶみ)坂に安置したが、木仏であったために朽ち果てて今はない、とある。鐙坂というのは花折峠に向かう坂だったと思われるが、西側なのか東側なのか不明。一の門(M11・927m)は街道から佐喜浜の奥地桑ノ木へ連絡する生活道が分岐していたところ。次に分岐標識に出会い、北には具同寺への分岐、南には段ノ谷への分岐標示(「段ノ谷山登口」というのは「段ノ谷登山口」の間違い?)。その先に「木の枝に黒い斑点、枝を折るとよい香り、和菓子の楊枝に利用、この木は?」という質問標識が立っていて、思わず「クロモジ」と叫ぶ。「この木は?」のところを動かすと解答が書かれていた。「クロモジ」。簡単だぜ!

地蔵峠(M10・910m)のあたりは天然の大杉が多く、千本峠と呼ばれたが、地蔵が祭られてから地蔵峠と呼ばれるようになったとある。雨上がりの帰路のときは、強烈な日差しに見上げる杉林は輝いていた。M9・933m峰の南側をトラバースし、北川村地籍調査の金属製の標識を見た地点の少し先に野根山への登山道入口があった。小さな「登山道」という標識が二つ。それは微かな踏み跡にすぎなかったが、概ねGPSトレースに一致していた。天高く並び立つ杉林の急坂を登り、やっかいな倒木をいくつか越え、林の中の野根山頂上に着く。どっちみち霧がたちこめていて視界はなし。三等三角点に小さな頂上標識。帰り道の途中で雨が降り出し、レインウェアを着込んだと思う。途中の分岐を西に向かうと野根山街道とほぼ平行な道が岩佐の関所まで続いていた。岩佐の関所の中にある西の野根山登山口にも東と同じ「登山道」の標識。

岩佐関所跡では、三日前と同じく東屋に入って休憩。最後のバナナとナッツの残りを食べる。もう雨宿りできる場所はないだろう。東屋の奥に木下家とお由里の墓があるというので、見納めに行ってみる。それは岩佐の関所の北にあるM7・935mに少し登ったところにあった。たくさん墓石が並んでいて、その中に「由里」と彫られたものがあった。安らかに。お由里さんは絶世の美女だったが子供を産んでから早死にし、幽霊になって毎夜乳を飲ませに現れたという。墓石をさすると雨が降るというが、このときはもう雨だった。

岩佐の関所から帰路につく。すぐ下の広場は川島家屋敷跡で、今はテント場なのかもしれない。岩佐の清水というのはそこから更に下ったところだったらしいが、そのときはそうとは知らず、行ってみなかった。このあたりはかって岩佐村であり、藩士の屋敷がいくつもあったらしい。帰り道の最後の難関、花折峠まで登り切り、あとは下るだけ。最後の急な下りで二度ほど滑って尻もちをつく。落ち葉の下の岩に滑ったようだが、足も疲れていた。四郎ヶ野峠に着き、ゆっくり着替え。R493の両側のスペースにある大きな標識や東屋まで歩いてみる。反対側に遊歩道もあるらしく、くつろぐには良い場所。長大な野根山街道を歩き切り、心地よい疲労感。

車でR493を下ると、九十九折の途中で西に見えていたのはM13・716mだろうか。大カーブの途中に左手ヶ坂という標識が立っていた。昔、百姓たちがこの急坂を横向きで下るとき、左肩で籠を担いだので、こう呼ばれたらしい。野根大橋の手前で、もう一度、二本松に寄ってみる。古い切株に新しい松が二本、立っていた。野根の集落の中を走ってみる。東端にあったのは野根八幡宮で、歴史を感じる古くて広いたたずまい。その隣の妙徳寺にはたくさん幟が立っていた。狭い道を駆け抜ける。

(西の起点: 奈半利の町の散策)(D2)

雨に濡れた白いムクゲ

雨の日、野根山街道の西の起点、奈半利を散策。グーグルマップにあったのは違う店だったが、現地にはローソンがあり、そこに駐車。店に入って買物し、車に戻ってレインウェアを着込んで出かけるが、雨は降らなかった。高札場を探すが、目星をつけていたローソンの東隣にはなし。R55を北に渡るとR493が分岐していて、その道角に野根山街道の道標とトイレがある。雨に濡れた白いムクゲ。ここが起点なのだろうか。

歩道の上の道標

R493を北に歩くと歩道上に道標があり、次の脇道に右折とある。それは前日夜に車で通ったかもしれない狭い路地で、路地を30mほど進んだ先の十字路に高札場があった。

高札場(こうさつば)

「高札場(こうさつば)とは、幕府や領主が決めた法度(はっと)や掟書(おきてがき)などを木の板札に書き、人目のひくように高く掲げておく場所のこと」(ktr.mlit.go.jp)とのことで、現地の案内には、「野根山街道はここの高札場を起点として野根山連山を尾根伝いに東洋町野根を結ぶ延々五十キロ余・・・」とある。奈半利の高札場の位置はR55から少し北、R493から少し東に入った狭い路地で、「バス停のところ」という説明を見たが、この狭い路地にバス停は無理で、「バス停0.2㎞」という標識がある。その路地も野根山街道の一部で、道沿いに道標がある。

高札場(こうさつば)の案内

フジの花

青いヒルガオ

送り番所

路地は民家の間を進むが、いろんな花が咲いていて、さながら花壇の中を歩いているよう。青いヒルガオ、ピンクのフジの花、黄色とピンクはランタナというらしい。やがて「送り番所」の案内が立っている。ここには笹飛脚というのが詰めていて、急用の書状を野根まで届けていたらしい。花で彩られている人家の町はずれから、田んぼを隔てた北東の方角に、木々が空高く繁る野根山街道の尾根を見る。

送り番所の案内

ランタナ

登山口の石板

いったんローソンに戻り、車に乗って登山口を探しに行く。野根山街道の案内にある「登山口」は、先ほど見た尾根、高札場から東に1㎞ほどのところにあり、大きな石板と縦長板に「野根山街道」としるされている。細いまっすぐな道が広い駐車スペースからやや角度をつけて伸びているが、舗装されていて車でも走れそう。周囲は開けていて、東は山、西には田園と奈半利の町。

登山口

(西の街道を歩く: 米ヶ岡から岩佐関所跡)(D1)

R55の道標

縦走一日目、3時半頃に起き、たぶんソバかうどんを食べ、道の駅田野駅屋出発。昨夜見つけておいた米ヶ岡への車道入口へ左折。米ヶ岡の終点付近に生活体験学校というのがあり、その先で車道は細くなり、白石神社の前を通り、その先は荒れてそうな感じだったので引返し、生活体験学校の駐車場に停める。準備している間に明るくなり、ヘッドランプはなし。生活体験学校や車道沿いの民家には花がたくさん。白いササユリに青いヒルガオ。

朝焼け

だが、花があったのは結局ここだけ。つづら折りのところにある白石神社は雨戸の閉じた社が一つあるだけでそっけない。荒れていると思った車道末端のすぐ先に登山口があった。池と花の咲く公園のようになっていて、駐車場になっている。橙色のカンナがたくさん。ここに駐車するんだった。まあ、それほどの差ではない。ここに433mの三角点があったはずだが、往路、復路とも気づかず。復路では花を撮るのに夢中だった。

生活体験学校

ササユリ

ヒルガオ

茶色と黄色の花・・・・・ルドベキアというらしい

ツユクサ

白石神社(南西)

白石神社(北東)

白石神社の案内

「奈半利町米ヶ岡は、およそ三百年の昔、北川村野友の庄屋、白石伝左衛門が、土地の二、三男対策として開墾。現在の水田が開かれたもので、参勤交代の要路として栄えた米ヶ岡の人達は宝永五年(1708年)三月十三日に七十九歳をもって没した彼を、米ヶ岡開拓の恩人とあがめ、白石神社として祭っている。」

ノリウツギ

米ヶ岡登山口の広場

(帰路)

林道を横断してあと1㎞強だが、これが長かった。暗い林の中を歩き、左に流れの早い用水路が現われ、ついに登山口が行く手に現われる。暗がりから日向に出ると花の咲く池があり、そこに行って花を撮る。橙色のカンナの花。尾根の西側にあった用水路はいつの間にか東側を流れている。上流を見ると、どうやら尾根を通すトンネルが掘られているようだ。

カンナ

登山口のすぐ近くに、標識はないが、神社の鳥居と石段が見えたので行ってみると、鳥居には白石神社とあり、急な石段の上に神社が建っている。途中には狛犬。ここも社は閉じていたのでご神体は見えず。車道の南西にある白石神社とこの白石神社とはどういう関係なのだろう。北東にあるこの神社の方が立派だが、石段を登るのがたいへんということなのだろうか。駐車地点に戻ってゆっくり着替え。この日も干しておいた山着はカラカラに乾いていた。

カンナたち

暗い登山口

暗い林の中の道はいかにも古道らしい雰囲気。杉の枝がたくさん落ちているのも古道の雰囲気だが、倒木や石も混じっているのは今年の大雨や台風のせいだろう。登山口から1㎞強で林道を横断。石畳の道という標識があり、確かに石畳の形をとどめているところも残ってはいるが、杉の枝が積み重なり、石も浮き上がって荒れているところが多い。二里塚というのは、奈半利から8㎞ということらしい。

用水路

最初の林道横断

石畳の道の案内

石畳の道

二里塚と案内

二里塚

カクレミノの案内

カクレミノの葉

六部様の案内

小さな塚の上に朽ちた切り株。六部様というのはおそらく、「全国66か所の零場に1部ずつ納経するために写経された66部の「法華経」の略を六部と言いましたが、後に、その経を納めて諸国霊場を巡礼の旅を行う僧のことを呼ぶようになりました。」(ネット情報、chikusa-kegono.com)のことではなかろうか。ここには小さな祠と仏像が置いてあった。お茶屋場というのは殿様の籠を下ろして休憩したところらしい。

六部様の仏像と祠

お茶屋場の案内

お茶屋場跡

笑い栂の案内

笑い栂の骸

つづら折りの途中の「笑い栂」というのは朽ちた木のことだろうか。木こりを化かした栂の木の話。東から北への方向転換点にあるM1・三角点峰877mは北側をトラバース。知っていれば三角点を探したと思うが、知らなかったので通り過ぎる。「御留山」というのは街道の保全と日陰を確保するため、街道の両側十五軒の木材伐採を禁じたというもの。確かに杉に混じっていろんな木々が生え、日陰を作っている。

M1・三角点峰877mの北側トラバース

旧藩林散策路

御留山と藩政林の案内

「その昔、藩主は街道の崩れを防ぎ、且つ日陰を作るため街道両側十五間以内は御留林として木材の伐採を禁じていたといわれているが、街道中ここだけが昔の面影を残している。 街道西側をわずかに下ると藩政林が見える。樹齢百三十年、藩政末期の植林といわれ、奈半利営林署によって保護されている」

藩政林の大杉

唐突に中岡慎太郎の案内があるが、彼の出身地、安芸郡北川村柏木というのは米ヶ岡のすぐ北に当たる。よって、このあたりでは(高知市内出身の坂本竜馬よりも)郷土の英雄ということなのだろう。室戸岬には中岡慎太郎の巨大な石像が立っていた。分岐標示があったが、分岐の先の道は不明瞭。


中岡慎太郎の案内

「土佐勤王党の「中岡慎太郎」は野根山ろくにある北川村柏木の庄屋の生まれである。 ある年の飢饉の時、藩の家老に直談判して非常米の蔵を開かせ村民を救ったという献身的な活動力は後の尊攘運動にも見ることができる。 その慎太郎は文久三年十月に烏ヶ森から野川口に出て野川谷を上り五人組部落から街道にとりつき、岩佐の「川島惣次」の家で一泊した後、甲浦を脱出。後に脱藩の罪を許され陸援隊を組織。その隊長として活動を続けていたが、慶応三年(1867年)十月十五日、京都で刺客に襲われ、維新のれい明期を待たずに尊い犠牲となってたおれた。」

三里塚の案内

「この三里塚は「里程塚」の原形をよくとどめている。 道をはさんで東側には周囲を石で築いた埋土の中央に、杉の大きな古株が残っており、同じく西側にはモミの老木が、立ち枯れの状態で立っている。 記録によると、野根山街道の場合、西から、奈半利村「町入口」、野根山「米ヶ岡」、「津賀坂」、「下モい尻」岩佐「お番所の西」、「千本坂の東」、「八町水元」、野根村「町西往還」の八ヶ所となっている。」

三里塚・東側の杉の古株

三里塚・西側のモミの骸

宿屋杉

やっと宿屋杉に着く。トイレがあり、巨大な杉の朽ちた切り株にはいろんな植物が生えている。東屋に入って最初の休憩。パンを食べる。支柱で支えてある宿屋杉の切り株に入ってみる。当時は百メートルを越え、洞の中に4人泊まれたという巨大さは宮之浦のウィルソン株を連想させる。北のすぐ近くに林道が見えており、そっちに下る分岐標示がある。

宿屋杉

その先でM2・950mに登り、頂上の北をトラバースするところで、行く手に装束峠が見える。それは東西に続く高い稜線で、左から大きく回って装束峠の稜線の左端に取付き、右(東)に稜線をたどる道。ピークが二つほど見え、右の高い方が装束山だろう。山が見えたのは珍しいので、何度も写す。さっきの林道にもつながっているらしい林道を横断。ここからは装束山とその下のナギを見る。

宿屋杉の案内

宿屋杉

見えてきた装束山

二つ目の林道横断

装束山

装束峠の稜線(M4と装束山)

参勤交代の道の案内

「土佐から江戸への参勤交代は浦戸から船によるもの、北山越えによるものの外、野根山街道を通り、甲浦または阿波から船によるものの三とおりの方法があったようである。 二代藩主忠義は家永二十年(1643)四月九日浦戸出帆、十五日間を要して江戸に出ている。 四代藩主豊昌は、延宝八年(1680)に海路を利用し、元禄元年(1688)には、次の日程によって野根山街道を通っている。 三月十日お城下発、赤岡泊り、十一日安芸泊り、十二日田野泊り、十三日岩佐を経て野根泊り滞在、二十二日甲浦泊り滞在、二十六日甲浦出帆、四月二日大阪着 右の日程の中で、野根、甲浦滞在はおそらく悪天候に災いされて、船出ができなかったものと思われる。 六代藩主豊隆は、享保三年(1718)に、立川街道(北山越え)を、伊予に抜け、仁尾藩から浦戸寄りの廻船によって、中国路に渡っている。」

電波塔分岐標識

電波塔

「電波塔」というのは、さっき見えた装束峠の二つのピークの更に左(西)にあるピークにあるらしい。距離600mもさることながら、手ごわそうな急な階段が気力をくじくが、そこから装束峠がよく見えるかも、と思い、登る。電波塔のあるピークの最高点は1,087mというのは後から知ったが、これは装束山1,083mよりも高い(因みに、地理院地図のこの地点には電波塔マークはない)。ところが周囲は林で視界は全くなし。

野根山

がっかりして下るが、途中から北に野根山らしき山を見ることができた。それは街道の尾根から少し北に外れ、美しい鋭角ピークの姿をしていた。延々と続く山の上の道。各ピークは左から野根山984m、M7・935m(岩佐関所付近)、M6・978mではなかろうか。電波塔に登る道はその地点のみ開けていて、道の上の土手に上がる踏み跡らしきものもあったので、展望所なのかもしれない。

電波塔途上から東の景観: 野根山、M7・935m(岩佐関所付近)、M6・978m

電波塔途上から東の景観(拡大)

熊笹峠

熊笹峠から西の景観: 太平洋と奈半利町・田野町

土御門上皇歌碑

土御門上皇歌碑の案内

装束山の一等三角点と展望台

装束山の左(西)にあるM4・1,060mは南側をトラバース。不意に林を抜け、日差の中のベンチに出る。熊笹峠とある。南の景観が広がり、奈半利と田野の町並の向こうに太平洋が見えていたが、夏の日差が強烈。景色を写して早々に先に進み、林の日陰に逃げ込む。土佐に流された土御門上皇の歌碑。その近くに分岐表示があり、装束山へは分岐標示から階段を数十メートル登る。そこには頂上標識と一等三角点と展望台がある。

装束山の頂上標識と展望台

日差しに我慢して展望台に登るが、ここも周囲の樹木が育っていて視界を遮っている。南に見えていたのは室戸岬のあたり(津呂山?)、東に続く稜線はまさしく歩いてきた野根山街道に違いない。見えているピークはM1・三角点877mやM2・950m(宿屋杉付近)あたりだろうか。

装束山から南の景観: 室戸岬・津呂山? M1・三角点峰877m? M2・950m(宿屋杉付近)?

装束峠の案内

「ここは標高1,082メートルで、街道中の最高峯である。 ここの石畳道をおよそ100メートル進むと殿様が休まれたと言われる『御茶屋場』がある。 装束峠の由来については、殿様が参勤交代の帰りにここで旅の装束を替えられたので、この名ができたといい、ひとつには、田野、奈半利へ嫁入りする花嫁が、ここで山装束を花嫁衣裳に替えたところから、この名が生まれたともいわれている。」

お産杉の枯跡

装束山から先に稜線を進んだところに「装束峠」の標識が立っている。「街道の最高点1,082m」というのはおそらく装束山の東100mくらいの地点だと思う。因みに、標識が立っていた場所の標高は1,060mくらいのはず。装束山1,083mは街道を外れているから、街道の最高点は装束峠の最高点1,082mということなのだろう。装束峠稜線の東端にある「お産杉跡」というのは、狼の群れに襲われた武士の妻が、通りかかった飛脚が狼を追い払っている間に、杉の樹上で主産したという逸話。M6・978mとのコルから南に分岐標示があり、少し下ったところにベンチと柵がある。柵の下が加奈木の崩えというナギらしいが、今はもう樹木が生えてナギらしくは見えない。ずいぶん苦労した話が案内に書いてあったので、治山工事の賜物だろう。

お産杉跡の案内

「天正三年(1575)長宗我部元親が大軍を率いて阿波国へ攻め入った頃だという。その家臣某の妻が夫の安否を気づかい、妊娠の身をもかえりみず単身野根山越えをしていた。急に産気づき、苦しんでいると、どこからともなく狼の群れがキバをむいて迫ってきた。ちょうどそのとき、通りかかった勇敢な飛脚が、側の大杉の下枝に救い上げ、刀を抜いて切り伏せた。その間、樹上でこのすさましい闘争を見ていた妊婦は、恐怖と安堵の交錯したなかで、安々と出産していたという。」

加奈木の崩え

加奈木の崩えの案内

「この崩えは、宝永四年(1707)秋の地震による崩壊といわれているが、延亨三年(1746)にも崩壊のあったことが、土佐編年記に出ていた。 大正六年(1917)、治山工事が始まって以来、砂防堰堤七十三、工費二億五千万円をつきこんで昭和三十九年に完成した。」

四里塚

岩佐の関所入口

蛇谷分岐、四里塚を経て、古びた小さな門をくぐり、岩佐関所跡に着く。M7・935mの南にある平地に休憩所や案内標識がたくさん立っている。幕末の志士たちの活躍と悲しい結末。一段下には川島家屋敷跡や岩佐の清水というのもあったから、ここに住みついていた人たちもいたのだろう。今はキャンプ場ということらしいが、それもいいかもしれない。東屋の休憩所に入ってザックを下ろしバナナを食べ、ベンチの上に横になって少し休憩。

岩佐関所休憩所案内図

M7に向かって少し登ったところに木下家の墓というのがあり、三日後、2度目に来たときに寄った。帰りで辛いのは装束峠までの登り返し。じっくりゆっくり登る。宿屋杉の手前で小雨がパラつき、前日のことがあるので念のためにタフに持ち替えるが、レインウェアには着替えず。結局、雨は降らなかった。

二十三士の案内

「清岡道之助成章以下二十三士は、土佐勤王党の主領武市瑞山らを獄中から救い出し、勤王派の勢力を挽回しようと計り、元治元年(1864)七月二十五日、野根山へ屯集。岩佐の関で道之助は治之助と共に夜を明かして協議して嘆願書を認め、二十七日両名の名義でこれを藩庁へ提出し、別に差出しを郡庁に送った。(その要旨は、・・・・・・・・・・・・(略)・・・・・・・・・・・・・・・・このように)彼等は身を以て国事を憂える決死の覚悟で、いずれも学問もあり、教養もある有為の志士達で、決して粗暴の徒ではない。しかし事志と異なり、討手を避け関所を後に来たに向かって密林に分け入り、尾河から峠を越えて阿波に入り、海部郡船津村へ出たが、かねて手配してあった廻航船は大波のためにならず、風波の和らぐを待つうち、穴喰で監禁せられ、九月三日土佐へ送還され、一回の吟味も行わず、元治元年(1864)九月五日、遂に奈半利川原の刑場の露と消えた。」

岩佐の関所・案内

岩佐関所の休憩所

(東の街道を歩く: 四郎ヶ野峠から岩佐関所跡)(D3)

木下家墓所の案内

木下家墓所

岩佐関所跡では、三日前と同じく東屋に入って休憩。最後のバナナとナッツの残りを食べる。もう雨宿りできる場所はないだろう。東屋の奥に木下家とお由里の墓があるというので、見納めに行ってみる。それは岩佐の関所の北にある935m峰に少し登ったところにあった。たくさん墓石が並んでいて、その中に「由里」と彫られたものがあった。安らかに。お由里さんは絶世の美女だったが子供を産んでから早死にし、幽霊になって毎夜乳を飲ませに現れたという。墓石をさすると雨が降るというが、このときはもう雨だった。

木下百合の墓・案内

木下百合の墓

川島家屋敷跡(テント場?)

岩佐の関所から帰路につく。すぐ下の広場は川島家屋敷跡で、今はテント場なのかもしれない。岩佐の清水というのはそこから更に下ったところだったらしいが、そのときはそうとは知らず、行ってみなかった。このあたりはかって岩佐村であり、藩士の屋敷がいくつもあったらしい。帰り道の最後の難関、花折峠まで登り切り、あとは下るだけ。最後の急な下りで二度ほど滑って尻もちをつく。落ち葉の下の岩に滑ったようだが、足も疲れていた。四郎ヶ野峠に着き、ゆっくり着替え。R493の両側のスペースにある大きな標識や東屋まで歩いてみる。反対側に遊歩道もあるらしく、くつろぐには良い場所。長大な野根山街道を歩き切り、心地よい疲労感。

川島家屋敷跡の案内

岩佐の清水・案内

土御門上皇が配所で生活すること一年の後、「せめて都に近き程にと北条氏のとりなしで、翌xx元年(1222年)五月、再びこの道を阿波に向かった。 途中このわきでる清水を手に受けてのみ、非常に喜び、「岩佐の清水」と名付けられたという。 夏に冷たく、冬は暖かいこの清水は、xx三大清水のひとつ・・・名水で知られている。

野根山登山口の標識(西側)


野根山の頂上標識と三角点

野根山頂上

天高く並び立つ杉林の急坂を登り、やっかいな倒木をいくつか越え、林の中の野根山頂上に着く。どっちみち霧がたちこめていて視界はなし。三等三角点に小さな頂上標識。帰り道の途中で雨が降り出し、レインウェアを着込んだと思う。途中の分岐を西に向かうと野根山街道とほぼ平行な道が岩佐の関所まで続いていた。岩佐の関所の中にある西の野根山登山口にも東と同じ「登山道」の標識。


高い杉林の道

野根山登山口の標識(東側)

M9・933m峰の南側をトラバースし、北川村地籍調査の金属製の標識を見た地点の少し先に野根山への登山道入口があった。小さな「登山道」という標識が二つ。それは微かな踏み跡にすぎなかったが、概ねGPSトレースに一致していた。

M6・978mと野根山?

野根山?

M9・933mの南側をトラバース

地蔵峠

地蔵尊

(往路)

地蔵峠(M10・910m)のあたりは天然の大杉が多く、千本峠と呼ばれたが、地蔵が祭られてから地蔵峠と呼ばれるようになったとある。雨上がりの帰路のときは、強烈な日差しに見上げる杉林は輝いていた。

地蔵峠の案内

この木は?・・・・・木の皮に黒い斑点、枝を折ると良い香り、和菓子の楊枝に利用

強烈な日差しに輝く林


五里塚

小野御茶屋の段・案内

小野御茶屋の段

一の門

一の門・案内

清助地蔵の案内

清助地蔵付近

(往路)

清助というのは野根にいた百姓で、弘法大師の夢のお告げで木彫りの地蔵を作り、難所の鐙(あぶみ)坂に安置したが、木仏であったために朽ち果てて今はない、とある。鐙坂というのは花折峠に向かう坂だったと思われるが、西側なのか東側なのか不明。一の門(M11・927m)は街道から佐喜浜の奥地桑ノ木へ連絡する生活道が分岐していたところ。次に分岐標識に出会い、北には具同寺への分岐、南には段ノ谷への分岐標示(「段ノ谷山登口」というのは「段ノ谷登山口」の間違い?)。その先に「木の枝に黒い斑点、枝を折るとよい香り、和菓子の楊枝に利用、この木は?」という質問標識が立っていて、思わず「クロモジ」と叫ぶ。「この木は?」のところを動かすと回答が書かれていた。「クロモジ」。簡単だぜ!

五代の崩(つえ)・案内

五代の崩(つえ)付近

花折峠の案内

最初に案内のある花折峠(M12・750m)というのは、急な坂道のため、お殿様が駕籠に乗ったまま道端の花を手折ることができたことに由来、というが、たぶん上から吊り下げた駕籠だったのだろう。かってはここから南東に道があったが、ナギにより道を付け替えたらしい。今でもここから四郎ヶ野峠までは地理院の破線がない。道は尾根分岐点の北側をトラバースしているので、今そこに南東に通じる道があるのかは不明。

花折峠

四郎ヶ野峠

(往路)

四郎ヶ野峠には広いスペースに大きな案内や東屋があり、準備して出発。雨は降っていないが一応、タフにし、レインウェアは着ずに出かける。ザックの中身は100円ショップ・ナップサックに入れ替え、防水サックに入れてある。米ヶ岡のときとは違い、きつい登り。最初はつづら折りで尾根に上がり、尾根も急坂が続く。ようやく達したピークはM13・716m峰で、300m弱登ったが、いったん下ってまた登り。

四郎ヶ野峠・登山口

野根山街道の案内

四郎ヶ野峠

左手ヶ坂と一本杉

車でR493を下ると、九十九折の途中で西に見えていたのはM13・716mだろうか。大カーブの途中に左手ヶ坂という標識が立っていた。昔、百姓たちがこの急坂を横向きで下るとき、左肩で籠を担いだので、こう呼ばれたらしい。野根大橋の手前で、もう一度、二本松に寄ってみる。古い切株に新しい松が二本、立っていた。野根の集落の中を走ってみる。東端にあったのは野根八幡宮で、歴史を感じる古くて広いたたずまい。その隣の妙徳寺にはたくさん幟が立っていた。狭い道を駆け抜ける。

左手ヶ坂(さで)の案内

M13・716m?

二本松の古株

二本松の案内

野根町は昔、野根山街道の東登り口にあたる宿場であった。 今に、庄屋屋敷等昔の宿場の面影を残しているが、この二本松も一里塚の目印として植えられたそのうちの一つで、旧街道筋にあった松並木が僅かに二本残っているもの

今の二本松

野根川

(往路)道の駅を出て、R493から四郎ヶ野峠に向かうが、カーナビが室戸岬経由に変わっている。カーナビを無視してR493に入ると、なんと災害のため通行止めとある。カーナビに従い、室戸岬経由で行く。大雨の影響だ。室戸岬をショートカットする道を通り、岬の東海岸を北上すると雨がパラつく。今日も雨だろうか。やがて野根大橋に着く。野根大橋を渡って左折するとR493。その600mほど先に二本松の案内が立っていた。ヘッドランプで確認

野根八幡宮