【登場人物】
空馬莉奈(からまりな)二十代女性。清美の娘。スーパーとビル清掃のアルバイトをしてる。仮庵の会の会員。
空馬清美(からまきよみ)五十代女性。莉奈の母。莉奈と共に渡瀬の家に居候している。仮庵の会の熱烈な会員。
渡瀬常子(わたせつねこ)五十代女性。清美の旧友で信者仲間。仮庵の会の地区長を務める。
犬井(いぬい)二十代男性。大学生。莉奈の職場の同僚。
店長(てんちょう)四十代男性。莉奈と犬井が働く個人経営のスーパーイゲタヤの店長。
【用語解説】
仮庵の会(かりいおのかい)
お導師様が山奥の仮庵(仮設の小屋)で修行を重ね、この世を生み出した光の波動「天満る常揺らぎ」と相揺らぎして知った世界の真理を教義とする宗教団体。
天満る常揺らぎ(あまみつるとこゆらぎ)
この世を生み出し、この世そのものである、光の波動の集合体。
天つ事(あまつごと)
お唱えごとやヨガ、導師の本の勉強会、その他、会の宗教行為全般のこと。
相揺らぎ(あいゆらぎ)
相手と波動を合わせて共振すること。会では特に、天満る常揺らぎと共振することを指す。
荒ん騒き(あらんざめき)
荒れた波動、ノイズの集合体。心が荒れると、これに飲み込まれると考えられている。
穢れ病み(けがれやみ)
穢れや病気、ネガティブな想念の集合体。これに食われると穢れてしまい、常揺らぎとの縁が切れてしまうと考えられている。
頂戴印(ちょうだいいん)
両手の中指薬指と親指を合わせて狐のようにし、その手で何かを頂くように顔の前まで持ち上げる動作。価値のあるものを頂く時にする。
功徳印(くどくいん)
両手の親指と人差し指で輪を作ってOKマークのようにし、その手で何かを差し出すようにする動作。価値あるものを渡す時にする。
調伏印(ちょうぶくいん)
左手は人差し指だけ突き出した状態で地面を指しつつ、右手は人差し指と中指だけを突き出した手刀の状態で縦横に空を切る動作。穢れ病みを払う時にする。
残身(ざんしん)
儀式が終わった瞬間は穢れに襲われやすいと考え、ホッと気を抜かずに丁寧にいつもの生活に戻る心構えのこと。
調え物(ととのえもの)
会で作った食物や清めた水、導師が書いた本や御札、様々なグッズなど。会の収入源。
お志し(おこころざし)
会への献金。
【本編】
[渡瀬家の居間]
鈴の音。お唱えごとが聞こえてくる。はじめに先導する女性(渡瀬)、それに合わせ唱え始める二人(清美と莉奈)。
三人 天満る常揺らぎ(あまみつるとこゆらぎ)、庵の尊(いおのみこと)の御導き(おんみちびき)にて、我らの穢れし現身(うつしみ)を、揺らし給え満たし給え。ゆるゆらりゆるゆらり、ふるふらりふるふらり。
正座・合掌して唱え始め、ゆるゆらりの辺りから頂戴印を行う。唱え終わったら三度礼拝。また、姿勢を正し合掌してお唱えを始め…を繰り返す。祭壇の前に渡瀬、その後ろに清美と莉奈が座っている。一頻り唱えたところで、渡瀬が小さい鈴を取り出し三回鳴らす。二人お唱えを止め、正座・合掌で姿勢を正す。
渡瀬 仮の庵の輩(かりのいおのともがら)は、庵の尊の御導きにて、常の幸世の千喜び(とこのさちよのちよろこび)、天満つ音に共振れん(あまみつおとにともふれん)ふるふらり、ふるふらり、ふるふらりー。
全員、合掌礼拝。上体を戻すと、渡瀬、二人に向き直り功徳印を行う。二人、頂戴印をしながら礼拝。渡瀬も合掌・礼拝。莉奈、すぐ立ち上がり出勤の準備をしようとする。
清美 莉奈ちゃん!残身!
莉奈 あ。
莉奈、戻って再び頂戴印で座礼。しばし。三人、ゆっくり上体を上げる。微笑む渡瀬。
渡瀬 はい。お二人共良く出来ました。
清美 (お腹を押さえつつ)駄目でしょ、残身を忘れちゃ。お唱えが終わった瞬間は一番危ないのよ。いつも言ってるでしょ?
渡瀬 そうね、莉奈さん。次から気をつけましょう。
莉奈 はい。
清美 次からじゃ駄目。今すぐ、気をつけなさい。今、ここから。
莉奈 うん、わかった。
莉奈、立ち上がる。
清美 莉奈、まだ話は終わってない。(立ち上がろうとするが、ドスンとした痛みを感じしゃがみ込む。)
莉奈 でも…仕事遅れる。
清美 あなた、仕事と天つ事(あまつごと)とどっちが大事なの!
莉奈 それは
清美 こっちに決まってるでしょ?仕事なんて天つ事をちゃんとしていたら勝手に調うの。それを、そんなにガサツに。
渡瀬 まあまあ、清美さん。そんなに怒らないの。あんまり怒ると、荒ん騒き(あらんざめき)に飲み込まれるわよ?
清美 あ。(深呼吸をする)
渡瀬 莉奈ちゃんも。気をつけてね。
莉奈 はい。
渡瀬 あ、次の昇段の会はどうする?莉奈ちゃんなら合格間違いなしだと思うけど。
莉奈 すいません。ちょっと。
清美 ちょっとなに?
莉奈 …今回は止めておきます。最近、あまり勉強できなかったんで。
清美 えー、何してるの。ちゃんと勉強しなきゃ駄目でしょ!
渡瀬 …参加費ならまた立て替えておくわよ?
清美 今度昇段したら地区長補よ?常子さんのお手伝いが出来るようになるのよ。なんでちゃんとしとかないの?
莉奈、沈黙。
清美 莉奈!
渡瀬 まあまあ。これからも機会はあるから。また今度ね。お仕事でしょ?
莉奈 はい。行ってきます。
渡瀬 行ってらっしゃい。
莉奈、合掌し頭を下げる。渡瀬も合掌・礼拝。莉奈、去る。
清美 ちょっと、莉奈、待ちなさい。
渡瀬 まあまあ、清美さん。しょうがないわよ。莉奈ちゃんも難しい年頃なのよ。
清美 年頃って、もう二十代よ?もっと大人になって欲しいわ。
渡瀬 そうね。
清美 ごめんなさい。後で言って聞かせるから。
渡瀬 大丈夫、大丈夫。それより、今日はどう?お腹。
清美 うん。お薬のお陰でだいぶ楽。軽くなってきた。(と言いつつ、身体が重そう。)
渡瀬 病院なんて、行ってないでしょうね。
清美 当たり前じゃない。あんな穢れ病みの巣窟。
渡瀬 そう。良かった。あの薬、地区長以上でないと手配出来ないのよ、お導師様の秘薬だから。身体に合うようならまた手配しておくわね。いるでしょ?
清美 ありがとう。それと、無農薬野菜セットと玉水(たまみず)の追加もお願い。
渡瀬 わかった。でもいいの?莉奈ちゃんに聞かないで。
清美 いいのよ。あの娘は、放っておいたらすぐ余計なことに使っちゃうんだから。
渡瀬 ああ、そうね。あ、でも確かもう、調え物(ととのえもの)購入もお志し(おこころざし)も上限ギリギリだったと思うけど。
清美 そうなの?…じゃあ、また名前貸して。
渡瀬 うん、わかった。
清美 なんで上限なんか作ったのかしら。面倒くさい。
渡瀬 外から攻撃されないようによ。悪質な団体だって言われちゃうからね。(頂戴印で座礼)ありがとうございます。
清美 (功徳印で受ける)どういたしまして。今日はどこに行くの?
渡瀬 駅北の市営住宅。集会所で癒やしの会よ。清美さん行けそう?
清美 行く。
渡瀬 大丈夫?この間みたいに倒れないでね?
清美 今日は大丈夫。他には誰が行くの?
渡瀬 加賀美さんが現地集合する予定。
清美 加賀美さん?
渡瀬 加賀美さん、嫌い?
清美 嫌いじゃないけど。ちょっとね。
渡瀬 ちょっと?
清美 ちょっと…苦手。だってあの人、理屈ばかり言うじゃない。ゆらぎとは物理的にどうとか、ビックバンがどうとか。
渡瀬 ああ、そうね。そういうの好きよね、あの人。
清美 そういうのじゃ、ないじゃない。相揺らぎ(あいゆらぎ)するっていうのはもっとこう素直に、心が、あの、あれじゃない。
渡瀬 うんうん、心と心が共鳴することが大事ってことでしょ?
清美 そう!それ!あの人みたいに、理屈でわかった気になるのって増上慢(ぞうじょうまん)だと思う。一番危ないわ。そうでしょ。
渡瀬 そうね。(自分の胸を触れ)大事なのはここで感じることよね。
清美 そうよ!
渡瀬 でも清美さん、あの人、会の中じゃ発言力あるから、他でそんなこと言っちゃ駄目よ。
清美 わかってるわよ。
渡瀬 じゃあ、準備しましょう。
清美 うん、着替えてくる。
清美、自分の部屋に行く。渡瀬、それを見送り
渡瀬 大人に…ね。
渡瀬も自分の部屋に去る。
[スーパーイゲタヤのバックヤード]
莉奈(声) 休憩頂きます。
莉奈、弁当を持って入ってくる。椅子に座り、深い溜息。と、店長が入ってくる。
店長 あ、空馬さん休憩?お疲れ様。
莉奈 あ、お疲れ様でした。
店長 (缶コーヒーを差し出し)飲む?賞味期限切れてるけど。
莉奈 いえ、コーヒー飲めないんです。
店長 そう、勿体ないね。コーヒー飲めないと人生の半分くらい損してるよ。
莉奈 そうですか。
店長 そう言えば空馬さん、今度も欠席?
莉奈 懇親会ですよね。すみません。
店長 (声を潜める)ねえ、もしかして、なにかあるの?いじめとか。
莉奈 いえ、無いです。大丈夫です。
店長 本当に?なんかあったら言ってよ?うちはほら、フェアネス重視のスーパーイゲタヤだからさ。
莉奈 はい。…あ、あの、じゃあ。
店長 うん、なになに?
莉奈 来月、シフト増やしてもらえませんか?
店長 えー、それは難しいなあ。昼間のシフトはもう一杯だしねえ。でも、なんで?
莉奈 ちょっと物入りなんです。
店長 えー、駄目だよ?若いのに無駄遣いしちゃ。
莉奈 すみません。
店長 うーん。でも難しいなあ。夜は入れないんでしょ?ほら、他の人のシフトもあるしさ、フェアにしないとごちゃごちゃするしさ。
莉奈 そうですか。
犬井(声) 休憩入りまーす。
犬井が入ってくる。
店長 ところで、夜はなんの仕事してるの?掛け持ちだよね?もしかして、あっち系?
莉奈 あっち系。
店長 水商売とか風俗とか。
莉奈 してません。ビル清掃です。
店長 そっか、ごめんごめん。でも、もしあれだったら、いっそそういう仕事どう?知り合い居るから紹介出来るよ?空馬さんなら、結構稼げると思うけど。
莉奈 …ええと、
犬井 店長、それハラスメントですよ。
店長 え、違うでしょ?無理強いしてないし、稼ぎたいならそういうのもあるよって言っただけ。とにかく、シフト追加は難しいかな。あ、でも見ておくから。
莉奈 わかりました。ありがとうございます。
店長、出て行く。犬井、莉奈の隣りに座る。
犬井 空馬さん、大丈夫ですか?
莉奈 え。あ、ありがとうございます。
犬井 店長ひどいですね。あんなこと平気で言える神経がわかりません。
莉奈、表情に困りつつ、弁当を開く。
莉奈 大丈夫です。店長なりに気を回してくれたんだと思います。
犬井 えー?空馬さん、優しすぎますよ。ああいう人にはガツンと行ってやった方がいいですよ。
莉奈 そうですね。
莉奈、いつもお弁当を持ってくる犬井が、今日は用意してないのに気がつく。
莉奈 …お昼は、食べないんですか?
犬井 作ってくるの忘れたんですよ。
莉奈 自分で作ってるんですか?
犬井 僕、食えるもの少ないんです。それ以外はオエッてなって。
莉奈 アレルギー?
犬井 違います。偏食ってやつですね。親には怒られてますけど治らないですね。
莉奈 そうですか。
犬井 空馬さんも、いつもお弁当ですよね。(莉奈の弁当を見て)それも、健康を考えた感じのメニュー。すごいじゃないですか。
莉奈 節約のためです。
犬井 あ、きゅうり。
莉奈 (つまむ)これ?
犬井 きゅうりは大好きなんです。浅漬けですか?
莉奈 ナムル風です。食べますか?
犬井 いいんですか!?
犬井、手を出す。手のひらに置く莉奈。犬井食べる。
犬井 うわ、いいですね。ごま油が効いてる。それにピリッとしますね。
莉奈 豆板醤。
犬井 ああ、いいなぁこれ。
莉奈 (弁当箱を犬井の前に置き)もし食べられそうなら、他のもどうぞ。
犬井 (惹かれる)いやいや、そんなわけに行かないですよ。空馬さんのお弁当じゃないですか。
莉奈 いいですよ。遠慮なく食べて下さい。
犬井 あ、じゃあ箸もらってきます!
犬井、売り場に箸を貰いに行く。莉奈、お弁当に向け功徳印を行いつつ、モゴモゴと口の中でお唱えごとを唱える。犬井戻ってくる。
犬井 もらってきました。
莉奈 (お弁当を渡す)食べられそうですか?
犬井 (弁当を見て)んー。なんか、大丈夫そうな気がします。いただきます。(早速一つ、おずおずと口に入れ)…あ、美味しい!いけます。(別なのを食べ)…あ、これも食べれる。すごいすごい。
以降、犬井、最初は遠慮しつつ、やがて大胆に食べていく。
莉奈 いつもはどんなの食べてるんですか?
犬井 唐揚げとポテトときゅうりです。あとは炭水化物。
莉奈 それは…それならお店の唐揚げ弁当とかは?
犬井 ああ、あれ最初は良かったんですけどね。味が単調で飽きちゃって。
莉奈 そうなんですね。
犬井 はい。あ、それとトマトあるじゃないですか。
莉奈 入ってますね。
犬井 トマトはもう匂いから駄目です。
莉奈 え、(犬井がつまんでいるものを指し)でも、その和物もトマト入ってますけど。
犬井 え!!…ええ?あ、本当だ!!…え、でもこれ本当にトマトですか?美味しいですよ?
莉奈 無農薬だから…ですかね。
犬井 へー。無農薬って美味しいんですね。
莉奈 美味しいとは限らないんですけどね。
犬井 え、そうなんですか?美味しいから高いんでしょ?
莉奈 無農薬だと、虫がつきます。そうすると、野菜は自分を守るために毒になる物質を分泌するんです。
犬井 え、毒!?
莉奈 って言っても即死ぬようなものじゃなくて、食べると苦かったり渋かったりエグみを感じたりする物質。それをアクって言います。
犬井 無農薬だとアクが強くなる?
莉奈 そうです。だからアク抜きが必要になったりするんですけど、アクはその野菜の風味でもあるから、少し残すとその野菜らしい美味しさを味わえるんです。
犬井 へー、アクってそういうヤツなんですね。そうか。「アクが強い」って「個性的」ってことですもんね。
犬井、お弁当を美味しそうに食べる。莉奈、それを見ながら、ロッカーから水筒を出し水を飲む。
犬井 でも空馬さん、詳しいですね。
莉奈 …こういう健康志向のもの売ってる会があって、お母さんがそこを応援しててどんどん買っちゃうんで。
犬井 へえ、お母さんもこだわり派なんですね。なんていう所なんですか?
莉奈 仮庵の会(かりいおのかい)っていうんですけど。
犬井 聞いたことないです。
莉奈 仲間内でやってるようなところなんで。
犬井 そうですか。うちの親はこだわりが無いんですよねー。まあ、偏食してる僕が言うことじゃないですけど。少しはこだわって欲しいです。(全部食べてるのに気が付き)あ!!すいません!!全部食べちゃってました…。
動揺する犬井。
犬井 ご、ごめんなさい。あの、あんまり美味しくて、つい。
莉奈 いえ、大丈夫です。
犬井 あ!代わりのお弁当買ってきます。なにがいいですか?
莉奈 大丈夫です、本当にお腹空いてないんで。喜んでもらえて、良かったです。
犬井 ごちそうさまでした。本当に美味しかったです。ありがとうございました。(弁当箱を莉奈に返す)
莉奈 いえ。
莉奈、弁当箱を受け取り、ロッカーにしまう。
犬井 …あの、空馬さん。今度、お弁当作ってもらうことは出来ませんか?もちろんお金は払います。
莉奈 え。いや、でも…。
犬井 駄目ですか?
莉奈 駄目じゃないですけど、…今日みたいのしか作れませんよ?
犬井 今日みたいなのがいいんです。自分で作ってましたけど、美味しくないんですよ。食べられるっていうだけ。餌です餌。せっかく食べるなら、空馬さんのお弁当の方がずっといいです。お願いします。
莉奈、なにか言いかけて、止める。自分に何かを言い聞かせる。
莉奈 …わかりました。明日からでいいですか?
犬井 ありがとうございます!!よろしくお願いします。あ、何か飲みます?奢ります。
莉奈 ごめんなさい。私、お茶とかお水しか飲まないんです。
犬井 じゃ、お茶買ってきますね!(犬井売り場に行く)
莉奈 あ。
莉奈、立ち上がりかけるが、座る。お弁当箱を見る。
[渡瀬家の居間]
莉奈、自分の弁当の箱の角を指でなぞる。具合悪そうに、清美が入ってくる。
清美 おかえり。
莉奈 あ、ごめんなさい、起こした?
莉奈、弁当箱を台所に持って行き洗い物を始める。
清美 なにかあったの?
莉奈 ん?なにもないよ?
清美 本当に?
莉奈 本当だよ。なんで?
清美、莉奈の後ろに立つ。
清美 いいことがあったんでしょ?
莉奈 え。
清美 いいことがあると、あなたは私に隠そうとする。私が怒るから。怒られたくないから嘘を付く。でも、私を騙せても、天満る常揺らぎは全てご覧になっているのよ。
莉奈 …。
渡瀬、外出から帰ってきたが、部屋の入口で二人の様子を見ている。
清美 なにがあったの?
莉奈 …お店で、
清美 うん。
莉奈 お弁当のこと褒められて、それで嬉しくなってしまって…ごめんなさい。
清美 男の人?
莉奈 …違うよ。女の人。
清美 なにがごめんなさいなの?
莉奈 …褒められたのは…お料理が美味しくなったのは、天満る常揺らぎが調えて下さったからで、なのに自分の力だって勘違いしてしまったから。
清美、莉奈をハグする。
清美 ほらわかっている。さすが私の娘ね。
莉奈 ごめんなさい。
清美 いいのよ。
渡瀬 ただいま。
渡瀬、部屋に入ってくる。
清美 お帰りなさい。
渡瀬 清美さん。身体は大丈夫?
清美 (莉奈から離れ)大丈夫、今日は具合いいみたい。
渡瀬 そう。
清美 でももう寝るわ。おやすみなさい。(渡瀬に合掌し礼拝)
莉奈 あのお母さん!
清美 …なに?
莉奈 ごめんなさい。今月…お金が足りないんだけど。
清美 なんで?無駄遣いしてるの?
莉奈 してないよ。仕事もちゃんとしてる。でも足りなくて…。
清美 無駄が無いなら、足りるはずでしょ?
莉奈 調え物とか会へのお志しを少し減らせない?
清美 駄目。
莉奈 でも、生活費はもうギリギリなんだよ?
清美 その辺は、私わからないから、あなたがなんとかして。(渡瀬に合掌・礼拝し)じゃあおやすみなさい。
莉奈 なんとかって…。
渡瀬 (清美に合掌・礼拝し)おやすみなさい。
去る清美。呆然と見送る莉奈。
渡瀬 …大丈夫よ。足りない分は私が出しておくから。
莉奈 でも、今までの分もあるのに。
渡瀬 いいのよ、おいおいで。いつでもいいから。
莉奈 本当にすいません。必ず返しますんで。
渡瀬 わかってるから。それより、清美さんを許して上げてね。良かれと思ってやってることなんだから。
莉奈 (反論しようとするが躊躇)…はい。
渡瀬 ありがとう。それより莉奈ちゃん。褒められたの?お弁当。
莉奈 いえ…それは、常揺らぎが調えて下さったおかげで…。
渡瀬 それだけで美味しくなるなら、料理なんてしなくてもなんでも美味しいはずでしょ?でも、そうじゃない。常揺らぎが調えて下さった美味しさを引き出したのは莉奈ちゃんの力。それは誇っていいことよ。
莉奈 そう、なんですか?
渡瀬 ええ。私も嬉しいわ。莉奈ちゃんが評価されて。清美さんは駄目ね。原理原則に囚われて。…でも、仕方がないわね。あの人は相揺らぎした人だから。
莉奈 それって本当の話なんですか?
渡瀬 信じられない?
莉奈 いえ。でもお母さん、細かいこと聞いても教えてくれないんで。
渡瀬 あの頃のこと、あまり思い出したくないんでしょうね。
莉奈 あの頃?
渡瀬 莉奈ちゃんは、邦夫さんのこと覚えてる?
莉奈 父ですか?あんまり。ほとんど家にいなかったし。…いなくなっちゃったし。
渡瀬 それ。邦夫さんの失踪がきっかけだったの。
莉奈 きっかけ。
渡瀬 元々ね、夫婦仲は良くなかったの。清美さんが会に入ったきっかけも、邦夫さんとの関係に悩んでたからだったの。
莉奈 え!そうなんですか?
渡瀬 うん。家族円満になる方法を会で学ぼうとしたのね。でも、邦夫さんはこういうの嫌いな人だったから、そのせいで余計こじれちゃって、別居するようになっちゃって。
莉奈 …だから、家にいなかったんですね。
渡瀬 そう。で、しばらく離れてたんだけど、邦夫さん、浮気してね、
莉奈 浮気、ですか。
渡瀬 好きな人が出来た、その人と一緒になるから別れてくれって言い出したの。その人の家に入り浸ってたみたいね。清美さんは認めなかった。で、激しく言い争いする様になったんだけど、ある朝、いなくなっちゃったの。荷物も何もかも置いたままで。
莉奈 手紙とかは?
渡瀬 無かった。八方手を尽くして探したけど、手がかり無し。清美さん。ひどく落ち込んでね。何日も部屋に閉じこもってたんだけど、一年後位かな、二十日唱文(はつかしょうもん)に参加するって言い出して。知ってる?二十日唱文。
莉奈 確か、ずっと天つ事を続けるんですよね?
渡瀬 そう。お堂に籠もって二十日間、最低限の睡眠と食事と排泄の時以外ずっとお唱えごとを続けるの。で、その満願の日、清美さん急にバターンって倒れてね。鼻血を流しながら、蕩ける様な笑顔で意味不明なこと呟いてて…。しばらくして、意識を取り戻したんだけど、「天満る常揺らぎと相揺らぎしてた」って言い出したの。
莉奈 それ、他の人は信じたんですか?
渡瀬 まさか。大騒ぎよ。そんなのお導師様しか出来ないって言われてたんだから。結局、お導師様が清美さんと話してね、本物って認めたの。
莉奈 本物…なんですか。
渡瀬 さあ。でもお導師様が認めた以上、本物なんでしょう。まあ一般の、それも女性が相揺らぎ出来るってなって、他の会員のモチベーションも上がったから、悪いことじゃなかったんだけど。…偽物の方が良かった?
莉奈 それは…。
渡瀬 私は偽物の方が良かったと思う。
莉奈 え?
渡瀬 清美さん、あの体験に振り回されてる気がするの。なにかって言うと、あの事言い触らすでしょ?他の会員も清美さんは地区の誉れだとか褒めそやすけど、陰で色々言われてるのよ。
莉奈 なんて。
渡瀬 (声を潜め)詐欺師だ、虚言癖だ。導師気取りの増上慢だ、異端者だ…なんて。
莉奈 …。
渡瀬 ひどいよね。それにあれ以降、やたら調え物を買ったり、お志しを納める様になったのもね、品が無い、傲慢だって。
莉奈 そう…なんですか?
渡瀬 清美さんには言ってないけどね。
莉奈 そんな…働いて…必死に切り詰めて…なのに、そんなこと言われてるんですか。
渡瀬 莉奈ちゃん…。
渡瀬、莉奈の肩を抱く。
渡瀬 ごめんね。黙ってた方が良かったね。
莉奈 …いえ。渡瀬さんは悪くないです。でも…。
渡瀬 うん。
莉奈 正直、もう…限界です。
渡瀬 そっか、そうだよね。わかった。私の方から言っておくよ。清美さんに。
莉奈 え。
渡瀬 少し控える様にって、調え物もお志しも。会の教えは日々の生活の道しるべであって、重荷になっちゃ本末転倒だもの。
莉奈 いいんですか?
渡瀬 もちろん!むしろ、今まで気が付かなくてごめんね。
莉奈 いえ、そんな。本当に、ありがとうございます!
渡瀬 いいのよ。莉奈ちゃんは私の娘みたいなものなんだから。
莉奈 ありがとうございます。…なんてお礼を言ったらいいか。
渡瀬 …ねえ莉奈ちゃん。いっそ、本当に私の養子にならない?
莉奈 …どういうことですか?
渡瀬 私ね、あなたには、いつかこの地区を継いで欲しいって思ってるの。
莉奈 私が?
渡瀬 そう。
莉奈 無理ですよ。私にはそんなの。
渡瀬 いいえ。あなたにはその才能がある。
莉奈 才能?
渡瀬 宗教団体はシステムなの。みんなを導く立場には、宗教的な真摯さとは別な能力が求められる。
莉奈 どんな能力ですか?
渡瀬 現実を見る目よ。
莉奈 現実。
渡瀬 お金、人、モノ、時間、環境、関係性。現実を忘れた団体は消滅する。上に立つ者は、現実も見据える力が必要なの。莉奈ちゃんにはそれがある。
莉奈 買い被りです。いつもお金に困ってるのは知ってますよね。
渡瀬 ええ。それをなんとかしようと頑張ってることも。ほとんどの会員さんはね、なんとかしようとしないの。清美さんみたいに。それを美徳だとさえ思ってる。でも、私たちはそれじゃ駄目なの。あの人達の捧げたい欲望を飲み込める器にならなきゃいけないの。莉奈ちゃんなら、きっとなれる。
渡瀬、莉奈に迫る。
莉奈 いや、あの、
渡瀬 もし、私の養子のなってくれたら、今まで借金はもちろん返さなくていいわよ。居候でもなくなるわ。仕事も辞めて会の活動に専念出来る様になる。いい事ずくめでしょ?…どう?
莉奈、渡瀬から離れる。
莉奈 …あの、お母さんに話してみま
渡瀬 清美さんは駄目よ。
莉奈 え。
渡瀬 あなたと清美さんは、荒ん騒きを生む関係なの。
莉奈 そう、なんですか?
渡瀬 ええ。どんなに真摯に天つ事に取り組んでも、家族で居続ける限り、どんどん苦しく、辛くなる関係。…お母さんを大切に思うなら、むしろ離れるべきなのよ。
莉奈、思い当たることがあり、動けない。
渡瀬 (口調を替えて)まあいいわ。今すぐ返事しなくてもいいけど、良く考えてみて。なにが本当の幸いなのか。ね?
莉奈 わかり、ました。
渡瀬 さ、洗い物は私がやっておくから、お風呂行っておいで。明日も仕事でしょ?
莉奈 いや、でも。
渡瀬 残り大したこと無いし。任せて。
莉奈 すみません。じゃあ、お言葉に甘えて。
渡瀬 はーい、行ってらっしゃい。
莉奈、合掌・礼拝する。渡瀬も合掌・礼拝。莉奈、風呂に行く。渡瀬、莉奈の手の感触を反芻している。
[スーパーイゲタヤのバックヤード]
犬井(声) 休憩入りまーす。
犬井、バックヤードに入ってくる。まだ誰もいない。椅子に座り、ワクワクそわそわしていると店長が入ってくる。
店長 お、犬井くん休憩?
犬井 はい。
店長 あれ、今日はどこか食べに出るの?お弁当は?
犬井 今日は外注してるんです。
店長 外注?えー、うちの買ってよ。どこの奴?配達ありならマルトミ?ぽっかり亭?
犬井 秘密です。
店長 えー。あ、デザートに「ふんわりフレッシュ生クリーム倍載せ濃厚ホットショコラ」いらない?新製品の試供品なんだけど。
犬井 あ、僕クリーム苦手なんです。
店長 えー、そーなんだ。クリーム苦手なんて人生半分損してるよ。
犬井 そうですかね?
莉奈(声) 休憩頂きます。
店長 あ、空馬さん例のシフトの件なんだけど。
莉奈 はい。
店長 常勤は無理だけど、今週の土曜の昼はどう?ここなら入れられそうなんだけど。
莉奈 え!あ、ありがとうございます!!
店長 うん、じゃあ入れておくね。あ、「ふんわりフレッシュ生クリーム倍載せ濃厚ホットショコラ」いらない?試供品。
莉奈 あー、ごめんなさい。私、
店長 だよねー。大丈夫大丈夫。しかしこれ人気ないなー。みんないらないっていうんだよね。売れるのかな、これ…。
ブツブツ言いながら、店長去る。それを確認してロッカーから弁当箱を取り出し、片手に弁当箱、もう片手で功徳印を結んで祈りをつぶやき、犬井におずおずと差し出す。
莉奈 あの、これ。
犬井 ありがとうございます!!(受け取り)午前中ずっと気になって仕事になりませんでした。開けていいですか?
莉奈 どうぞ。
犬井、弁当を開ける。
犬井 おお…彩りが。僕だと全部茶色系なんですよ。じゃあ早速。
犬井、お弁当を食べ始める。
犬井 美味しい!なんですかね。ジワーって来ます。ジワーって。感動です。
莉奈 オーバーですよ。
犬井 そうですか?すいません語彙力無くて。でも、本音ですよ。ほんと、美味しいです。
莉奈 ありがとうございます。
莉奈、感情が溢れそうになり、ロッカーに立ち、しばらくそちらを向いて心を落ち着ける。
犬井 空馬さん。ごめんなさい。
莉奈 え、食べられないものありました?
犬井 (財布を取りとしながら)違います。料金決めてませんでしたね。いくらにしましょう?
莉奈 (ロッカーから自分の弁当箱を取り出しつつ)いいですよ。自分ののついでに作っただけですから。
犬井 いや、よくありません。技術には対価です。そうじゃないと頼めませんよ。あ、じゃあ(お札を一枚出し)これでどうですか?
莉奈 え!いや、これは多過ぎます。半分で十分です。
犬井 えー。僕にとっては、これ位の価値あるんですけどね。あ、じゃあ、お言葉に甘えて、これで二回分ってことで。いいですか?
莉奈 ああ、それじゃあ、…はい。
犬井、莉奈の手にお札を握らせる。莉奈、呆然と受け取り、手の中のお札を見る。
犬井 …あの、なんかやらかしました?僕。
莉奈 いえ、なんかその、実感が無くてその、自分がしたくてしたことで、対価を貰えるって。
犬井 え、そうなんですか。
莉奈 はい。(お札を握りしめ、思わず頂戴印で押し頂く。)ありがとうございます。
犬井 …いっそ、料理の仕事目指したらどうですか?
莉奈 料理の、仕事?
犬井 ええ。空馬さんが働くお店なら僕行きますよ。
莉奈 無理ですよ。私のはそんなレベルじゃないです。全部独学だし。
犬井 独学でこれなら十分ですよ。好きでしょ料理するの?料理する間は時間忘れたりするんじゃないですか?
莉奈 !そう…ですけど。
犬井 僕ね、友達と起業したんですよ。
莉奈 起業って、会社作ることですよね?
犬井 はい。アプリ開発。まだ利益出てないんで片手間ですけど、大学卒業したらそっちメインでやります。
莉奈 すごいですね。
犬井 すごくないです。空馬さんと一緒です。
莉奈 一緒?
犬井 僕、コードと格闘するのが好きなんです。目標をエレガントにクリアするコード作るためなら何日でも徹夜できます。友達も、人集めてプロデュースするのが好きなんで会社の経営の方やってます。「するのが好き」はもう才能ですよ。
莉奈 そうなんですか?
犬井 まあ、料理の仕事って言っても色々ありますから、空馬さんにどんなのが合ってるかはわかりませんけど、どうせ稼ぐなら、自分がやりたい、やれることで稼ぎたいじゃないですか。
莉奈の心に一瞬、料理の仕事をしている自分の姿が浮かぶ。
莉奈 それは、いけないことです!許されないですよ。
犬井 誰が許さないんですか?
莉奈 え?
犬井、戸惑いの表情。
莉奈 …いえ…違うの。ごめんなさい。
犬井 え、あの。
莉奈 さ、早く食べないと。い、いただきます。
莉奈、頂戴印を結び、礼拝し弁当を食べ始める。
犬井 それ、なんですか?
莉奈、硬直する。
莉奈 それって?
犬井 ご飯の時、(印を真似して)こんなことしてましたよね?
莉奈 何かしてました?
犬井 してませんでした?
莉奈 ごめんなさい。記憶無いです。え、なにしてたんだろう。
犬井 なんか変った動作だったんで。無意識だったんならすみません。僕も、時々変な動作するって親によく怒られるんですよ。
莉奈 そうですか。あ、あの、…休憩終わっちゃうので、食べちゃいましょう。(普通に)いただきます。
犬井 …。
お弁当を食べ始める莉奈。莉奈を見る犬井。犬井の方を向けない莉奈。
[渡瀬家の居間]
お腹を押さえて唸っている清美。粉薬とコップの水を持って来る渡瀬。渡瀬、清美の上体を上げさせ、薬を飲ませる。ちょっとむせながら薬を飲む清美、そのまままた横になる。
清美 …ありがとう常子さん。
渡瀬 いいのよ清美さん。大丈夫?
清美 大丈夫。昨日の疲れが出たみたい。ちょっと無理し過ぎたわ。
渡瀬 そう。…痛み止め、買い足しておく?残り少ないみたいだけど。
清美 …。
渡瀬 どうしたの?
清美 莉奈がまた怒るかしら。
渡瀬 莉奈ちゃんが?なんで?
清美 言ってたでしょ?お金無いって。
渡瀬 そうだったわね。ゆゆしきことね。
清美 違うの。あの子も会の教えが正しいことはわかっているの。会に貢献する意味も。でも、あの子はまだ、常揺らぎを感じたことがないから。だから、根っこの部分で本気になれないんだと思う。
渡瀬 そうか。そうよね。確信を持てるかどうかの最後は実感だもんね。ああ、なら丁度いいイベントがあるわ。青年部の交流会。
清美 青年部?
渡瀬 そう、十代後半から二十代までの会員が集まって、一昼夜、語らいながら天つ事をするの。
清美 それって、男女一緒に?
渡瀬 そうよ。
清美 そんな、汚らわしい。
渡瀬 いやね、そういうのじゃないわよ。青年部の自主活動でね、若者同士で交流しながら、お導師様の教えへの理解や信仰心を深めるの。
清美 ともかく、莉奈は行かせません。
渡瀬 莉奈ちゃん自身はどうかしらね。
清美 あの娘はやっていいことと悪いことはわかってるわ。
渡瀬、吹き出す。
清美 …なにを笑っているの?なにがおかしいの?
渡瀬 ごめんなさい。莉奈ちゃんは、そういうことにも興味あるみたいだけど。
清美 どういうこと?
渡瀬 莉奈ちゃん、職場に気になる人が出来たみたいよ。
清美 気になる人?
渡瀬 そう。その人にお弁当褒められたって。
清美 あれは、職場の女性の同僚で。
渡瀬 それを信じてるの?
清美 …違うの?
渡瀬 違うに決まってるでしょ。
清美 異性だっていう証拠はあるの?
渡瀬 気になるなら青年部の交流会に誘ってみたらいいわ、清美さんが。
清美 私が?
渡瀬 そう。あなたから言われたら、余程のことが無きゃ断らないでしょ?莉奈ちゃん。女性の同僚っていうのが本当なら参加するでしょうね。
清美 断ったら?
渡瀬 相手がいる…ってことでしょ?
清美 いません。
渡瀬 大丈夫よ。だって、莉奈ちゃんは清美さんの子だもん。天つ事のためなら、なにもかも諦めてくれるわ。きっと。
莉奈(声)ただいま。
莉奈、入ってくる。
渡瀬 おかえりなさい。お疲れ様。
莉奈 お疲れ様です。
渡瀬 今日も遅くまで大変ね。
莉奈 いえ、(母に気が付き)あ、お母さん!お腹、大丈夫?
清美 大丈夫よ。莉奈、ちょっと来て。
莉奈 あ、洗い物ちょっとだけ。すぐ終わるから。
清美 莉奈!いいから来なさい!!
莉奈 あー…(渡瀬と目を見交わす)わかった。
莉奈、清美の前に正座して座る。
莉奈 なに?
清美 会の行事でね、今度、青年部の交流会っていうのがあるんだけど。参加する?
莉奈 交流会?
清美 そう。若い会員が集まって、丸一日天つ事を共にするの。
渡瀬 男女問わずね。
莉奈 …それに参加するの?
清美 参加する?
莉奈 いつ?
清美、渡瀬を見る。
渡瀬 今週の土曜日。県本部の会館に朝九時集合。
莉奈 土曜日?朝から?
清美 あなたお休みでしょ?土曜日は。
莉奈 …あの、その日はちょっと。
清美 なに?
莉奈 スーパーの方、追加でシフト入れてもらったの。臨時でだけど。
清美 断ってきなさい。
莉奈 いや…でも、こっちからお願いして、無理して入れてもらったから…。
清美 いいから断りなさい。
莉奈 仕事終わってからなら行ける。夕方には終わるから。
清美 あなた、天つ事をなんだと思ってるの。そんな適当な態度で恥ずかしくないの。天満る常揺らぎは全てをご覧になっているのよ。
莉奈 …でも。
渡瀬 清美さん、落ち着いて。(莉奈に)莉奈ちゃん、その日は仕事があるのね?
莉奈 はい。
清美 嘘つかないで!莉奈、正直に言いなさい!!
渡瀬 わかった。じゃあしょうがないわね。(ささやく)清美さんには言っておくから。早くお部屋に行って。
莉奈 すみません。
渡瀬 うん。
莉奈、部屋に向かう。清美追いかけようとする。それを止める渡瀬。
清美 莉奈!
渡瀬 清美さん、駄目よ。今あなた、心が乱れてるわ。常揺らぎは荒れた心を最も嫌うのは知ってるでしょ?だから病気も治らないの。ほら、お導師様の薬も効かなくなってきたんじゃない?
清美、胃液が込み上げるのを感じる。腹部の痛みが強まる。口に手を当て、胃液を飲み込む。痛みに耐えきれず、しゃがみ込む。渡瀬その耳元に。
渡瀬 このままだと、荒ん騒きに飲み込まれ、穢れ病みに食い荒らされて、久遠の闇に堕ちるわよ?
清美 嫌…嫌よ…。
渡瀬、清美を抱きしめる。
渡瀬 大丈夫。大丈夫よ。天満る常揺らぎは全てをご覧になってるの。清美さんが、正しく生きようとすれば、きっと救って下さる。だから、落ち着いて。莉奈ちゃんのことは私がなんとかするから。今は身体を休めましょう?ね?
清美、必死に息を調えようとするが痛みに邪魔され乱れるばかり。渡瀬、清美を支えながら部屋に向かう。
[スーパーイゲタヤのバックヤード]
犬井(声) おはようございまーす。
バックヤードに入ってくる犬井。ロッカーに荷物をしまい着替えをする。
莉奈(声) おはようございます。
入ってくる莉奈。
犬井 あ、空馬さん!おはようございます。
莉奈 おはようございます。(弁当を渡そうとする)あの、お弁当。
犬井 (受け取る)ありがとうございます!(財布からお金を出し)じゃあこれ。
莉奈 え、お金はもらってますよ?
犬井 いえ、これは次回からの分です。受け取って下さい。
莉奈 はあ。(受け取る)あの、これ多いですよ?
犬井 ごめんなさい。僕、忘れっぽいので、まとめてお渡ししておきます。少なくなったらまた言って下さい。
莉奈 (お金をしまう)…わかりました。
と、店長が入ってくる。
店長 あ、
莉奈 あ、おはようござい
店長 空馬さんさ、ちょっとあれはないんじゃない?
莉奈 はい?
店長 シフトのこと!せっかく用意したのを断るってのもどうかと思うけど、それを他人に言わせるって大人としてどうなのよ?
莉奈 断るって、どういうことですか?
店長 言われたよ、叔母さんって人に。さっき来てさ「莉奈ちゃんは、その日は大事な行事に参加する予定があるので、仕事は休ませて頂きます。」って。
莉奈 !?叔母さんって、誰ですか?
店長 え?だから叔母さん!同居してるんでしょ?渡なんとかさん。
莉奈 あ…。
店長 「自分からお願いした手前断り難いというので代理です。」って。僕、そんなに話しかけ難い?話すの嫌?
莉奈 そ、そんなことないです。
店長 とにかく、シフト追加の件は無しにしとくから。
莉奈 いや、あの、
店長 お願いだからさ、これからは、受けられないなら適当なこと言わないでよ。ね?
莉奈 …すみません。
店長 それとさ、空馬さん。なんか宗教やってるの?
莉奈 え…。
店長 あの人宗教の人だよね?パンフレット渡されたよ。その行事も宗教のやつなんでしょ?
莉奈 …あの、それは、
店長 いや別にいいんだよ。信仰は自由だからさ。でも、他の人を勧誘したり、絶対しないでよ?うちはフェアネス重視の店なの。特定の宗教とつながってるなんて言われたら困るからさ。
犬井 店長!空馬さん、宗教やってるなんて一言も言ってないじゃないですか。
店長 だから、やっててもいいの。みんなに迷惑かけないようにしてって言ってるの。常識の話だよ、一般常識。(莉奈に)そうでしょ?わかるでしょ?
莉奈 …すみません。(頭を下げる)
犬井 空馬さん!謝らなくていいですよ。決めつけてるのは店長で…(莉奈を見て)…え?
莉奈、店長に深々と頭を下げる。
莉奈 不安を与えて、すみません。このことで、皆さんには絶対迷惑がかからないように、気をつけますので、どうかクビにしないで下さい。お願いします。
店長 …いや、クビとかそういう話じゃなくて…。うん、まあ。気をつけてね。
店長、部屋を出る。莉奈、ロッカーを開け、着替えを続ける。
犬井 空馬さん、さっきの話、本当なんですか?
莉奈 …はい。
犬井 ふ、普通の所なんですよね?
莉奈 普通?
莉奈、犬井を見る。犬井、思わず後ずさりしてしまう。
犬井 (自分が後退りしたことに気が付き)あ、いや、違うんです。
莉奈 気持ち悪いんですよね?
犬井 そんなことはないです。
莉奈、財布から、前払いで預かった弁当代を取り出し、犬井に渡そうと。
莉奈 ごめんなさい。これ返します。
犬井 え、いやいいです。そのままで。
莉奈 受け取れませんか?なにも取り憑いたりしませんよ。
犬井 そういうことじゃなくて…あのですね!宗教してようとなんだろうと、僕は空馬さんの味方ですから。
莉奈 味方?あなたが?…絶対的な何かにすがらないと生きられない人の気持ちが、あなたにわかるの?わからないでしょ?わからないくせに味方のフリされる位なら、敵でいてくれた方がずっとマシよ!
莉奈、後悔する。お金をテープルの上に置く。
莉奈 ごめんなさい。でも、もういいです。もう、私に近寄らないで下さい。
莉奈、売り場に出る。
犬井 あの…。
言葉が出ない。犬井、渡されたお札をじっと眺める。
[渡瀬家の居間]
渡瀬と清美がお唱えごとをしている。
二人 庵の尊の稲剣(いなつるぎ)にて、荒ん騒きに穢れ病み、虚しの洞の召人(むなしのほらのめしうど)を、清め給え寿ぎ給え。ざくざくりざくざくり。ばさばさりばさばさり。
正座・合掌でお唱えごとを唱えつつ、ざくざくりから、調伏印を結ぶ。その後三度礼拝し、またお唱えを始める。姿勢を正して祈る渡瀬。這いつく張る様にして痛みに耐えながら祈る清美。しかし、清美、あまりに苦しくてお唱えを止め動けなくなる。
渡瀬 あら、どうしたの?清美さん。
清美 ごめん…なさい…。
渡瀬 お唱えが止まってるわよ?
清美 息が…続かなくて…身体が…
渡瀬 だからこそじゃない。あなたは、天満る常揺らぎと相揺らぎした人なんでしょ?
清美 待っ…て…すぐ…
清美、痛みで力が入らず、崩折れる。唸る。渡瀬、その背を擦る
渡瀬 死ぬのが怖いの?
清美 …。
渡瀬 怖いんでしょ?
清美 怖い。…私、死ぬの?ねえ、なんで死ぬの?私、正しく、生きてきたはずよ?
渡瀬 それを決めるのは、私たちじゃない。天満る常揺らぎがご判断されることよ。
清美 私は、相揺らぎしたのよ?なのに、
渡瀬 だからよ。
清美 え?
渡瀬 「自分はあの時、特別な存在になった。」その慢心があなたの天つ事を邪魔してるの。だから(清美のお腹に手を触れる)治らない。相揺らぎは素直な心じゃなきゃ辿り着けない境地なんでしょ?
清美 じゃあ…どうしたらいいのよ。どうしょうもないじゃない!
渡瀬 清美さん。
渡瀬、清美を抱きしめる。
渡瀬 あの時、相揺らぎしたことはもう忘れて。死ぬかも知れないという恐れも捨てて。そういう思いが、あなたを虚しの洞に追いやるの。あなたが今やるべきことは、天満る常揺らぎが救って下さると信じること。信じて天つ事に取り組むこと。一心不乱に。大丈夫、あなたなら出来るわ。
渡瀬、離れる。清美、正座・合掌する。
清美 庵の尊の…稲剣にて、
二人 荒ん騒きに穢れ病み、虚しの洞の召人を、清め給え寿ぎ給え。ざくざくり、ざくざくり。ばさばさり、ばさばさり。
声を、合わせお唱えごとを繰り返す二人。と、そこに帰ってくる莉奈。
莉奈 …(渡瀬に)何をしているんですか?
渡瀬 天つ事よ。
莉奈 それはわかってます。母は、病気なんですよ?
渡瀬 だからよ。清美さんが望んで始めたのよ。もう一度、天満る常揺らぎと、相揺らぎしたいって。
莉奈 そんなの、今の身体じゃ無理ですよね?
渡瀬 それを決めるのはあなたじゃないわ。天満る常揺らぎと、清美さん本人よ。
莉奈 死んだらどうするんですか!
渡瀬 いいじゃない。死んだら永遠に救われるわ。
莉奈、清美を止めようとする。それを止める渡瀬。
莉奈 放して下さい。
渡瀬 考えてくれた?あの話。
莉奈 え?
渡瀬 私の娘になってくれる?
莉奈 今、そんな話してる場合じゃ、
渡瀬 言ったでしょ?あなたたちは荒ん騒きを生む関係なの。二人が離れない限り、清美さんの苦しみは増すばかり。このままじゃ、荒ん騒きに飲み込まれ、穢れ病みに食い荒らされて、待つのは漆黒の久遠の闇よ。莉奈ちゃんは、お清美さんの魂を、闇に堕としたいの?
渡瀬、莉奈を後ろから抱きしめる。
渡瀬 私の娘になってくれたら、清美さんの苦しみもきっと落ち着くわ。お金のことも仕事のことも、生活のことももう悩まなくていい。莉奈ちゃんには私がついてる。何があっても、私が守ってあげる。あなたの味方は、私だけなのよ、莉奈ちゃん。
莉奈 …渡瀬さん。
渡瀬 なぁに?
莉奈 なんでお店に行ったんですか?勝手に私のシフト断ったりして。
渡瀬 (清美に視線を移す)このままだとあなたがケガレてしまうと思って。
莉奈 ケガレる?
渡瀬 気になる異性も居るみたいだったし。
莉奈 あれは、そういうんじゃありません。
渡瀬 会に参加してること、秘密にしていたのね。悲しいわ。でも仕方ないわよね。あそこには、私たちとは縁の無い人たちしかいないんだから。それは、莉奈ちゃんだってわかってるでしょ?
莉奈 そうですね。
清美を見る莉奈。悩む莉奈。しかし、渡瀬の手を振り払い、母に近づく。
莉奈 お母さん。駄目だよ、無理しちゃ。もう止めて、ねえ、お母さん。
清美、祈りを止めない。莉奈、清美の身体を掴み止めようとする。清美、バランスを崩して倒れる。
清美 邪魔しないで。
莉奈 死んじゃうよ、
清美 それでも…やらなくちゃ
莉奈 どうして?
清美 無駄になってしまう
莉奈 なにが!?
清美 なにもかも。私が捧げたもの、あなたから奪ったもの、なにもかも。もう最後まで、やりきらなかったら、駄目なの。
莉奈、清美と相対し肩を掴む。
莉奈 …お母さん。病院行こう。
清美 駄目。
渡瀬 病院なんて、穢れ病みの巣窟よ。身も心もケガレて、常揺らぎとの縁を切られて、待っているのは久遠の闇よ。行っちゃ駄目。清美さん。
莉奈 駄目でいいよ!無駄でいいよ!久遠の闇でもどこでもいいよ。このままここにいたってどうせ死んじゃう。行こう!病院なら、まだなんとかなるかも知れない。
渡瀬 いいえ。清美さんを真に救えるのは天満る常揺らぎだけよ。その唯一の救いを、御縁を、あなたは断ち切りたいの?
莉奈、渡瀬を見る。
莉奈 だったら、今!今ここですぐ治して下さいよ、お母さんの病気を!!お母さんも、私も、何もかも、捧げてきました!なんで、助けてくれないんですか!!今、お母さんを助けられないなら、私は、そんな神様、いらない!!
清美 りな…。
莉奈 お母さん、行こう。
清美、俯く。莉奈、清美を背中に背負う。清美、抵抗せず背負われる。冷たい目で二人を見る渡瀬。
渡瀬 …残念だわ。私、あなたを娘のように思っていたのに。
莉奈、渡瀬を見る。なにも言わず、母を連れ、部屋を出る。それを見送る渡瀬。
[病室]
ある病院の病室。診察の結果、清美は胃がんであること、他の臓器にも転移していて手のつけられない状況であることがわかり、緩和ケアを受けることになった。ベッドで安らかな顔で眠る清美。傍らで椅子に座り、うなだれるように母を見る莉奈。清美が目を覚ます。
莉奈 起きた?
清美 お水。
莉奈、PETボトルからコップに水を汲み、清美の上体を起こさせ、飲ませる。飲んで、ため息をつく清美。
清美 あり、がとう。
莉奈 苦しい?
清美 苦し、くない。
莉奈 そう、良かった。
清美、ベッドに横になる。
莉奈 …ソーシャルワーカーの人と話してきた。
清美 …。
莉奈 生活保護申請することになった。ガンがひどいから、緊急で色々進めてくれるって。家も探してもらえるし、つなぎのお金も貸してもらえそう。
清美 そう。
莉奈 渡瀬さんへの借金も、整理してくれる弁護士さん紹介してくれるって。
清美 そう。
莉奈 …色々あったんだね。申請すれば使えるもの。知らなかったよ。
清美 …。
莉奈 さっさと、使えば良かった。
清美 …。
莉奈 「大変でしたね。」だって。そんなに大変だったんだね、私たち。
莉奈、泣きそうになる。こらえる。
清美 あなたが、選んだんでしょ。
莉奈 私のせいだって言うの?
清美 あなたが、ここに連れて来たのよ。
莉奈、うなだれる。と、小さくノックの音。犬井が立っている。
犬井 あの。
上体を起こし努めて何気ない様にする莉奈。犬井、軽く頭を下げる。莉奈も軽く頭を下げる。
莉奈 どうぞ。
莉奈、清美に視線を戻す。おずおずと入ってくる犬井。しかし、莉奈に近づけない。持ってきた紙バックを差し出す。
犬井 これ、お店からです。
莉奈、立ち上がって受け取る。
莉奈 ありがとう。
犬井 あ、今回は賞味期限切れとか試供品とかじゃありませんよ。ちゃんとしたやつです。
莉奈 え。
犬井 店長、いつもみたいにやりそうだったんで、みんなで反対したんです。店長はセコいって!んで、みんなでそれぞれのオススメの商品を詰め合わせてみたんです。だから、統一感無いですけど、すいません。
莉奈、紙バックの中を覗く。食品やお菓子の他、化粧水なんかも入っている。
莉奈 お菓子にカップスープに…(化粧水の小瓶を持ち上げる)化粧水?
犬井 あ、それ日用品コーナーの佐々木さんのオススメです。天然成分だから、敏感肌でも大丈夫って。スープとかお菓子も、無添加の健康志向のやつです。添加物とか苦手でしたよね?
莉奈 …別に苦手じゃないけど。食べちゃ駄目だったから。
犬井 ああ、なるほど。それって(余計なこと聞きそうになり言い淀む)いや、なんでもないです。…あの。
莉奈 …。
犬井 この間は、すみませんでした。ホント、デリカシー無かったと反省してます。ごめんなさい。
犬井、頭を下げる。莉奈、お見舞いを、ベッド横の台に置く。
莉奈 そうね。すごくムカついた。
犬井 …。
莉奈 でも、他人にとっては所詮おもちゃみたいなものなんだって、わかった。…それは、あなたのおかげ。
犬井 本当にすみません!!ごめんなさい。
莉奈 違うよ。…感謝してるの。
犬井 え?
清美 …だれ?
莉奈 あ…職場の同僚。
清美 お弁当?
莉奈 …そう。褒めてくれた人。
犬井、清美に頭を下げる。
清美 汚らわしい。
犬井 え、すみません。
莉奈 そういうんじゃないから。
清美 ほんとに?
莉奈 本当。
犬井 (勇気を持って)あ、あの。空馬さん。
莉奈 なに?
犬井 また、この間みたいに、お弁当作ってくれませんか?僕、空馬さんの料理好きなんです。空馬さんの料理なら食べられるんです。お願いします。
莉奈 …君なら他にも選択肢あるでしょ?
犬井 あるかもしれませんけど、空馬さんのがいいんです。
莉奈 なんで?
犬井 美味しいからです。
莉奈 他にも美味しいものなんていくらでも…。
犬井 僕の偏食を舐めないで下さい。他の人にとってどんなに美味しくても、自分が食えるものしか食えないんです。
莉奈 あのね…。
莉奈、言葉が思いつかない。清美を見る。
清美 勝手にしなさい。
莉奈 勝手に?
清美 だってもう…どうせ、死んだら、久遠の闇に堕ちるのよ、あなたも、私も。
莉奈 …そう、だね。そうだった。
莉奈、犬井に正対しお辞儀をする。
莉奈 ありがとう。でも、今は正直考える余裕ないの。…落ち着いたら改めて…でいいかな?
犬井 それでいいです。…じゃあ、僕帰ります。あの!どうかお元気で。
莉奈 お店の皆さんに、よろしく言ってね。
犬井 はい!じゃあ、また!失礼します!
頭を下げて去る犬井。
清美 真面目そうだけど、頼りないわね。
莉奈 だから、そういうんじゃないから。
清美 邦夫さんの方が、ずっといい男だった。
莉奈 …そうなの?でも、浮気したんでしょ?
清美 浮気?
莉奈 うん。浮気して、失踪したって渡瀬さんから聞いたよ。
清美 常子さん…。
清美、押し黙る。
莉奈 え、違うの?
清美 あの人がそう言ったのね?
莉奈 うん。
清美 …邦夫さんは浮気なんかしてないわ。
莉奈 え?そうなの?
清美 私と邦夫さんは、荒ん騒きを生む関係だから、家族でいるほど、不幸になるって。実際、あの人、苦しそうだった。私やあなたと暮らしていても、いつも何か我慢してた。私のせいで、もっともっと苦しむことになると思ったら、とても、耐えられなかった。だから、別れたの。
莉奈 それで?お父さんは?
清美 家を出て、一人暮らし初めてね。でも、一か月後に…死んじゃった。自殺したの。
莉奈 え!?失踪したんじゃないの?
清美 遺書も何も、残ってなかった。他殺って話もあったけど、結局自殺として処理されて。
清美、押し黙る。
莉奈 …なんで、今まで話してくれなかったの?
清美 …私が、殺したようなものだもの。あの人を、あなたから奪って、捧げたの。
莉奈 それは、違うでしょ。
清美 生命保険、邦夫さんが掛けてたの。お志しにしたわ。残してくれた家も、あなたの学資保険も、貯金も何もかも、常揺らぎに捧げたの。
莉奈 (自分を納得させるように)だって、正しいと思ってたんでしょ?
清美 思ってた。…でも、言えなかった。
莉奈、これは母の告解なんだと気づく。しばし沈黙。
清美 …怒らないの?
莉奈 怒ってるよ。最悪だよ。でも、今更、どうしようもないじゃない。
清美 許してくれる?
莉奈 許さないよ。お母さんは、久遠の闇に堕ちるんだよ。私とね。
清美 戻らなくていいの?
莉奈 どこに?
清美 常子さんの所。
莉奈 …戻るわけないじゃない。私は、お母さんがいたからあそこにいたの。いないなら、必要ないよ。
清美 支えが無いのは辛いわよ。
莉奈 …もし、お母さんのガンが、奇跡的に全部無くなって全快したら、改めて考えるよ。
清美、薄く笑う。
清美 …そう…じゃあ、長生きしないとね。
清美、病室の窓から外を見る。莉奈も外を見る。雲間から太陽が覗き、明るい日差しが刺す。
莉奈 …静かだね。
清美、うつらうつらと眠りに入る。莉奈、空に向かって無意識に合掌しようとして、気が付き、手を開き、顔を覆う。やがて、その手を降ろして、清美を見る。敷布団の上に出ている手を握る。
おしまい